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岩淵氏
三つ柏
(桓武平氏葛西氏の支族)
*家紋五葉勝軍ともいう。 幕紋は水車下一文字、丸に三葉柏と伝える。


    前九年の役に源頼義・義家軍が、安倍貞任によって散々な敗北を蒙ったのが黄海の合戦場であった。その要衝の地を鎌倉時代以来領した豪族が岩淵氏であった。千葉氏の一族といわれるが、その出自は諸説あって謎が多い。
 家伝によれば、藤原秀郷の後裔小山下野大掾政光の弟に下河辺行義があり、その裔で下総国岩淵郷に移った行経の子に定経があった。その養子に葛西清親の子清経が入り、嘉元三年(1305)に奥州の八沢に下向し定着した。それが岩淵氏の祖であるとする。しかし、清経は葛西清時の四男とするものもあるが、年代的には清親の子とする方が妥当なようだ。また、葛西系譜には四代太守清経は、嘉元三年、「宗方の乱」に与し、罪を得て陸奥国に配流になり葛西清信に預けられたとあり、それが岩淵の祖の清経であるとする説もある。年代的には合致するが、周囲の状況からみて無理があるようだ。いずれにしても岩淵氏の場合、藤原姓から平姓に変わったことは、まず間違いないことのようである。
 経清の弟正経は、葛西高清に従い馬籠攻めに参戦して功を挙げ、高倉荘に進出した。その子家経もまた康永元年(1342)に薄衣清村と流郷で戦い、桃生・牡鹿に采地を賜り子孫は涌津岩淵氏となった。
 本家岩淵氏は高倉荘長井氏とも縁を結び、北上川に添い南下拡大してゆく。五代時経には男子がなく、葛西信貞の子を迎え忠経と称し、葛西氏との縁を深めている。そして、奥玉・曽慶・赤荻などの支流を出している。年代は不明だが黄海にも支流を分立させ、さらに下流の嵯峨立にも支流を分出している。

奥州の戦乱

 延徳三年(1491)八月、藤沢城主岩渕経世と、黄海城主黄海高行が争い、数日にわたり合戦し、ついに岩渕経世が負傷しその傷がもとで死亡するに至った。合戦の原因は、藤沢岩渕氏と黄海氏が家督をめぐって争論したことによるといわれる。しかし、岩渕氏と黄海氏がどうして家督争いを起こしたのかは判明しない。別説によれば、岩渕経世と黄海高行は不和となり、合戦におよび、傷を蒙った経世が死去したものという。これによれば、家督争いではなかったようだ。
 黄海氏は平姓と知られるだけで、その発生も事蹟も判然としないが、葛西氏麾下としてその存在は鎌倉期よ 合戦の結果は、経世が死去したとはいえ、岩渕方の勝利に帰し、経世の二男高国が黄海氏を継いだとある。以後、黄海氏は岩渕系となり四代続いて天正に至った。そして、この合戦は薄衣清隆が仲裁し、両者を和解せしめたといい、黄海氏に岩渕氏から養子が入ったことが、家督争いという風に伝えられたものと思われる。
 永禄十一年(1568)、曾慶の岩渕信時は東山の下折壁千葉茂成と騒擾を起こした。葛西晴信は、近隣の諸館主に命じて、これを和解せしめている。岩渕信時と千葉茂成との不和軋轢の原因は不明である。下折壁と曾慶の両郷は、室根山西麓・根山を間に挟んでおり、両郷の往来は天神峠・柳峠を経て、折壁駅より大原駅に通じるところである。両者の争いはこの線上で行われたものであろう。
 下折壁氏は千葉氏の一族と知られるが、その発祥、世系は詳らかではない。とはいえ、大原氏や岩渕氏などと縁戚関係を結ぶなど、下折壁村金鶏城を居城として勢力を有する領主であった。

