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奥羽山内首藤氏
白黒一文字
(秀郷流首藤山内氏族)


 源頼義の郎党藤原資通は首藤大夫と称し、次第に武士化した。その曽孫俊通は相模国山内庄に本拠を置き、山内首藤と称した。そもそもは藤原秀郷を祖とする藤原姓で、源平時代は源氏に仕えて、「平治の乱」に資通・俊綱父子は出陣して戦死している。その後、経俊(資通の子)は一時、平家方であったがのちに源頼朝に従い、義経追討などに功をたて、伊勢・伊賀の守護職のほかに相模の早河庄、備後の地比郡などに地頭職を得た。

山内首藤氏の奥州入部

 経俊は奥州征伐にも出陣し、戦後の論功行賞で奥州に領地を賜った。山内首藤氏が最初に新領地としたのは、文永七年(1270)六月十三日の『関東下知状』によると、「陸奥国桃生郡内吉野村地頭事」とあり、相模・備後・伯耆などの散在する諸領とともに「桃生郡内吉野村」を惣領に譲る旨の記録がみえる。
 山内首藤氏の奥州下向については、建久三年(1192)に経通が七尾城、あるいは助通が福地に移った、また俊通の末子某が永井城に下向してきたとかの伝えがあるが、いずれもそれを裏付ける傍証はない。いずれにししろ、奥州征伐の功績により頼朝から吉野村の地頭職を命ぜられ、桃生半郡の郡司として、永井・太田・相野谷・七尾・福地一帯を所管した。そして、現地に下向してきたのは山内氏の庶流で、建治のころ(1275〜77)であったと考えられている。
 奥州征伐でののち、多くの鎌倉御家人が奥州に領地を賜ったが、その経営は初めは代官、のちに庶子家がうまれてくるとかれらに委ね、嫡流は鎌倉に住して幕府に出仕した。そして、鎌倉山内を本拠として、元弘の乱、南北朝の争乱期を経て鎌倉府に仕えた。ところが「永享の乱(1438)」において、関東公方足利持氏が幕府軍の追討にあって自害し鎌倉府が滅亡した。
 このとき、持氏の側近であった宗通・俊高らは桃生の領地に下り逼塞した。山内首藤氏系図などにみえる胤通・則胤・頼通らの伝承はそれを裏付けるものであろう。一方で、山内首藤氏は、葛西太守に近侍したという伝えがあるが、それは臣従というものではなく、郡司が国司級のものに礼を尽くしたと受け止められる。
 このように、山内首藤氏は鎌倉を中心に活躍し、鎌倉府滅亡を機に奥州に下り、本格的な領地経営に着手したものと思われる。そういう意味では、奥州の新興勢力というべき存在であった。とはいえ、山内首藤氏の本領は西国にあり、正和五年(1316)山内通資は一族郎党を引き連れて西下し、地比郡北部の多賀村にある蔀山に城を築いて、そこに拠ったことが知られている。

山内首藤氏の勢力拡張

 奥州の領地は、山内氏にとってそれほど重要な地でもなかったようで、奥州を支配したのは嫡流といわれるものの、その実は支流山内氏であったものと想像される。
 さて、奥州に領地を有した山内首藤氏が最初に居城と定めたのは、永井城であったといわれる。しかし、「仙台領古城書上」によれば同城に山内氏があったことは見えないし、その確証もない。ただし天文二年(1533)八月に書き写したといわれる古文書中に、経俊の末弟が同地を所領した事が記されている。まず、草創時代の山内首藤氏が永井城を最初の居城としたことは間違いないと思われる。
 そして、鎌倉末期から、南北朝頃にかけて山内首藤氏の勢力は膨張し、桃生郡二十四郷を領する大豪族にのし上がった。
 このころは大森城を居城にしており、最初の城永井城はいつのころからか重臣に譲っていたようだ。大森城を本拠としたのは。南北朝時代から室町中期(1300〜1450)ころまでの百五十年間で、山内首藤氏がもっとも勢力を拡大した時代であった。永井・大森と続いた山内首藤氏の居城は、最終的には七尾城であった。しかし、同城に移った年代は不明である。

