大平氏
木瓜に三つ巴
(藤原氏流近藤氏族) |
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土佐の大平氏は、高岡郡蓮池城主で、細川氏に属し、室町時代から戦国時代に土佐国の守護代的地位を得て威勢があり、細川家七人衆の一に数えられた。その出自は『見聞諸家紋』に「土佐藤、近藤国平末」とみえることで、藤原秀郷より五代の孫にあたる近藤太脩行の後裔と考えられる。
『八幡荘伝承記』によれば、「建久三年(1192)七月源朝臣頼朝公征蝦夷大将軍任じ、諸国に地頭を置く。土佐国には藤原恒信・元国・国信・蘇我國光らを守護に任ず。吾川山荘別府八幡庄は藤原恒信がこれを領す」と記されている。ここにみえる守護は役職としてではなく、領主的な意味で記されたものであろう。そして、藤原国信は、かつて蓮池家綱が居城した高岡郡蓮池城に入り、大平氏を名乗ったという。
伝説的要素が強いが、国信は藤原秀郷流で、兄に高岡郡尾川郷に入部した近藤元国がいた。国信以後、勝信・国嗣を経て敏国に至り、敏国の弟光国は大平弾正を称し、幡多郡湊川を領してそこに移り、元弘の変で配流された後醍醐天皇の皇子尊良親王を迎えたことが知られている。
大平本宗の敏国は蓮池にあって活動し、高岡郡北部の別府・吾川山・八幡三庄を領した中山信恒の後裔忠政にかわって弟の光国を守護代に任じた。時に、元享ニ年(1322)であったという。しかし、光国は幡多に居り、次男の左衛門次郎光綱を派遣して、みずからは後見となり、光綱の惣領制的統制のもとに、一族は佐川を中心として、広まっていった。光綱は八幡庄河間に居館を設け河間氏を称し、蓮池城の大平氏、大高坂城の大高坂氏とともに南朝方として活躍した。
大平本宗は蓮池城に拠って、戦国期には四千貫の領主として威勢を誇った。応仁の乱に際しては、細川勝元の客将として上洛して戦列に加わり活躍した。また、一条教房の土佐下向にあたっては乗船を用意してこれを迎えた。山城守国雄が一族の中心となって活動したといわれている。
文人武将-大平国雄
国雄は上京して、細川家のみならず五山の禅僧や公家衆とも交わり、和歌を冷泉為広に学ぶなど文化的教養を身につけた。「大平之女房」という女性が一条教房夫人と縁者であったというのも、このような交渉のなかから生じたものであろう。さらに、外港の宇佐から堺に大船を往来させて、貿易の利を占め、富強であったと伝えられている。
このようにして力を蓄えた国雄は、佐川・越知・浦ノ内から鴨部方面にまで勢力を伸ばしていった。
「応仁の乱」が起ったとき、一条教房が京の戦乱を避けて土佐国幡多庄に逃れたが、それに尽力したのは大平氏であった。その背景には、教房夫人と縁者を女房にしていたことがあったことは疑いない。ただ、教房の幡多庄に尽くした大平氏の名前は不明である。しかし、当時の状況からみて国雄であったことは確実である。
このように、一条氏の縁にも連なる大平国雄は歴代のなかでも、とくにすぐれた文化人であった。年月は不明であるが、国雄は細川勝元の画いた達磨の賛を建仁寺の住持天隠龍沢に求めたことがあった。「細川龍安寺殿仁栄居士画、大平国雄、求賛」というもので、国雄と天隠の交遊を物語っている。また天隠のあとを継いだ月舟寿桂は、国雄が京より帰国するに際し、詩を送っている。
さらに『陰涼軒日禄』によれば、永享三年(1489)七月、細川政国の禅昌院において、詩僧・歌人・それに細川一族、従臣が加わって詩歌の会が行われ、国雄もこの席に列し、歌をよんでいるのである。
このように、国雄の風雅の教養は、京文化の土佐への移植に一役かったことはいうまでもない。そして、このような大平氏の文化的傾向は国雄にとどまらず、大平氏代々にみられるところであった。これが、戦国期にあっても社寺の造営・修築など、数々の文化上の事績につながっている。
このころから、大平氏の政治・軍事・文化面の繁栄も頂点に達する。しかし、それ以降は文芸への関心をもちすぎたこと、在京性の強さから本領支配を十分に把握しえなかったこと、一条氏の東進による打撃を受けたことなどから衰亡へと傾いていったのである。
大平氏の滅亡
国雄のあとは隠岐守元国が継ぎ、戦国時代の大平氏は「土佐の七雄(七守護)」と呼ばれる有力国人に成長していた。土佐国は細川氏が守護をつとめ、岡豊城主の長宗我部氏が細川氏を後楯として勢力を伸張していた。しかし、ともすれば横柄な態度をみせるの長宗我部兼序に対して、土佐国人らは不満を強めていた。やがて、京都の政変で細川氏が混乱に陥ると、元国は本山梅渓の呼び掛けに応じて、吉良・山田の諸氏とともに反長宗我部連合を結成した。そして、永正五年(1508)、長宗我部兼序を攻め討死させた。
その後、元国は永正十六年(1519)、一族の河間氏と縁の深い庄田の鯨坂八幡宮や吾川郡芳原村の若一王子社を修造し、大永五年(1525)には、父についで越知の横倉社を修造するなど、敬神の誠を尽くしている。しかし、一条・本山・津野・長曾我部氏らの強豪との複雑な角逐のなかにあって、大平氏の地位を守り抜くことが困難な時代に遭遇した。
『土佐国編年事略』によれば、「津野氏が一条家と争ったとき、津野は援助を本山に乞うた。本山実茂は軍を率いて津野を助けて戦ったが、合戦に利なくして軍を還した。このとき、大平山城守も本山実茂に従って軍を州崎に出して一条家と戦った。その後、津野氏は一条家に降り、一条家は大平氏に兵を向け敗れた大平氏は滅亡した。」と記されている。
別書には、「天文十四・五年、津野基高一条家に降りし前後、大平氏も一条家に降参せしを、子細ありて其の地を奪い城番とし、大平には戸波村にて小地など与えて堪忍し居りたりしを、のちに異心など起こして其の事顕われ、討手来たりて戦死に及ぶ」とある。
このとき戦死したのが元国であり、元国には権頭といわれる遺児があったが、のちになって、永禄九年(1566)一条氏に攻められ、戸波村の積善寺で自殺したと伝えられている。ここにおいて、大平氏の正統は滅びさった。
■讃岐の大平氏
同族に、讃岐国三野郡の大平氏がある。『全讃史』によれば、「大平城、和田村に有り、大平伊賀守国祐ここにおる。国祐、姓は近藤、田原藤太秀郷の裔なり。その家譜に曰う、秀郷十三世の孫 国時、采を駿州大平郷に食す、因りて大平を氏となす。その五世の孫 国隆、讃岐の三野郡仲村及び財田を食邑とし、山地右京進の麾下となる。山地氏亡び、香河氏の麾下に属す。勇を以って名を揚げ、後 村を失う。剃髪して仏に帰し、法華経を懐きて、推門海に投じて死す。その男 国常、仙石氏に従い、豊後に於いて戦死す。次子 僧となり、寅瓊と云い、善通寺に住し、終に嗣を絶つと云う」とみえている。
■ 家紋=ご子孫の方からいただいた「五鐶に三つ巴」の紋。紋の意匠は、木瓜の五鐶部分と三つ巴を合体したものと思われる。
■参考略系図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
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