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亀卦川氏
七曜/月星*
(桓武平氏千葉氏流)
*幕紋は円相中三葉柏という。 月星紋も用いたようだ。


 亀卦川氏は、奥州千葉氏の一族で「きけがわ」とよむ。そもそもは、下総国千田庄亀卦川村から発祥したとされている。しかし、葛西家の所領である葛西庄内の下総国葛西庄木毛河郷から発祥したものと考えられている。
 そのような亀卦川氏が奥州と関わりを持つ始めとなったのは、建治二年(1276)、葛西太守清時の養子となった千葉介頼胤の子胤信が十五歳で元服して清信と名乗り郎党数百人を従え奥州に下向したことに求められる。すなわち、胤信に従った郎党のなかの一人に亀卦川左馬介胤氏がおり、胤氏は登米郡登米水越に居を構えたと伝えられている。
 他方、亀卦川氏は、もともと千葉介常胤の子日胤の末子胤親に発し、奥州深谷で七千町を賜り、寛喜二年(1230)に下向したことから始まるともいう。胤親の孫にあたる胤氏は深谷を継承したが、たまたま本家の千葉介から出た胤信が陸奥国に下向するというので、傅役として随従することになった。そして、東山大原の米谷に住し、のち隠居して水越に移ったのだというのである。

奥州の戦乱と亀卦川氏

 南北朝期の亀卦川氏は胤明・政明兄弟の世代であり、胤明は葛西太守清貞に仕えて延元元年(1335)に戦死したと伝えられている。そのため弟政明が家督を継承し、弟の胤時が太田に分立し、子の盛政は禅荷館を構築し、その弟信明は狼河原に分立している。続いて長明が継いで葛西満信に仕え、その子常春は日形へ、重明は加賀野へ、信明は水越へと亀卦川氏は着々と勢力を拡大していったのである。
 その後も葛西太守に仕えて代を重ねたが、永正三年(1506)常信の代に領地を没収され、十年余り流浪をしたのちに赦されて米谷に戻るということがあった。この追放の背景には、桃生・登米・深谷の三郡一揆に亀卦川氏が一枚加わっていたことへの処罰の意味があったようだ。三郡一揆とは、伊達氏から葛西氏に入った葛西宗清が領内家臣団を再編成しようとしたことに対して、葛西家中の有力武将たちが連合して宗清と対決しようとした盟約であった。争乱は「永正合戦」ともよばれ、合戦の結果、桃生城主山内首藤氏が滅亡し、関係した武将たちは東山地区へ移封されたのである。
 常信の子常顕が天文十二年(1543)に東山の仏坂に移封されたのも同じ理由と考えられる。その子常時はそれを怨んでか、元亀三年(1572)葛西晴信に背反して敗れている。ただし、亀卦川氏が全て大原や仏坂に移動したわけではなく、米谷付近には間もなく亀卦川一族の復活が見られる。
 亀卦川氏の場合、大原新山城主の亀卦川氏が知られる。天文十九年(1550)、大原新山城主の亀卦川師兼の嫡男師秀が葛西高信(のちの晴胤)によって誅殺されたと伝えられている。このとき、師秀の弟・師茂も討たれたという。師秀と師茂の兄弟は弓術に長け、長坂城において、母躰の城主千葉伊賀守と大弓のことで論争となり、それを含んだ長坂千葉氏と母躰千葉氏らは兄弟のことを葛西氏に讒言したのだという。
 兄弟の父師兼はそれを遺憾として、長坂、母躰の両千葉氏と合戦して両者を壊滅させた。しかし、葛西高信より私闘として咎められ、居城の大原新山城を攻められて落城。師兼は逐電し、失意のなかで弘治元年(1555)に死去した。結果、大原新山亀卦川氏は継嗣もなく、大原新山城は師兼の舅にあたる葛西家家老の大原信茂に与えられた。とはいえ、亀卦川家の家督は、先に師兼によって廃嫡にされた信秀が大原家の後押しで継承し、大原家より新山城を与えられて亀卦川氏を再興した。

亀卦川氏の終焉

 天正十八年(1590)、豊臣秀吉による奥州仕置に際して、葛西・大崎氏の家臣らは仕置軍を迎撃したが、その軍中に亀卦川一族の西郡信明、米谷常秀、狼河原常忠らが参加していた。また、大原新山亀卦川信秀も子の師晴、持信、持景らとともに出陣し、深谷庄和淵村で木村吉清軍と闘い、信秀・師晴・持景は討死した。こうして、「奥州仕置」の結果、葛西氏とともに亀卦川氏も滅亡した。

【参考資料:葛西中武将録】



■参考略系図


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