ヘッダイメージ



陸奥長坂氏
月 星
(桓武平氏良文流千葉氏族)
七曜、九曜、三柏も用いたといわれる。


 岩手県南部には千葉姓が多い。その出自は殆どが千葉頼胤に求め、そもそもの発生地を長坂とし、江刺・胆沢・磐井・気仙・本吉と拡散したと伝えている。
 千葉氏の宗家である千葉介の系譜には、常胤六代の孫として頼胤をあげ、1239〜1275の存生とし、文永の役に出陣し九州で死んだことになっており、子息も数少なく葛西氏に入嗣したという胤氏(清信)も記載されていない。また、奥州の箱崎に1230年に下向したという頼胤は世代が違うし、常胤が改名したという伝えも時代が合わない。
 長坂良胤・百岡胤広・岩谷堂胤道・本吉正胤・浜田胤重・大原宗胤・薄衣唐胤等を分立したという長坂氏の氏としての誇りとは別に、百岡に配置された胤広が祖であるとする説もある。
 いずれにしても、奥州征伐の折、源頼朝から功績第一番として賞された千葉介常胤の後裔を称して、千葉一族の団結を図った結果であろうから、その出自に関しての正否にこだわることもないのかもしれない。また、長坂系譜は冗長にして世代も多く、一概には信じられないが、それぞれの時代を過ごしてきた人たちの記録なのであろう。

乱世を生きる

 南北朝期は、治部少輔顕胤のころで、顕胤は1337年に白河で合戦をしたことを伝えている。1470年頃には兵部大夫胤茂が上洛したともあり、相応の権勢を振るったようである。降って、1505年豊前近胤のとき、射的のことで紛争が起こり、薄衣隼人に殺されるということがあった。それが原因で大原新山(亀掛川)氏に内紛が起こり東山地方が乱れ、長坂氏の掌握力も低下したようである。
 長坂氏の居城は唐梅館で、峻険な山城である。通常は猿沢川辺の安養寺のある盆地が根城であったらしい。小規模ながら越前朝倉氏の城廓配置に似ており、市庭を備える地頭的存在であったことが伺われる。
 天正十八年、秀吉の大軍が小田原攻撃に入らんとする四月十七日、長坂氏の唐梅館で葛西家臣団が集合し、重要な会談を行ったという。恐らく、上方軍迎撃の方針を定め、その陣立ての会議をしたのであろう。結果、大原飛騨守を赤旗の将に、薄衣甲斐守を黄旗の将に、長坂大膳胤村は副将にと定められた。このころ、柏山・江刺・浜田氏らは内紛・兵乱のあとあけにその指導力は失われており、旗頭にはなれなかったようである。
 長坂氏の家譜によれば、刑部広胤は既に没しており、軍議はその子が主催したのであろうが、重胤は盲目であったと伝えていることから、二子の左京清胤であったのだろう。その孫胤方は南部氏に仕えたというが、父信胤が盲目の重胤に書き残したという手紙が残されている。それは、滅亡の悲哀を惻々と伝えているが、前後に不審な所もあり、仕置戦における長坂氏の行動も何も書かれていない。後世の偽作であろうか。

参考資料:岩手県史/葛西中武将録 ほか】



■参考略系図
 
  


バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧

応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋 二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
見聞諸家紋

戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ 家紋イメージ

地域ごとの戦国大名家の家紋・系図・家臣団・合戦などを徹底追求。
戦国大名探究
………
奥州葛西氏
奥州伊達氏

www.harimaya.com