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鴨打氏
●三つ星二つ引両
●嵯峨源氏渡辺流
 


 鴨打氏は鎌倉時代以来、肥前松浦郡一帯に勢力を有した松浦一党に属していた。系図によれば、波多持の子至がはじめて鴨打を称したことになっている。
 そのいわれとして、後鳥羽院の御宇、至は上洛して禁中の警固にあたっていた。そのとき、院が飼われているいる鴨のところへ、一羽の新鴨が飛び来って双方嘴合戦に及んだ。これを見た至は走り寄って、扇を以って新鴨を打ち、院の鴨を守った。この至の行動を愛でた院は「鴨打」の名字を与えて、美濃守に任じたとある。

鴨打氏、芦刈へ入部

 その鴨打氏が肥前国芦刈に入部してきたのは、永正年間(1504〜1520)のことで、鴨打美濃守秀が小城の西千葉胤繁に招かれたことによる。そして、美濃守秀は芦刈の東部地区中溝の永林寺と宝泉寺に城館を築き、以来、地頭として千葉氏、ついで龍造寺氏、鍋島氏と仕えることになった。
 千葉胤繁が鴨打氏を招いたのは、当時、東千葉氏と抗争を続けていたことと、有馬・渋江の両氏に対する備えを固めようとしたことにあった。鴨打氏が入部した芦刈・牛津には、千葉一族の徳島氏も同じころに入部している。以後、鴨打氏と徳島氏は敵になったり味方になったりしながら、戦国時代を生き抜くのである。
 鴨打一族の中では美濃守の孫にあたる陸奥守胤忠が、とくに武勇に優れていた。永禄五年(1562)、龍造寺氏と対立する有馬氏と大村氏が攻め込んできたとき、胤忠は西芦刈の徳島氏とともに手兵数百を率いて出陣した。そして、龍造寺軍の先鋒として柳鶴に転戦、戦後、その功により小城の右原八十町歩の地を加増された。
 龍造寺隆信の活躍によって、龍造寺氏は肥前を席巻するようになった。そのような龍造寺氏の存在に危惧を抱いたのが、豊後の大友宗麟であった。元亀元年(1570)、宗麟は十万の大軍を動員し、龍造寺氏の本城である佐嘉城に迫った。このとき、江上・小田・高木氏ら肥前の諸勢力は大友氏に味方して、攻撃軍に加わった。
 大友の大軍に囲まれた佐嘉城は陥落寸前で、さすがの龍造寺隆信も滅亡を覚悟した。そのとき、龍造寺氏の将鍋島直茂(当時信生)が奇策をめぐらし、大友氏が本陣を置く今山に夜襲をかけ、大友軍の大将大友親貞の首級をあげる大勝利をえた。この戦いに胤忠も数百騎を率いて出陣し、華々しい武功をあげている。この「今山の合戦」の勝利によって、龍造寺隆信は勢力を挽回し、大友・有馬勢を追い払い、一躍北九州の戦国大名に成長したのである。
 天正十二年(1584)、龍造寺隆信は「沖田畷の戦い」に敗れて戦死、龍造寺氏に代わって鍋島氏が肥前一円を領有することになった。江戸時代に至って、佐賀藩初代藩主勝茂の長子元茂が小城支藩に封ぜられたが、その折、鴨打一族は元茂の家臣として小城に転居した。・2005年6月17日


■参考略系図
 
  


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