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薄衣氏
●七 曜
●奥州千葉一族
・幕紋は白地に「丸の内三葉柏」という。
 


 奥州千葉氏の一族で、「薄衣」は「うすぎぬ」と読む。千葉泰胤の養子となった三谷胤広の子の民部少輔胤勝の子である甲斐守胤氏が、陸中国磐井郡薄衣邑を領して薄衣を称したことにはじまる。一説に、泰胤の二男・胤堅が同地に入って薄衣を称したともいう。また臼井氏の後とする説もある。それによれば、臼井→うすい→薄衣→うすい→うすぎぬ、と変化したのだという。
 胤堅は、従五位下伊勢守に任じ、実名は「胤純」とも伝わる。建長四年(1252)二月、幕府の命により上洛。三月十九日、宮将軍・宗尊親王に供奉して鎌倉に下向し、四月一日、鎌倉到着。十四日、宗尊親王の鶴岡八幡宮参詣に供奉。同年八月、奥州の押えとして奥州栗原郡に下向し磐井郡薄衣庄に住したという。翌年には居城として葛丸城を築き、弘長元年(1261)二月、奥州の一方の奉行人になった。 文武両道を兼ね備えた武者であったと伝える。
 胤堅以後の系図が二種類現存するが、それぞれに異同があってにわかには正否は断定できない。それら系図のうち、千葉氏の名乗りに多い「常」「胤」の字を実名に記すものは、葛西家からの養子に反発した一族が書いたものであろうと推測される。つまり、千葉一族に近いものが伝えたものといえよう。もう一方の系図は、葛西家から薄衣家の養子に入った松川信胤の子孫が書き上げたものであり、葛西家の通字「清」の字をもった名前がみられるのが特長的なものである。

奥州の戦乱に身を処す

 清村のころ南北朝期を迎え、はじめは南朝方に属したようだが、暦応二年(1339)、葛西高清に攻められ、のちに葛西氏に臣従するようになったという。しかし、当時の葛西太守は清貞で南朝方として活躍していることが知られる。一方、関東系葛西氏でのちに奥州葛西氏の主流となる葛西高清は北朝方として働いていた。おそらく、清貞系葛西氏に代わって高清系葛西氏が台頭するにつれ、薄衣氏は葛西氏の下風に立つようになったものと思われる。
 薄衣系図に記される清益は、永享十一年(1439)、大崎城の戦いで戦死したという。その子は薄衣和泉守信胤というが、彼の通称は五郎で、前記の松川信胤と同一人物かと思われる。しかし、別の系図には、松川信胤は薄衣内匠頭清胤のこととも伝わっている。信胤の孫を「輝胤」としている点は、両系図一致しているところである。ただ、輝胤の父は「左馬助胤長」とも「右馬助胤光」とも伝わり、官途名が似通っているところから同一人物であったのかもしれない。系図を書き移していくうちに誤謬が発生したものであろうか。
 寛正二年(1461)、岩淵経敏は南部氏が秋田十三湊の安東氏と戦ったとき、南部氏を支援して出陣し秋田の仙北高寺で戦死した。経敏の子経世は東山藤沢城にあって、延徳三年(1491)八月、黄海大蔵少輔高行とが合戦した。黄海氏との戦いは岩淵氏が勝利を収めたものの、経世は戦傷死してしまった。そして、薄衣氏の仲裁によって、経世の子高国が黄海高行の養子となって抗争は一件落着した。

薄衣状

 明応七年(1498)、大崎氏執事の氏家三河父子が、大崎義兼に反乱して神社仏閣に放火するという挙に出た。義兼は百々城に逃れ、葛西氏領の薄衣美濃入道と江刺三河守に反乱を鎮めるための出兵を要請した。両名は再三辞退したが、ついに断わりきれず出陣したのである。ところが、美濃入道の弟は長谷城に籠城して大崎氏救援反対の気勢をあげた。さらに、葛西太守も大崎救援反対の軍を出し、薄衣美濃入道の居城は包囲された。
 薄衣城は巨大な山城ではあったが、周囲を葛西氏の大軍に囲まれ万事窮した美濃入道は自刃しようとした。しかし、米谷左馬助に制止され、美濃入道は伊達成宗に救援を求める書状を送った。これが、有名な『薄衣状』である。そのなかには、動乱の詳細が認められていて、当時の情勢を知る貴重な史料となっている。
 その後、南部勢の糠部三千騎・斯波・和賀・須々孫氏らの救援をえた美濃入道は反撃に転じた。その結果は知られていないが、伊達成宗の仲介によって乱は治まったものとみられている。薄衣状の中には、元良信濃や大原肥前によって包囲され窮していることが書かれている。
 入道経蓮を清胤だとすれば、元良信濃は実兄であり、大原肥前は妹の舅であることから、一族から大攻勢を受けたことになる。また薄衣状には、大崎氏の内乱のときの戦闘において、本吉郡の小泉備前守・岩月式部少輔らが「野臥二千人ほど引連れ」ていたと記している。野臥とは、正業に就かない雑兵や農民たちの武装集団であり、戦いが正規の武士の斬り合いだけでなく集団戦法へと変化していたことを示している。