葛西領内の擾乱

 南北朝末期から室町時代にかけては惣領制が崩壊し、一族・一門間に勢力争いが繰り返されるようになった。これは全国的な風潮であり、各地に群雄が割拠する一因ともなった。
 このころ、中奥の最大勢力は葛西氏で、その葛西氏も一族の内訌に苦慮していた。そして、葛西氏には伊達氏から宗清が入り、伊達氏の干渉を受けるようになった。宗清の葛西家督相続に反対する一族・家臣も多く、明応八年(1499)葛西氏家臣の末永氏が宗清を暗殺しようとした。末永氏は葛西家四宿老の一人で、葛西家中の実力者であった。
 事件は、事前に発覚して宗清は難を逃れ、末永兄弟が助命嘆願したことで一件落着したが、その後も末永一族は葛西家中の反主流派として重きをなした。すなわち、桃生深谷の長江氏、登米の鬼越氏、そして山内首藤氏らが葛西氏打倒を目論んで末永氏を支援したため、葛西領内は混乱が続いた。
 山内首藤氏が末永氏の加担したのは、葛西氏を打倒するためでもあったが、登米一族の登米行賢が山内首藤貞通の姉婿、つまり義兄であったためでもあった。そして、登米行賢は末永氏と親密の度を深め、葛西宗清に対して不穏な動きを示していた。
 一方の宗清は、末永氏らが反抗的姿勢を改めないのは、その背後に登米行賢と通じる山内首藤貞通の存在があるためと判断し、山内首藤氏の勢力を除くことに意を払った。こうして、永正年間(1500頃)全盛期の山内一族と、葛西氏の一族との間に確執が繰り返されるようになった。

永正の合戦

 永正八年(1511)、桃生郡と牝鹿郡の境のことで、山内首藤氏と葛西氏の間で紛争が生じた。おそらく、山内首藤氏が葛西領に侵攻したものと思われる。ここに至って、葛西宗清の山内首藤氏に対する怒りは爆発し、山内首藤氏を討伐するため出陣の命令を下した。ついに、山内首藤氏と葛西氏の間に戦端が切られたのである。この戦いは「永正の合戦」あるいは「七尾城の合戦」とも呼ばれ、記録に残る桃生郡内の合戦としては最大級のものであった。
 葛西宗清は諸軍を率いて牡鹿郡の湊に浮かぶ山内首藤方の軍船に攻撃を加え、これを追って本吉郡に着岸、戸倉、小滝付近に上陸した。そして山内首藤方の北面を守る要害である、桃生の合戦崎城を一挙に攻めた。  合戦崎城は天然の峻険で、湖沼があり防ぐに易く攻めるに難い要衝の地であった。首藤貞通は援軍を繰り出し防戦に努め一気に頽勢を挽回するかにみえたが、葛西軍の勢いに圧倒され、首藤軍は総退却となり大森城・七尾城に籠城することとなった。
 一方、葛西方には江刺・薄衣・黄海氏らがぞくぞくと石巻に集結し、さらに宗清の子重清が牝鹿の地から諏訪城を抜き、大森城に向かった。石巻に集結した葛西軍は首藤氏の牙城である中島館、七尾城を北上川沿いに取り囲み、形勢はまったく葛西軍の一方的勝利に終わるかにみえた。
 しかし、地勢を熟知している山内方は貞通の弟江田七郎が夜戦をくわだて、軽卒百余人を率いて葛西陣に攻撃を加えた。この攻撃に葛西軍は散を乱して潰走し、四分五裂の散々な敗北となった。

葛西氏に降る

 その後、葛西軍は敗戦の恥を雪がんと再度行動を起した。そして先の敗戦にこりて、大森・七尾両城のまわりに諸陣をひき、山内軍の機動作戦を封じた。こうなると、北上川流域に多くの属城を配した山内首藤氏であったが、身動きできない状態となった。
 ついに山内首藤氏の籠城軍は餓死寸前に追いやられ、抗戦絶望とみた貞通は和解を乞うたが宗清はそれを許さず、まず大森城が落城し、七尾の城も永正十二年(1511)に落城した。貞通は桃生の内十郷を割いて葛西の軍門に降った。貞通は嗣子千代丸を弟の清通、伯父の頼重に託して同地を去っていった。貞通は高野山に上り、読経三昧の生活を送り大永二年(1522)に死去したと伝えている。
 こうして、桃生郡に勢力を振るった山内首藤氏は没落した。残された千代丸は元服して知貞と名乗り、その後裔は伊達氏に仕えたといわれている。また、白石山内城に移ったとか、相馬氏の賓客として遇されたとかの伝えもあるが確証はない。
 余談ながら、山内首藤氏が没落する原因となった「七尾城の合戦」の記録は、首藤氏直系で知貞の子頼嗣が貞享年間(1680年代)に著したものを、その子の知常が補修したものといわれる。これを後世の人々が戦記物語に仕上げたたもので人名などに誤りを生じているが、山内首藤氏の興亡を伝えるものである。

【参考資料:葛西中武将録】

●山内氏の家紋─考察




■参考略系図
   
 


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