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相神浦松浦氏
●三つ星/梶の葉
●嵯峨源氏渡辺氏流
松浦氏は嵯峨源氏の代表紋である「三つ星に一文字」にちなむ「三つ星」を用いた。また松浦氏の祖が肥前国松浦郡に住して松浦を名乗り、同郡内梶谷に居を構え、諏訪神社を勧請したことから、梶紋も用いるようになったと伝えている。そして、松浦氏の梶の葉紋はとくに「平戸梶」と称されている。
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中世肥前国の荘園のひとつに「宇野御厨荘」があり、西国武士団として著名な松浦党の根拠地として知られる。
松浦氏の出自に関しては、嵯峨源氏渡辺氏流というのが定説である。すなわち、嵯峨天皇の皇子源融の孫源綱の子久が松浦郡に下向して土着し、はじめて松浦氏を名乗り、松浦源氏の祖になったというものだ。しかし、松浦氏の出自については異説が多い。「後三年の役」に敗れ、のちに源義家に仕えた安倍宗任を祖とする説もある。
松浦氏の発展
通説に従えば、渡辺綱の曾孫にあたるという源久は、延久元年(1069)御厨検校に任ぜられて松浦に下向した。久は松浦・彼杵郡及び壱岐の田およそ二千三百町を領して志佐郡今福に住した。そして、松浦の中心に位置する今福梶谷に館を構え、背後の城山に勝屋城を築き、松浦氏発展の基礎を築いたのである。
久には直・持・勝・聞・広・調らの子があり、それぞれ波多・石志・荒古田・神田・佐志氏の祖となった。久のあとは直が継ぎ、直のあとは二男の清が継承した。そして、三男の四郎栄は有田、四男遊は大河野、五男五郎披は峯、六男囲は山代、七男連は小値賀を称して、それぞれ分家を起こした。さらに、それらの子孫から庶子家が分かれ、子孫繁栄して下松浦・上松浦党を立て、四十八家あるいは五十三家が一揆契諾して世に松浦党と称されるようになったのである。
一般的に松浦氏といえば、近世大名に生き残った平戸を拠点とした松浦氏が知られる。しかし、平戸松浦氏は直の五男峯五郎披の後裔にあたり、本来の松浦氏の嫡流は清の流れである今福松浦氏であった。
松浦党と呼ばれる武士団のことが、当時の日記や記録に見えはじめるのは平安末期ごろである。歌人の藤原定家の日記「明石記」にも「鎮西の凶党、松浦党と号す。数十艘の兵船をかまえ、彼の国(朝鮮)の別島に行き、合戦して民家を滅亡し、資材をかすめ取る…」とある。
源平合戦のとき、松浦党は「平氏」の側に味方し、文治元年(1185)三月二十四日の「壇ノ浦の戦」に際しても平家軍の一翼を担って出陣した。しかし、戦いの最中に形勢不利とみて「源氏」に寝返ったと伝えられている。
平家が滅亡してのち、源頼朝は鎌倉に幕府を開いた。はじめ平家に加担したとはいえ、松浦党の西国における勢力は頼朝も高く評価した。建久三年(1192)、峯五郎披が御厨荘の地頭に任じられ、正治元年(1199)には宗家松浦清、大河野遊、山代囲らが鎌倉に上って、旧領保全の朱印を得ている。
・今福梶谷にちなんだ「梶の葉」紋
相神浦に本拠を移す
領土の安堵をえた今福松浦氏は、梶谷城に拠って勢力を維持したが、清の子遶(めぐる)は、現在の佐世保市に近い相神浦の武辺に城を新たに築いて、本拠を相神浦に移した。建仁年間(1201〜03)のことであったという。以後、戦国時代のはじめに至るまで相神浦が宗家松浦氏の拠点となった。
十三世紀、大陸では蒙古が勢力を強大化し、宋はもとより周囲の国々は蒙古に蹂躙され、満州・高麗も蒙古の属国と化した。蒙古は日本にも使いを派遣して国交を結ぶことを求めてきたが、ときの幕府執権北条時宗は、使いを追い返し返書も送らなかった。
蒙古はフビライの代に中国を統一し、文永八年(1271)国名を「元」と改めた。そして、文永十一年対馬、壱岐に来寇して暴虐の限りをつくし、さらに、松浦半島の沿岸の島々をも侵略、松浦党の武士団も数百人の死傷者を出したといわれている。ついで、博多に迫り、東は箱崎から西は今津にいたる沖合に舳を連ねて侵入した。
