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大原氏
●七 曜
●桓武平氏良文流千葉氏族
・幕紋は、円相中三葉柏(丸の内に三つ柏)と伝えられる。
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大原氏は奥州千葉一族で、葛西家中最大の重臣であった。その出自は千葉飛騨守頼胤の子宗胤が、東山大原の山吹城に住して大原氏を称したことに始まるいう。しかし、宗胤の出自については諸説があり、「大原氏系図」「星氏系図」「西館熊谷系図」などに記された兄弟の数も一致しないが、百岡照胤の弟であるとすることは、諸系図とも一致している。
大原氏の登場
さて、宗胤の父とされる飛騨守頼胤は、鎌倉将軍藤原頼嗣に仕え、寛喜二年(1230)八月、奥州探題として下向し箱崎に住したという。しかし、藤原頼嗣が将軍職に就いたのは寛元二年(1244)であるから、寛喜中の将軍頼経の誤りか、寛元の誤りであろう。また、頼胤は千葉氏の嫡流が称するところの「千葉介」をも称していた。このころ葛西家の当主は清時であったが男子が無かったため、千葉介頼胤の三男胤信を養子とし、胤信はのちに清信と改めている。頼胤の室は葛西清時の妹であり、清時と胤信(清信)は伯父・甥の関係であった。「千葉系図」にも、千葉介頼胤の三男胤衡が葛西家を継いだと伝えるものがある。
大原宗胤の父千葉介頼胤と葛西家の養子となった胤信の父千葉介頼胤とが同一人物とする確証はないが、同時代の人物であったとみてまず間違いないだろう。そして、宗胤の父千葉介頼胤を寛喜・寛元頃の人物とすると、宗胤の大原移住は、さらに時代の下降も考えられるが、宗胤の弟重胤が寛喜元年に葛西氏に仕えたことが知られる。
以上のように、千葉介頼胤の寛喜二年の奥州入り、その子で宗胤の弟の重胤の寛喜元年の奥州入りなどから考えると、大原宗胤の大原入りも寛喜中のことであったと考えられる。
宗胤には実子が無かったようで、大原氏の二代は弟重胤の子重光が入り、のちに信親を名乗った。ところが「西館熊谷系図」には、宗胤の兄国胤の二男に大原正光を記している。おそらく大原信親は宗胤の甥であり、正光とも重光とも称したのであろう。
「星系図」では、信親の次に重胤・重康・重信と続き、信久に至り、その譜に「大原山吹城主、五万貫」と伝える。ところが「大原系図」では、信親の譜に「正和二年九月、室根新宮権現勧請」と伝え、「星系図」にみえる大原重康の譜に「正和二年九月、室根新宮祭」とある記述とは二代の差がみられる。さらに、「大原系図」では、親久の譜に「東山大原山吹城主、五万余貫」とあることから、信久と親久は同一人物であろう。
このように、大原氏の系譜は諸系図によって不審な点が多いのである。加えて「西館葛西系図」によれば、葛西清親の二男重政が大原城に居住し、大原氏を称したとある。重政の兄清時は系図によれば弘安十年(1287)に卒去したとあることから、重政も鎌倉時代の人物ということになる。大原氏の発祥と系譜は、まことに渾沌としているのである。
中世、大原氏の動向
大原氏は、その後葛西氏の重臣として活躍した。胤常の子胤義は胤常が生きている間に館を出て、新たに奥玉郡橘城を築いて移っている。
胤常が亡くなると胤義が四十二歳で家督を継ぎ、徳治三年(1308)に没した。そのあとを継いだ子の胤信は葛西氏の老職に列し、南北朝時代の直前の元徳二年(1330)に没した。胤信の嫡男胤高に関する事蹟は伝わっていないが、南北朝期、主家にあたる葛西氏は北朝に属しているから胤高もこれに従ったと思われる。しかし、一族の大原備中守宗信は、南朝方の北畠顕家に従って建武二年(1335)十月五日に戦死したことが知られる。宗信は、胤高の弟と思われるが重胤の子の可能性もある。
