陸奥矢作氏
上弦の月に七星
(桓武平氏良文流)
御子孫の方より千葉矢作氏の家紋としてご教示いただきました。感謝!
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本吉郡南部の馬籠に下向定着した千葉忠慶(広行)は、弟広胤を気仙郡矢作へ分立したのが矢作氏の始まりという。とはいえ、南北朝争乱以前のこの地域の歴史は、大動乱に乱されて殆どが忘れ去られていまに伝わっていない。矢作分立の経緯も、それ以前の領主についても不明である。
ただし、矢作は気仙郡の入口として当時重要な場所であり、そこに進出したことはその後の気仙郡千葉氏の発展が約束されたようなものであった。その先兵は宮内少輔広次で、小友鶴ケ崎への進出であったと考えられる。貞和二年(1346)、今泉氏と小友氏との争いがあり、小友鶴ケ崎城主常直が流郷に移っていることから、その後釜に入ったようだ。
戦乱の時代
広胤の跡は因幡守重胤が継ぐが、あたかも南北朝の争乱期を迎えることになる。従兄弟の馬籠行胤は石堂氏に攻められて滅亡の危機に瀕するが、その時重胤がどのように動いたかは伝わっていない。このとき、石堂軍は赤岩城まで攻め込んでいるが、矢作までは侵攻してこなかったのであろうか。
その前後に重胤には重慶・胤茂の男子が生まれている。長じて重慶は家督を弟の胤茂に譲り、自らは広田湾を見晴らす氷上山麓に進出していく。叔父の小友広次を頼りとしたのであろうか、その本拠は小友の入口の普門寺付近だといい、南北朝期の混乱に乗じて、将来性のある高田の湿地帯を占有したのであろう。やがて、子供の胤慶を浜田に、慶宗を長部に、重吉を高田へと分立させることになる。小友の広次を加えれば、矢作千葉氏は広田湾の全域を同族で制圧したことになる。
一方、矢作氏は南北朝期に胤時−高胤−重信と継承しているが、新進の浜田一族の発展に比べて日陰の存在であった。文明四年(1472)三月、矢作重信は大原信広によって攻められたという。このころ、太守葛西氏は大崎氏の圧力を受け、家中も紊乱して探題とは名ばかりの状態になっていた。またこのころ、中館熊谷直氏が大原氏に亡命しているのも何らかの関係があったのであろう。おそらく、大原氏は港を求めて気仙郡攻略を試みたようだが、その結末は不明というところである。
葛西氏に属して活躍
永正元年(1504)、浜田基継は横田で大原信明と戦っているが、この戦は浜田氏の負けとなったようだ。その折、矢作氏は葛西重信より感状を与えられている。ということは、葛西太守が大原や矢作氏を使って、浜田氏を制圧したということかもしれない。矢作氏では、越中守重時か和泉守重村の代と思われるが、このころには支流の浜田一族とは離れて、大原氏と提携するようになっていたようだ。その後、重親−重久と続くが、海岸部では天正十四年(1586)に元良大膳が、同十五、十六年には浜田安房の反乱が起こり、本吉・気仙郡は大いに荒れた。
矢作氏は常に葛西太守に属して功を挙げ、重常は浜田氏に代わり気仙郡の仕置を命じられ、金の采配を与えられたという。ここにおいて、矢作氏は気仙郡千葉氏の宗家としての名誉を回復したことになる。しかし、その栄誉もわずか二、三年のことであった。天正十八年(1590)の「奥州仕置」の結果、矢作氏は葛西宗家と共に滅亡し、重常も須江山において憤死したという。
その跡は重胤が継ぎ、その系統は気仙郡の大胆入として近世に続いたという。それとは別に、矢作内膳や玄蕃が仕置迎撃軍に参陣したとも伝えられている。
【資料:葛西中武将録/岩手県史 ほか】
■参考略系図
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