集団戦法をとり兵器も優る元軍に対して、日本軍は非常な苦戦となった。ところが、おもいがけぬ大暴風雨の襲来によって、元軍の軍船は難破し、あるいは浅瀬に打ち上げられ、兵士の大半が溺死するという結果になった。
文永の役後、幕府は元軍の再来を予期して、九州の北岸とくに博多湾附近に防御陣地を築かせた。その築造には相神浦松浦定をはじめ松浦党の諸家も参加した。弘安四年(1279)、元軍はふたたび来襲、六月末に平戸島から五島列島一帯を侵して博多に迫った。元軍と日本軍との戦いは熾烈で、相神浦松浦定も松浦一族とともに奮戦、活躍した。この弘安の役も大風によって、元軍が潰滅したことで日本軍の勝利に終わった。日本は二度にわたって、危ういところを時ならぬ大風によって元の侵略を防ぐことができた。大風が、のちに神風とよばれた所以である。
元冦に活躍した松浦党は、幕府に恩賞を要求したが受け入れられなかった。幕府にしてみれば、元軍の侵略を防御した戦いであり、恩賞を与えるにも土地がなかったのである。しかし、松浦党の諸氏は、志佐、山代、有田の三氏を代表として鎌倉に送り訴え、肥前国神崎荘内の田島屋敷の配分をうけることができた。
中世の争乱
元冦によって幕府は御家人たちの信望を失い、ついには滅亡へと事態は推移することになる。元弘三年(1333)、後醍醐天皇の討幕運動によって幕府は滅亡し、建武の新政がなったが、それも足利尊氏の謀叛によって崩壊した。以後、日本国内は南北の両朝に分かれて戦いが繰り返されることになる。いわゆる「南北朝の争乱」時代となったのである。
相神浦松浦氏の当主、丹後守正は南朝に尽くして忠勤を励んだが、嫡子の丹後守清は足利氏に加担した。一方、平戸松浦家では当主の肥前守定は南朝に仕え後醍醐天皇の信任をえたが、弟の勝は尊氏に味方して筑前多々良浜の合戦にも尊氏に味方して奮戦した。
このように相神浦・平戸の両松浦氏ともに、親子・兄弟がそれぞれ南北両朝に分かれて相戦った。やがて、南北朝の争乱は北朝方=足利方の優勢となり、ついには明徳三年(1392)南北両朝の合一がなった。相神浦・平戸の両松浦氏ともに南北朝の争乱時代を生き延びることができたが、足利氏は松浦党に対して疑いの目を向けていた。そのため、松浦党は応安(文中二)六年(1373)、永徳四年(1384)、明徳四年(1393)の三度に渡って一揆契諾を行い足利氏に忠勤を誓って、領地を保全することをえた。
室町時代、松浦党は倭冦と称される「水軍兵力をもつ海上豪族」として行動した。当時朝鮮で書かれた「海東諸国記」によると、肥前の上、下松浦は「海賊」の拠点で、高麗末期に半島の南岸を侵したのは、おもに松浦、壱岐、対馬の「三島海賊」であるとされている。
松浦地方は地形が複雑で、多くの島々や津々浦々に存在する松浦党武士団を統率する実力者はあらわれず、松浦党の諸家がそれぞれの領地に割拠するという状態にあった。そのような中から、平戸の松浦氏が頭角をあらわし、勢力を四方に拡大するようになる。かくして、松浦地方も戦国時代の荒波に身をさらされることになるのである。
平戸松浦氏との抗争
戦国時代になると、相神浦松浦丹後守盛は、相神浦から佐世保に通じる要所に位置する大野の瀬戸越に城を築いてこれに移った。すなわち北方の平戸松浦氏の南進、南方の有馬・大浦氏らの北上に備えるためであった。この城が大智庵城で、戦国時代における相神浦松浦氏の拠点となった。
相神浦松浦氏が大智庵城を築いて周囲に備えたころ、平戸松浦氏では内訌が起っていた。
延徳三年(1491)、平戸松浦氏から出て田平の峯氏を継いだ源五郎昌と弟で平戸松浦氏を継いだ肥前守弘定とが対立し、弘定の攻撃を受けて敗れた昌は島原の有馬氏を頼った。これを好機とした有馬貴純は大村純忠、大智庵城主の松浦丹後守定らを誘って平戸に攻め寄せた。