戦国時代の動向

 永正四年(1507)、薄衣一族で朝日城主の金沢冬胤が、峠城主の寺崎時胤と合戦し、金沢方が勝利した。その三年後の永正七年、薄衣清貞は北上川を渡り、山越えをして金沢冬胤の拠る金沢郷に進撃した。このとき、薄衣方には清貞の弟松川信胤とその子胤光らの助勢があった。戦いは、薄衣軍を丘陵部で迎え撃った金沢方の勝利に終わり、薄衣方の松川胤光が戦死した。この一戦に敗れたことで薄衣氏は頽勢に傾き、以後、あまり表面には出てこなくなるのである。
 永禄四年(1561)、薄衣上総介清正は鳥畑城主の鳥畑胤堅と合戦した。鳥畑氏は松川氏の一族であり、薄衣清正は清貞の子(あるいは孫)と思われる。この合戦は、鳥畑胤堅が大原に退去する結果となった。そして、このころから葛西領内の各地に動乱が続き、薄衣氏の動向や世代の事蹟も不明な点が多くなってくる。
 その後の薄衣氏の詳しい動向は、残念ながら不明である。とはいえ、元亀二年(1571)、富沢氏と結んで流荘を挟撃したとか、清胤は子の重氏を富沢氏に入嗣させたと伝えられなど、それなりの活動をしていたようだ。
 天正八年(1580)には、薄衣甲斐守が太守にかわって上洛している。甲斐守は、葛西氏内部でも相応の実力をもつ武将であったことがわかるとともに、戦国末期に至るまで薄衣氏が勢力を維持していたことを示している。天正十一年頃に薄衣因幡守清度の名がみえるが、上総介清正の子孫と考えられる。
 天正十三年(1585)、薄衣氏は浜田氏と対立していたが、葛西氏の指示斡旋によって和解が進められた。しかし、薄衣方が難題を主張するため、和解は成立しなかったようだ。この薄衣氏は甲斐守胤次と思われる。また、天正年代にみえる薄衣氏としては、若狭守常憲、美濃守常雄、因幡守清度などが知られるが、相互の関係などは不明である。とはいえ、戦国末期の薄衣氏が葛西家中の巨臣の一人として、大原氏・岩渕氏らと勢力を三分していたことはほぼ間違いないことのようだ。

薄衣氏の滅亡

 やがて、天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原陣が起った。この小田原の陣は秀吉による天下統一の総決算ともされる陣で、東北地方の諸大名にも大きな影響を与えた。すなわち、小田原への参陣、不参はそのままのちに諸大名の運命を決定する存亡の分かれ目となったのである。
 薄衣氏の主君である葛西氏をはじめ、大崎・和賀・稗貫らの諸氏は内政不安もあって、小田原に参陣できなかった。その結果、奥州仕置によって、ことごとく所領を没収され城地を追われ没落の身となった。その影響は当然家中の武士たちにも大きな運命の転機をもたらした。
 秀吉政権は奥州の仕置きを終えると太閤検地を推進していった。これに反対したのが、葛西・大崎氏の旧臣で、かれらは一揆を結んで仕置軍に抵抗した。このとき、甲斐守胤勝も一揆に加担し黄旗千五百騎の大将として栗原郡森原山に陣している。この「薄衣甲斐守」は、『葛西真記録』では甲斐守胤衡とあり、『奥州葛西記』では甲斐守胤勝、『風土記御用書』では斐守胤次とあって諸書一致しない。
 また、「薄衣系図」にみえる最後の当主は甲斐守常雄で、一揆軍に参加し天正十九年(1591)八月、桃生の深谷において伊達氏によって謀殺されたと伝える。このように薄衣氏の最期における所伝が一致しないのは、没落によって薄衣氏の文書や記録が失われた結果であろう。
 いずれにしろ、豊臣秀吉の天下統一、そして奥州仕置という時代の流れのなかで、薄衣氏をはじめ多くの葛西武士が滅亡あるいは没落し、奥州の中世も終わりをつげたのである。・2005年07月07日

参考資料:薄衣村史/岩手県史/葛西中武将録 ほか】



■参考略系図
 
  


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