岩淵氏の衰退

 岩渕氏は、葛西重臣の一人であり、元亀・天正年中(1570〜90)の岩渕近江守に至っては、東山に屈指の勢力を占める存在であった。元亀二年(1571)より天正十七年(1589)に至る書状が残されているのは、それを証するものといえよう。
 岩渕近江守は信経に該当し、また信経は藤沢近江守、下総守・左衛門尉などとも称していたことが知られる。系図によれば信経は五男八女の子宝に恵まれている。しかし、嫡子経宣は早世したようで、事蹟も妻の有無も伝わっていない。しかし、経宣には一男二女が系図上存在しており、嫡子の経光は葛西家没落後、南部家に仕え、大原氏を号したという。しかし、経光はおそらく経宣の養子となった人物であろう。
 天正十六年(1588)、岩淵近江守と大原飛騨守との間で確執が生じ、小梨一徳田で戦闘が起こった。折しも葛西時信が浜田征伐の帰路であったため立ち寄り、両者の和解を斡旋し大原氏の女を藤沢岩渕の嫁にしたという説があり、岩渕藤沢氏の一女は大原茂光の室となり、藤沢信光の五男が大原肥前守茂光の養子となったという。「大原系譜」にも大原肥前守茂光の次男が、藤沢経信の養子になったとある、とはいえ、経宣の兄弟が存在するなかでの大原氏からの入嗣は、岩淵氏の衰勢を思わせる。
 天正十八年(1590)奥州の諸大名・武将たちの運命を決定付けた豊臣秀吉による「奥州仕置」に際して、葛西家中の多くの武将が仕置軍を迎え撃ったが、岩淵氏の行動は目立ったものではなく、その頽勢は蔽うべくもないものであった。

庶流、涌津岩渕氏

 文明十七年(1485)、南部政盛が気仙に侵入してきた。このときの葛西家の当主は政信で、庶兄に朝信がいた。朝信は南部氏の外孫であり、政信は薄衣氏の外孫であった。さらに朝信の子尚信は政信が毒殺したという説もあるなど、葛西氏のお家騒動が外部に発展した結果、南部氏が兵を出したということであろう。
 このとき、南部勢を迎え撃った葛西軍の軍監に岩渕経定が任ぜられ、南部勢をよく撃退した。この経定は岩渕氏の支流涌津岩渕氏の人物であった。涌津岩渕氏は岩渕清経の子、正経に出た。正経は父清経と兄経清とともに、嘉元三年(1305)奥州に下り、葛西氏に仕え、高倉荘流の涌津邑北館に住したと伝える。北館は涌津城・熊野倉城とも称される。そして、正経七代の孫が経定である。
 明応四年(1495)六月、江刺隆見が葛西政信に抗した。政信は兵を率いて江刺郡に進攻し、高寺の戦いに江刺勢は敗れ、隆見は降伏した。この合戦に、涌津城主岩渕経定も参陣し功を立てている。系図には「経定は先鋒となって衆に抽んでた功を挙げ、戦後、政信より胆沢郡内に食邑三十余町を賜った」とある。
 永正七年(1596)二月、薄衣清貞と金沢冬胤が合戦に及んだ。この合戦に、岩渕経定は「子弟や従卒を率い、金沢冬胤の援兵を為す」とあり、弟経村や、二男経文らとともに金沢方として参陣した。経定の婿である熊谷晴実も参陣し金沢氏を助けた。その結果、薄衣氏の軍を金沢郷の北方で迎え討った金沢勢の勝利に終わった。しかし、双方ともに少なからぬ戦死者を出したようである。 天正二年(1574)の春、本吉郡志津川城主本吉大膳大夫重継を中心とした動乱が勃発し、本吉郡横山北沢において合戦が行われた。これが引き金となって、以後、諸所に争乱が惹起した。この合戦に、葛西氏に従って涌津熊野倉城主岩渕駿河守経房が出陣している。
 この本吉の乱は、本吉氏が葛西領内の大身であるだけに葛西領の統治に大きな衝撃を与えた。しかも、葛西氏は大崎氏と栗原郡から登米遠田郡方面にかけて対戦中であり、本吉の乱は予期しない不祥事でもあった。乱は、胆沢・東山・登米・流地方の諸士の参陣によって鎮定された。乱の原因は詳らかではないが、主家葛西氏への叛乱であったことだけは間違いない。

岩淵氏の没落

 天正十八年(1590)、「奥州仕置」を迎えたが、このときの岩淵氏嫡流の当主は民部信時とか近江守秀信とか伝わり定かではない。また、山城守経政は検地に反対する一揆に加担して仕置軍迎撃の陣に参加したといわれる。その子の経定は九歳であったため匿われた、大原氏から養子に入った経光は成長後南部氏に仕官した、さらに、経清は一揆戦で戦死したとか様々に口碑が残されている。しかし、それぞれの伝承に関する実際のところは不明である。
 一方、黄海岩淵氏では、高郷の子三人がそれぞれ伊達氏の支流に仕官したと伝える。また、桶津岩淵氏では、経顕が仕置で戦死し、曽慶岩淵氏の兵庫元秀は南部氏に仕官したという。このようにして、葛西氏没落後の「奥州仕置」を経て岩淵一族は一族離散の憂き目となったようだ。そして、奥州の戦乱の時代も終熄したのである。

参考資料:岩手県史/葛西中武将録 ほか】

●葛西氏の家紋─考察



■参考略系図
    


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