連合軍の攻撃に敗れた定は平戸を逃れて周防の大内義興のもとに奔り、支援を求めた。大内義興の斡旋で弘定は旧領を回復することができたが、平戸松浦氏は相神浦松浦氏を深く恨み、両者の対立は決定的となった。その後、定が死去して、明応七年(1498)、嫡子の政が十五歳で大智庵城主となった。政は丹後守を称して相神浦、有田、今福、黒島、鷹島、佐世保を領有した。ところが、狩場におけるゆきちがいから、政は家来の山田四郎左衛門から怨まれることになった。相神浦を出奔した山田四郎左衛門兄弟は、平戸に行き弘定に自分が案内者になるから是非とも政を討伐してほしいと頼んだ。弘定にしても、先年の恨みを晴らす好機であり、ただちに相神浦攻めを決定した。
明応七年十二月、弘定と興信の父子は大野源五郎を総大将として、山田の案内で間道から大智庵城を急襲した。大智庵城はわずか一夜で落城し、政は自害して果て、平戸勢は政の内室と子の幸松丸を人質として平戸に連れ帰った。翌明応八年、政の内室と幸松丸が今福の年の宮に参詣したところを政の遺臣らが奪還し、幸松丸は有田の唐船城に入りそこで成長した。その後、幸松丸は親と改名して家臣らとともに旧領の回復を図った。
松浦宗家の再興
永正九年(1512)、相神浦の地で蜂起した松浦親は、相神浦の飯盛山に城を築き、平戸松浦氏に対する一大勢力となった。やがて、佐嘉の竜造寺阿波守の斡旋で相神浦松浦氏は平戸松浦氏と和解の運びとなり、江迎、三浦で親と弘定が会見して両者の和睦がなった。そして、親の叔父にあたる少弐資元の奔走によって、幕府は今福・有田・相神浦を親に返還するように命じ、相神浦松浦氏は旧領を回復することができた。享禄四年(1531)のことで、相神浦一帯は従前のように、松浦宗家が支配するところとなったのである。
旧領を回復したとはいえ、時は戦国時代であり、領土を保全し勢力を維持するため親は少弐資元の子鎮を養子に迎えて万全を期そうとした。しかし、少弐氏の勢力が衰えると、島原にあって勢力を拡大する有馬氏と結ぼうとして有馬氏から盛を新たに養子として迎えた。ここに、有馬氏の後楯を得た松浦親は、亡夫の仇である平戸松浦氏の攻略を企図したのであった。
一方、平戸の松浦隆信は南進を目論んで、相神浦攻撃の軍を起した。天文十二年(1543)隆信は、親の領地である鷹島、今福を攻め、翌年には相神浦の飯盛城を攻めた。しかし、天険を誇る飯森城は平戸松浦勢の攻撃をよく防御し、戦いは一年有余に及んだ。この間、飯森城下は平戸勢に蹂躙され、領民は塗炭の苦しみを嘗めるに至った。領民の窮状を見た親は、ついに有馬の仲裁を入れて、鷹島を平戸領とすることで和睦した。
こうして、一時の平穏が訪れ、相神浦親、平戸隆信、武雄の後藤純明、大村の大村純前らの間で、それぞれ姻戚関係が結ばれた。しかし、そのような関係も戦国時代にあっては儚い絆に過ぎず、平穏も長くは続かなかった。
永禄六年(1563)、相神浦松浦氏が後楯とする有馬氏が龍造寺氏と戦って敗れ、勢力を大きく失墜した。平戸の隆信はこれを好機として相神浦攻撃の軍を起した。平戸勢は海陸の両面から相神浦に迫り、鉄砲隊を先頭にして飯森城に襲いかかった。相神浦勢は隆信の攻撃をよく防ぎ、戦いは永禄九年まで繰り返された。その間、頼みとした有馬氏の援軍もなく、次第に相神浦方は劣勢に陥った。ついに親は龍造寺氏らの仲介をいれて、隆信の三男九郎親を養子に迎え、平戸松浦家に降ったのである。
徳川旗本として存続
その後、親の前養子盛が相神浦に帰ってきた。親は平戸松浦氏と和睦するにあたり、有馬氏とは話しをつけていなかったため、盛の処遇に窮した。しかし、盛をたてれば平戸氏と、親をたてれば有馬氏との間が不穏となる。一策を案じた親は、九郎親を相神浦に、五郎盛は有田の唐船城に拠らしめ、みずからは入道して宗全と号し、まったく陰棲してしまったのである。
かくして、松浦宗家である相神浦松浦氏は平戸松浦氏に屈し、平戸氏が惣領家となったのである。その後、親のあとは嫡男の丹後守定が継いだが、定は朝鮮の陣に出兵して討死した。子孫は徳川氏に取り立てられ、代々江戸に住居し幕府旗本として続いた。・2005年4月13日
【参考資料:佐賀の戦国人名志/松浦史 ほか】
【松浦一族】
●平戸松浦氏
●波多氏
●宇久氏
●鶴田氏
●山代氏
●伊万里氏
●青方氏
●志佐氏
●有浦氏
●有田氏
●鴨打氏
■参考略系図
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