いずれにしろ、中世大原氏歴代の事蹟は詳らかではなく、わずかに永享十一年(1439)、大原清胤が大崎戦に出陣したことが知られるばかりである。さらに、いまに伝わる「大原系図」は系も引かれていず、記された譜も不審な点が多いものである。
ところで、大原氏の出自に関して前記とはまったく異なる説もある。奥州千葉一族であったことは共通しているが、こちらの説では千葉介胤正の子胤親が陸中国磐井郡大原村を領して大原を称したことが始まりという。しかし、胤正の子に胤親という人物は系図上には見えない。しかし、胤正の娘の一人が上総一族の相馬常清の子貞常に嫁ぎ、彼の子が常親と名乗った。常親はのちに上総一族の「常」を千葉一族の「胤」と変えて胤親と名乗っていることから、祖父の千葉介胤正もしくは叔父の成胤の養子となったとも考えられる。
奥州の戦乱
さて、大原広光の子で十三代家督を継承した広忠のとき、文明六年(1474)三月、気仙沼城主熊谷丹波守直氏が東山に逃れて広忠を頼ってきた。『熊谷家譜』によれば、「直氏、直行第四男。享徳二年生。熊谷清九郎、丹波守。母気仙沼熊谷右馬助直賢女。文明六年春、与父直行不和、及楯鉾、為浪士出奔、同年三月赴磐井郡、同郡東方旗頭大原郷主千葉肥前守平広忠為幕下、賜采地五十余町、居于大原郷内野里。永正九年二月二十二日不禄、年六十、法名西慶」とある。つまり、熊谷直氏は父・直行と不和になって合戦におよび、敗れた直氏が大原氏を頼った、ということになる。
広忠の子飛騨守信広は、文明七年三月、気仙郡横田村で矢作氏と戦い、その合戦で次男信綱を失っている。この戦いは、前年の熊谷直氏の一件が絡んでいるものと思われる。すなわち熊谷直氏が父直行と戦って敗れ大原氏を頼ってきたことで、大原信広は直氏を後援して気仙郡の熊谷直行を攻めた。一方の直行も代々同盟を結んでいた気仙の矢作千葉氏に援軍を頼み、大原氏との間で合戦になったものであろう。
子飛騨守信広は、葛西・大崎両家が内訌に揺れた「明応の乱」において、薄衣美濃入道と同盟して葛西大守に反抗した。このとき葛西勢に城を包囲されて万事窮した薄衣入道が、伊達成宗に救援を求める書状を送ったのが有名な「薄衣状」で、このなかに大原肥前守として出ているのが飛騨守信広である。この乱に際して、信広の嫡子信明は葛西太守方に味方して父と袂を分かっている。乱の結果は詳らかではないが、その後、葛西氏には伊達氏から宗清が入っており、おそらく伊達氏の仲介によって終熄したものとみられる。
永正元年(1504)春、東山折壁郷において、上折壁氏と遠藤氏が衝突し、七月には気仙郡横田・矢作郷を中心に気仙の浜田氏と東山の大原信明が衝突した。葛西領内も確実に戦国の風が吹き荒れるようになったのである。合戦は大原方の勝利に終わったようで、大原信明の麾下として出陣した熊谷直恒は、戦功によって葛西重信から所領を給せられたと伝えられている。
大原・浜田の合戦の原因は不明だが、直恒の一件から、私闘ではなく大守葛西氏に公認されたものであったようだ。おそらく、浜田氏が大守に反抗を企て、大原信明が葛西氏の重臣として追討にあたったものと思われる。大原信明は信輔とも称したようで、葛西氏麾下の大身として権勢を振るっていた。
混迷を深める奥州
天文十一年(1542)、伊達家中に「天文の大乱」とよばれる内紛が発生した。すなわち、伊達稙宗・晴宗の父子が不和となり、ついに、晴宗が父稙宗を幽閉したことが乱の始まりであった。この伊達氏の内紛に、奥州の諸大名は、稙宗派と晴宗派とに分かれて互いに抗争する事態となった。葛西氏では当主の高信をはじめ、大原氏・富沢氏・柏山氏らの大身は晴宗派に属した。
