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陸奥馬籠氏
月星?
(奥州千葉氏の一族)
千葉氏の代表紋を掲載。実際の家紋をご存じの方はご教示ください。


 奥州千葉氏の一族。千葉介胤正の末子胤親が寛喜二年(1230)、桃生郡深谷に移り住み、その子胤次が後を継ぐが、跡継ぎに恵まれず七十二歳で亡くなった。その後は弟の子で養子忠次が継ぎ宮内少輔を称した。そして、その子忠広が正応二年(1289)年、本吉郡馬籠村に移り馬籠氏を称した。
 忠広の嫡子広行は馬籠遠野城を築いてそこに移り住み、弟の広胤は気仙郡矢作に移って矢作を称している。広行は元徳元年(1329)に五十九歳で没しており、その子周防守行胤が南北朝の動乱期に遭遇した。ちなみに行胤の妹は熊谷直光に嫁した。
 建武三年(1356)、行胤は葛西高清に突如遠野城を攻撃される。迎え撃つ行胤の兵力は五百騎。このとき、妹婿の熊谷直光は一族郎党一千騎を引きつれて馬籠氏の援軍に向かった。しかし、葛西軍の猛攻の前に行胤をはじめ、弟の掃部丞胤久、右兵衛尉行範、子の帯刀行重、小五郎慶次が討死にした。しかし、遠野城は陥落しなかったため、葛西軍は矛先を熊谷一族へと向けた。
 熊谷氏は本拠地である気仙郡赤岩城に籠って葛西軍を迎え撃った。激戦のなかに当主直時以下一門がほぼ全滅したが、なお城は落ちず、葛西軍は退却していった。一方、馬籠氏も一族が壊滅してしまったため、行胤の子胤宣は葛西氏に降伏した。これを契機にその後約百年間近く、馬籠氏の消息は遥として伝わっていない。

馬籠氏の復活

 永享二年(1430)、馬籠修理亮政行があらわれ、かつての盟友熊谷氏と合戦している。馬籠氏は、空白の時期にも営々と力を蓄えて来たのであろう。政行の子政次は永正二年(1505)、領地をめぐって本吉信胤と合戦して戦死した。これ以降馬籠氏と本吉氏は犬猿の仲となり、代々合戦を繰り広げることになった。
 永正十一年(1514)には大和守重吉の名があらわれ、その子重胤は永禄七年(1564)三月、葛西氏に刃向かい討伐されたと伝えられている。重胤のあとは弟の重長が馬籠氏の惣領になっており、おそらく重胤は罪を得て歌津村に所替えされたのであろう。ところが重胤は豪の者で、後日、歌津の隣国の元良大膳大夫と摩擦を生じ、天正十四年(1586)四月合戦に及び、元良方の大将黒崎兵部を討ち取っている。
 この争いは葛西支族元良氏の専横を制すべく、葛西宗家により意図された紛争のようで、馬籠氏が窮地に追い込まれると、葛西晴信みずから出陣、北から浜田安房を、南から赤井氏や福地氏に命じて挟撃させている。かくして、重胤は太守の信頼を取り戻したようだ。そして歌津馬籠氏は本家以上の実力を得、重胤の子重如、さらに重俊と継承した。重俊は奥州仕置ののちに伊達氏に迎えられ、金山奉行として二百石を与えられて伊達家臣となり、子孫は伊達藩士として明治維新まで続いた。
 一方、本貫地に残った嫡流馬籠氏の動向は不明だが、重長の子直長は逸材で長崎城熊谷氏の養嗣子に迎えられ、大守晴信の特使として活躍したことが知られている。

【参考資料:葛西中武将録】



■参考略系図
 
  


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