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鶴田氏
●三つ星
●嵯峨源氏渡辺流
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鶴田氏は嵯峨源氏を称する松浦氏の一族である。『松浦家世伝』によれば、岸岳城主の波多源次郎持の二男来が鶴田太郎を称し、その子起は大河野日在城主大河野知の女を室とした。その子馴は蒙古襲来に際して出陣、活躍したことで、戦後、幕府から佐里・泊・牛牧などの所領を安堵された。以後、南北朝争乱の時代から室町時代における鶴田氏の動向は必ずしも詳らかではない。ただ、波多氏の一族として惣領家と行動をともにしていたものと思われる。
また、南北朝の争乱期において松浦党は北朝方として活躍したことが知られ、鶴田氏も松浦党の一員として所々の合戦に出たものと思われる。そして、戦国時代初期の明応三年(1494)、少弐政資が筑前高祖城を攻撃したとき、惣領家波多氏、相知・有浦ら氏とともに鶴田氏も少弐氏に協力して出陣したことが知られる。
鶴田氏の活動が知られるようになるのは、天文年間(1532〜54)ごろで、鶴田因幡守伝の代においてである。そのころ、日在城主の大河野氏に後継者が絶え、鶴田伝の長男直が後継者に迎えられた。その結果、鶴田氏は日在城に本拠を移し、廃城となっていた獅子ケ城を修復して二男の前が城主となった。かくして、鶴田氏は東肥において、波多・草野氏らと並ぶ存在となったのである。
戦国乱世に翻弄される
鎌倉時代から室町時代にかけての北九州の有力者は、大宰少弐に補された武藤少弐氏であった。しかし、大内氏が北九州に進出するようになると、少弐氏と大内氏の抗争が繰り返され、次第に少弐氏は劣勢に傾いていった。
そのようななかで少弐氏の被官であった龍造寺氏がにわかに勢力を拡大し、少弐氏の屋台骨を背負う存在になった。龍造寺氏の存在を妬んだ少弐氏の重臣馬場頼周は、主君少弐冬尚を動かし一計を案じて、有馬・松浦一党の決起を少弐氏に対する反抗とみせかけて、龍造寺氏に討伐を命じた。頼周は主力の出払った龍造寺氏の本拠、水が江城攻略をねらったのである。
龍造寺軍は鶴田前の拠る獅子ケ城を包囲、攻撃したが、容易に落とせなかった。龍造寺軍は一隊を割いて波多の岸岳城、鶴田氏の本城日在城攻撃に向かわせた。龍造寺軍が分散したことを知った岸岳城主波多興は、龍造寺軍軍を前後から包囲、攻撃して、潰滅的打撃を与える勝利をえた。この敗戦ののち、龍造寺氏は馬場氏の謀略によって一族の多くが討たれ、大きく勢力を失墜した。
天文十一年(1542)、波多興が死去したが実子がなかったため、後継者をめぐって興の未亡人と鶴田氏・日高氏ら重臣との間で確執が生じた。結果、有馬晴純の三男藤童丸が迎えられて、波多氏の家督を継承した。それからほどなく、家督をめぐって波多氏と対立した鶴田直と日高資は、巧言をもって岸岳城に招かれ謀殺された。いわゆる、邪魔者として排除されたのである。
兄の死を知った鶴田前は岸岳城を攻めたが、岸岳城は要害堅固でついに落すことができなかった。しかし、このときの果敢な戦いぶりによって、前の武名は上がり、松浦党の盟主となるまでに知れ渡った。その後、波多氏と鶴田氏は和睦したが、今度は、衰退した龍造寺氏を継ぎ、大内氏の援助を得て勢力を復旧した龍造寺隆信が獅子ケ城を攻撃してきた。
これは、龍造寺隆信が勢力を拡大することを危惧した大友宗麟が、元亀元年(1570)、佐賀城を攻撃したとき(今山の合戦)、波多・鶴田・草野の上松浦の三氏はそろって大友氏の味方をした。戦いは、龍造寺家の重臣鍋島信生の乾坤一擲の奇襲によって大友軍の敗戦に終わった。窮地を脱した隆信は、いつか上松浦三氏を征服しようと決心したのだという。
かくして、隆信は鶴田前の守る獅子ケ城に攻め寄せたのである。前は勇将であり、龍造寺軍の攻撃に屈することなく、激戦が展開された。この事態に前の弟勝は、みずから使者となって龍造寺軍に出頭し、和を乞うたため、ついに和睦となり前も城を開いて草野氏攻略の先陣を担うことになった。
戦乱の中に埋没する
その後、龍造寺軍は草野氏を攻め、これを降したことで上松浦の争乱も一段落した。その後、つかの間の安穏が訪れたが、天正四年(1576)、波多鎮・伊万里治・有田盛らが有馬氏にそそのかされて、隆信に従っていた獅子ケ城を攻撃してきた。不意をつかれた前は加番として獅子ケ城にあった龍造寺河内守・馬渡主殿らとともに防戦、これに日在城の勝も援軍を出し、波多勢らと戦ったが、ついに前は城外の戦いで壮烈な戦死を遂げた。
龍造寺隆信も援軍を発し、波多氏らを追い払うと、逆に岸岳城を包囲、攻撃した。万事窮した波多鎮は龍造寺軍に降伏し、伊万里・有田氏もそれぞれ降伏して龍造寺氏と和睦した。戦死した越前守前は、その武勇と民衆に施した仁政から神として祀られ、いまも「鶴田神社」として崇敬を集めている。
前の死後、家督は嗣子上総介賢が継いだ。賢は前在世のころから父とともに戦場で活躍していた。永禄六年(1563)、有馬氏が龍造寺氏を攻撃したとき、隆信に味方して有馬の将本田純嗣を多久に攻めている。賢は温厚な質の人物で、波多氏との間も父の越前守前と違ってよく親睦を保ち、両家の平穏共立を図った。また、信仰心にも厚く、賢が建立した宗教的石造物も多く残っている。余談ながら、賢はのちに九州を平定した秀吉から仕官を嘱望されている。
その後、隆信は波多鎮に養女を嫁がせ、婚姻関係を結んだ。そして、上松浦の諸氏に対して波多氏の幕下につくように命じた。この事態に日在城の因幡守勝は、これまでのいきさつから頑強に拒否したため、隆信の怒りをかい一命は助けられたものの城を追われた。その後、勝は後藤氏の家臣になっている。
一方、獅子ケ城の上総介賢は客観的状勢を察知して、隆信の命に従い、波多氏に属して獅子ケ城を保った。ところが、波多氏は朝鮮出兵時における不手際で文禄二年(1593)、秀吉から知行を没収され常陸に追放された。結果、波多氏に従った鶴田氏ら上松浦党の諸氏も四散の憂き目となったのである。かくして、肥前松浦党の中世も終わりを告げたのであった。・2005年4月13日
【参考資料:肥前町史・唐津市史 ほか】
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