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有田氏
●三つ星
●嵯峨源氏渡辺氏流
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有田氏は松浦党の一で、源源次別当久の子四郎大夫直の三男三郎栄が祖である。栄は有田地方を分譲され、有田城を築くと有田氏を名乗ったとされている。有田栄が築いた有田城は有田川畔にあって、舟形をした天然の流紋岩上に築かれた堅固な城で唐船城とも呼ばれた。
栄の兄の源二郎清は宗家を継承し、有田氏は「今福の有田」と呼ばれ、宗家に属する存在でもあった。寿永三年(1184)、栄は源頼朝の旗揚げに応じて、惣領清とともに出陣して戦死した。そのあとは、重が継いだが、重には男子がなかったため、娘石亀姫に宗家丹後守直の三男結を迎えて家督を譲った。結は文永の役、弘安の役に出陣、無事生還を果たしている。
結も男子に恵まれず娘に一族庄山氏から持を迎えた。持の代は南北朝の争乱期にあたり、持は延文四年(1359)の大保原の合戦に松浦党の一員として出陣している。
中世の争乱
ところで、南北朝初期の九州は、尊氏から鎮西管領(のち九州探題)として任じられた一色範氏が、九州南朝方の中心勢力である菊池氏との間で合戦を繰り返した。しかし、一色氏は石垣山の合戦で菊池氏に惨敗し、一色氏に加担した松浦党も甚大な被害を受け、文和四年(1355)一色氏は九州から去っていった。石垣山の合戦には有田氏も出陣し、孫亀丸代三郎入道が負傷して帰国している。
一色氏が去ったのち、斯波氏経が九州探題として下向してきたが南朝方の優勢に推移し、ついには征西将軍宮懐良親王を擁する菊池武光の活躍によって、征西将軍府の黄金時代が現出した。北朝方の後退とともに有田持は菊池方に味方したようだが、九州探題として今川了俊が下ってくると、南朝方は劣勢に追い込まれていった。永和二年(1375)、九州南朝方の中心である菊池氏は肥後の本拠に追い詰められた。かくして、了俊の活躍によって九州南朝方は逼塞、ふるわなくなった菊池武重は有田氏を頼って大里に陰棲したと伝えられる。
南北朝時代も末期の元中四年(1387)、松浦党は結束を誓った「血判状」をかわしたが、その中に有田出雲守持の名も見えている。ついで、南北朝の合一の成った明徳三年(1392)、松浦一党四十五名が会盟したが、そこには「ありたのよしの若狭守」の名が記されている。ついで、応永二十八年(1421)の「誓約書」には、庄山薩摩守実の名が見えている。
持のあとは、実が継いだとされるが、実後の有田氏の動向はまったく分からなくなる。さらに、有田氏の本城である唐船城は宗家相神浦(今福)松浦氏が城主を兼任するようになっている。おそらく、南北朝末期に有田氏の嫡流は断絶し、有田氏の所領と家臣は宗家相神浦松浦氏が支配するようになったものと考えられる。
相神浦松浦氏に併呑される
戦国時代になると有田氏は、まったく宗家相神浦(今福)松浦氏の配下に属し、唐船城は城主不在のまま梶谷城主松浦丹後守家が兼帯していた。いいかえれば、有田氏は松浦丹後守家に併呑されていたといっても過言ではない。
さて、『海東諸国記』によれば、「上松浦源盛、丁丑年(1457)使を遣わし来朝す。その書に肥前州上松浦丹後守源盛と称す。(中略)少弐殿の管下、麾下に兵を有す」とみえている。有田盛が朝鮮交易を行い、財力の蓄積に意をもちい、また、少弐氏に接近して威を振るったことなどが知られる。
盛の孫政は大智庵城を築いて支城としたが、平戸松浦氏の攻勢に敗れ、明応七年(1498)に戦死し、嫡子の幸松丸は平戸松浦氏に捕えられた。その後、平戸を脱出した親は相神浦飯盛城を築き、勢力挽回を図った。親は平戸松浦氏の脅威に対して少弐資元の子鎮を養子に迎えて、それに対抗しようとした。しかし、すでに少弐氏は衰退期にあり、今度は、有馬晴純(仙岩)の子五郎盛を養子に迎えた。
永禄六年(1563)、平戸松浦興信のあとを継いだ隆信は、全兵力をあげて相神浦を攻撃した。相神浦勢は隆信の攻撃をよく防ぎ、戦いは永禄九年まで繰り返された。その間、頼みとした有馬氏の援軍もなく、次第に相神浦方は劣勢に陥った。ついに親は龍造寺氏らの仲介をいれて、隆信の三男九郎親を養子に迎え、平戸松浦家に降ったのである。
その後、親の前養子盛が相神浦に帰ってきた。親は平戸松浦氏と和睦するにあたり、有馬氏とは話しをつけていなかったため、盛の処遇に窮した。しかし、盛をたてれば平戸氏と、親をたてれば有馬氏との間が不穏となる。一策を案じた親は、九郎親を相神浦に、五郎盛は有田の唐船城に拠らしめ、みずからは入道して宗全と号しまったく陰棲してしまったのである。
有田氏の復興
かくして盛が有田に入り、有田氏が復興された。盛は有馬氏と結び、元亀三年(1572)正月、相神浦を攻めたが大敗して唐船城に引き上げた。有田氏と相神浦松浦氏との戦いは、本来一家のことでもあり、親子・兄弟が敵味方に分かれるという悲惨なものであった。
以後、有田盛はまったく振るわなくなり、天正四年(1576)、龍造寺隆信が西松浦に侵攻、伊万里・山代氏らは隆信に降伏した。盛は混乱のなかで病没し、未亡人は隆信に請うて、その末弟で須古城主阿波守信周の三男信脇を養子に迎えた。ここに至って、有田氏は龍造寺氏に屈してその家臣となり、結果はともあれ近世へと生き残ることができたのである。・2005年4月13日
【参考資料:佐賀の戦国人名志/松浦史 ほか】
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