山代氏
三つ星
(嵯峨源氏渡辺流)
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山代氏は松浦氏の一族で、十二世紀半ばの松浦源四郎大夫直の六男源六囲を祖としている。『松浦山代文書』に、建久三年(1192)源頼朝より、山代囲が山代の地頭に補された文書があり、囲が実在の人物であったことが裏付けられている。
山代氏の場合、この源頼朝の文書から永徳四年(1384)の松浦党一揆契諾状まで、七十通の文書が『松浦山代文書』として伝えられている。
続く一族の相論
『松浦山代文書』には、所領をめぐる相論に関する文書が多く含まれている。そもそも囲の母は、清原三子であったが、直は三子を離別して後妻を迎えた。囲は父直の後妻の連れ子に所領を譲られることを恐れ、母三子から寿永二年(1183)に所領を譲られたと主張している。これに、三子の甥(姉の子)にあたる尋覚(青方氏の祖)、直の後妻の連れ子連の主張が絡み、結果は囲に有利な判決ではなかった。
その後、正治元年(1199)の伊万里文書から松浦清・峯披・山代囲の兄弟とかれらには甥にあたる大河野治、ならびに峯披の相婿の津吉重平らが、頼朝のあとをついだ頼家に見参、所領の安堵を受けていることが知られる。
囲のあとは固で、値賀・五島惣追捕使並御綿御使に補任されている。固には子がなかったため、猶子広をもって家督となした。ところが、その後、固の遺領をめぐって相論が起こった。すなわち固の後妻と前妻の娘らお間で行われたもので、実に二十年に及んでいる。当時の、武家社会における一所懸命の実態がうかがえるのである。
中世争乱を生きる
さて、広のあとは諧が継ぎ、文永十一年(1274)の蒙古合戦において対馬で討死した。その子栄は父の功によって肥前国恵利村の地頭職を得た。そして、栄も弘安四年(1281)の蒙古再来に際して壱岐島において奮戦、功を上げ、戦後に肥前国神埼の田地十町屋敷畠地を賜った。
とはいえ、弘安の役の功に対しては、容易に恩賞の配分がなく、松浦一族地頭ら二十余人が鎌倉に参向せんとした。しかし、それは止められ志佐継・有田深、そして山代栄の三人が鎌倉に参向した。山代氏が松浦一族のなかにあって、重要な位置にあったことを示している。そして山代氏は、戦いののち八年にして神埼に恩賞の地を得たのである。
幕府は蒙古襲来に活躍した御家人たちに、配分すべき恩賞の地がなく、それが御家人たちの幕府に対する不満を増大し、ついには幕府滅亡へと連鎖していくことになる。
南北朝期になると、北朝方に属して延文四年(1359)の「大保原の合戦」に際して、弥三郎弘は松浦勝・志佐有・有田持・波多武らとともに少弐頼尚に従って出陣した。ついで応安四年(1371)、新九州探題として呼子に上陸した今川了俊を、松浦勝・平戸直・伊万里貞らが出迎えたが、そのなかに山代遠江守栄も混じっていた。このように、山代氏が参加する松浦党は、北朝方の九州探題に属して活躍したが、南北朝の争乱が終息し、室町時代後期の長享三年(1489)ごろには、北九州の実力者として勢力を拡大した少弐氏に属するようになった。
戦国期の山代氏
やがて、戦国時代になると北九州の地には中国の大名大内氏の勢力が及ぶようになり、少弐氏は次第に大内氏に圧迫されるようになった。天文三年(1534)、大内・少弐の和睦がなったものの資元は自殺。その後、竜造寺隆信が大内氏に味方して少弐冬尚と戦うようになり、隆信に追われた冬尚は筑後に逃亡、回復を図ったが成らず、永禄元年(1558)少弐氏は滅亡した。
永禄五年(1562)、大内氏と対立する大友義鎮が、上松浦の波多鎮と高来の有馬晴純に呼び掛けて、少弐政興を取り立て少弐氏を再興しようとした。これに、下松浦では松浦親・伊万里直、そして山代清が応じ、竜造寺隆信に対抗した。かくして、有馬勢を中心とする反竜造寺勢と千葉氏と連合する竜造寺軍とが対峙した。しかし勝敗は決せず、ついに、鶴田・田代、さらに波多氏らが竜造寺氏に寝返ったことで、有馬勢の敗北に終わった。
その後、大友氏の肥前侵攻を退けた竜造寺隆信の勢力が拡大し、天正五年(1577)、竜造寺隆信は下松浦に進攻いてきた。これに対して、伊万里治、山代城主の山代虎王丸(貞)らは和議を求めて竜造寺軍に降った。天正八年、竜造寺軍の一翼を担って肥後に遠征したとき、松浦盛、山代虎王丸、平戸の鎮信の三人が松浦衆の陣代をつとめた。
天正十二年、旭日昇天の勢いにある龍造寺隆信は有馬・島津連合軍と沖田畷で戦い、まさかの戦死を遂げ、龍造寺氏の勢力は大きく後退した。代わって、島津氏の勢いが活発となり九州一円を席巻するほどになった。しかし、天正十五年、大友宗麟の依頼をいれた豊臣秀吉の九州征伐が行われ、島津氏は薩摩に逼塞するに至った。
九州を平定した秀吉は仕置きを行い、山代孫七郎貞は龍造寺氏の与力として本領を安堵された。その後、龍造寺氏に代わって鍋島氏が佐賀の領主になるとこれに仕え、鍋島姓を許されて芦原鍋島氏として近世に続いたのである。
【参考資料:北方町史 ほか】
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