陸奥浜田氏
月星? (桓武平氏良文流)
千葉氏の代表紋を掲載。実際の家紋をご存じの方はご教示ください。
|
|
気仙郡千葉矢作氏の分かれである。初代浜田重慶の事跡については良く分からない。息子三人を浜田・高田・長部に分立させている。その領域も高田湾奥の殆どを占めており、相応の実績を挙げたからであろう。しかし、それなんりに脆さもあって、間もなく浜田氏と長部氏の兄弟間に重大な亀裂が走った。
応永二十年(1413)、浜田胤慶は長部慶宗の急襲を受けて戦死した。その子宮内少輔胤長は激怒し、弔合戦で長部慶宗を殺し勝利した。その結果長部城主を弟の宗胤に替え、浜田氏の勢力下に置いた。
その後、大膳大夫長継−遠江守信継と続くが、信継の弟時継は高田氏に入嗣している。1500年頃には浜田氏は改めて一族を完全に掌握することになる。しかし、信継は嫡男に恵まれず、西館重信の子を迎えて安芸守基継とした。西館氏は太守持信の唯一の弟として権勢を恣にし、本吉郡に進出した武将である。ここにおいて浜田氏は葛西氏の親族となり、その権威も裏付けられることになった。
永正元年(1504)、基継は大原信明と気仙矢作で戦ったという。この時、浜田氏の宗家矢作氏は、大原方として太守重信より感状を得ている。このことは「永正合戦」の山内首藤氏の場合と同様、伊達系太守宗清による旧勢力一掃の一環で、浜田氏が制圧されたと考えられる。
こうして一時鳴りを潜めていたが、次代の大膳大夫胤継(時胤?)は矢作氏とともに、天文七年(1538)の江刺攻めに参陣じている。これは、南部氏の南下圧力に傾斜する江刺氏に対する葛西氏の牽制策であったようだ。この時、矢作重村は戦死している。
永禄三年(1560)、浜田広綱は葛西氏に背命して騒擾し、熊谷直賢らと交戦したが、降伏。このころ、高田城から米ケ崎城へと拠点を移し、軍拡を進め、浜田氏の軍事力は最大となる。天正十五年、本吉重継と不和となり、本吉郡に侵攻したが、葛西太守の仲裁で撤兵する。しかし、翌十六年春再び挙兵し本吉郡への侵攻を開始し、浜田勢は防衛の主力である気仙沼熊谷党と篠峯山麓で激戦を繰り広げた。しかし、熊谷党の奮戦はすさまじく、終始浜田勢は劣勢に立たされた。そして徐々に戦線か本吉郡から後退、八月に至って広綱は降伏した。この一連の合戦を「浜田広綱の乱」と称される。
広綱は文禄元年に病死。その子重俊と信綱は葛西一揆に荷担し、深谷で誅殺され、浜田氏は没落した。
【参考資料:葛西中武将録】
■参考略系図
|
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
地域ごとの戦国大名家の家紋・系図・家臣団・合戦などを徹底追求。
|
|
どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
|
|
|