葛西氏を支えた武将家
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葛西氏が奥州五郡に入部のとき、同族である千葉氏もともに入部している。また、建治二年(1276)、葛西太守清時の養子となった千葉介頼胤の子胤信は、十五歳で元服して清信と名乗り郎党数百人を従え奥州に下向した。結果、葛西氏の家臣には千葉氏の分かれを称する者が多い。もちろん、葛西氏から分かれた江刺・
柏山・大原の諸氏も、家臣となって宗家葛西氏を援けた。
また、葛西氏と同じように関東から入部し、葛西氏と対抗した熊谷氏、首藤山内氏、そして、鎌倉幕府の能吏を多く出した二階堂氏らも、やがて葛西家臣となっている。
葛西氏はこれらの家臣団をもって、南北朝期、戦国時代を生き抜いてきたのである。しかし、戦国時代末期になると、葛西氏の老朽化は進み、有力家臣、一族との抗争が頻発する。ついには、それへの対応に手間どったことから小田原参陣を果たせず、葛西氏は奥州仕置を迎えることとなるのである。
そして、豊臣秀吉による奥州仕置の結果、葛西氏は領地を失い、新しい領主として木村伊勢守父子が入部してくる。しかし、木村氏は暴政でのぞみ、葛西・大崎に属した旧武士団はこれに対抗した。「葛西大崎一揆」とよばれるこの乱には多くの葛西家遺臣が参加した。一揆の背景には伊達政宗の扇動があったともされている。
叛乱は政宗の目論見通りに運び、十九年には葛西大崎旧領が伊達家の所領に内定することで伊達軍団総動員による一揆討伐が行われる。春には大崎領の宮崎城攻略に続いて登米郡佐沼城が包囲され、一週間の攻防ののち陥落し、有名な佐沼城の"ナデ斬り"で二千五百余人が討ちとられた。さらに、同年八月には桃生郡江糠塚山で、多数の一揆物頭衆がだまし討ちで全滅し、伊達氏の相次ぐ術策と蹂躙の中で、葛西氏遺臣の多くは息の根を止められるのである。
葛西氏が完全に没落すると、家臣団はそれぞれに保身の道を選んだ。葛西氏傍系重俊はじめ伊達家に勤仕する者が多かった中で、葛西晴信の子と伝わる信景はじめ、大身の柏山・江刺・長坂・浜田・大原氏らはひとしく南部家を志向した。
栗原郡三迫の雄富沢幽斎は伊達寄りで、天正十八年小田原から政宗に親書を送られている者だが、逸早く転身して南部家に仕え、慶長六年の和賀兵乱では南部の将として出陣、伊達家の剛勇鈴木将監重信と夏油川で一騎討ちとなり、鈴木を討ち止めている。
葛西家遺臣らは門前にサイカチの木を植え、同志の目印とした。「カサイカツ」を合言葉に再起を誓ったのであった。サイカチ伝説はまさに葛西家臣衆怨の声なき声ではなかったろうか。
■葛西氏に属した武将家
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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