翌年五月、伊達晴宗は大原飛騨守に書状を送り、「葛西三郎殿、稙宗に力を合わせ、大谷に出陣せんとうかがう。(中略)案外至極というべきか」というものである。葛西三郎は稙宗の子で葛西氏に養子として入った晴清であり、父に協力したことで葛西家中も二派に分かれ、葛西領内は騒擾することになった。そのような状況のなか、伊達晴宗は大原飛騨守に葛西三郎が稙宗に加担したことを遺憾に思う旨を書き送ったのである。この大原飛騨守とは信胤のことと思われ、東山大原城主で葛西領内屈指の大身であり権勢を有していた。晴宗の書状は、そのことをうかがわせる傍証ともいえよう。
当時の大原氏の歴代について、仙台の『封内名蹟志』には、大原郷山吹城主で播磨守信光、その子飛騨守信茂その子飛騨守茂光と伝え、天正末年、葛西氏没落のとき滅亡したとある。飛騨守信茂は盛岡藩士「葛西系図」に「親信別腹之兄也。大原千葉弾正忠信胤為子、継家督号千葉飛騨守」とある。天文十二年、葛西高信(晴胤)が大原信光の嗣子に、その子信茂を入れたことは、大原氏の葛西氏家中における権勢をさらに高めたことであろう。
永禄四年(1561)、薄衣上総介清正と鳥畑胤堅とが合戦した。鳥畑胤堅は松川鳥畑城主であり、薄衣清正は清貞の子と思われる。この合戦は、鳥畑胤堅が大原に退去する結果となった。このころの大原氏は信光が存世していたようだが、信茂の活躍が知られる時代であった。また、大原氏は鳥畑胤堅の祖母が出た家であり、親戚として鳥畑胤堅を保護したのであろう。以後、鳥畑氏は大原氏に仕えることになり、子孫は大原氏の重臣となっている。
戦国時代の終焉、大原氏の没落
奥州の地で諸大名が合戦に明け暮れているとき、中央政局は大きく転回し、織田信長ついで豊臣秀吉が天下統一に大きく前進しつつあった。そして、天正十八年(1590)春、秀吉は小田原北条氏の討伐を開始する。この小田原の陣こそ、奥州の諸大名のその後の明暗を分ける契機となったのである。
それは、小田原の陣に対して参加したか否かによって決定づけられた。すなわち、小田原不参加組の大名は、その後の「奥州仕置」により、所領を没収され没落の運命をたどることになる。大崎・和賀・稗貫の諸氏であり、葛西氏も同様であった。ここに奥州の戦国時代は一大転機を迎え、近世へと歴史は大きな変化をみせるのである。
諸大名の没落とともに、その家臣らの運命も定まった。多くの武将が没落し、葛西氏家中屈指の大身を誇った大原氏もあえなく没落した。
大原氏麾下の宿老である鳥畑氏の「鳥畑系譜」の堅長の譜に「天正十九年八月十四日、大原千代竹丸(重光)、桃生郡深谷庄に於いて害した後、浪士と為し、同郡天狗田邑に移り民間に交わる」と大原氏の没落を記している。また、「葛西大崎陣割之覚」によれば、大原飛騨守なる人物を記し、その子に六男をあげ、うち五人が一揆に参加して深谷に討死したとしている。すなわち、光胤、定胤、国胤、頼胤、忠胤、致胤であり、致胤以外はすべて深谷で討死したとある。
ところで、天正十七年(1579)大原信茂は、鳥畑伊予守を通じて、砂金二百五十目を京都衆に引き渡す予定になっていたことが「鳥畑系図」にみえている。ところが、大原系図では、信茂は天正十一年に卒し茂光の代であり、その茂光も天正十七年に卒去したという。しかし、その後の天正十八年まで大原飛騨守は活動したことが知られる。このように、終焉期の大原氏の動向は諸説錯綜して判然としないのが実状である。
奥州仕置後の大原氏は、岩淵信経の子で養子となった信辰が重光の家督を継いだことが知られるばかりである。・2005年07月07日
【参考資料:大東町史/東山町史/岩手県史/葛西中武将録 ほか】
■参考略系図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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