陸奥熊谷氏
寓生に鳩
(桓武平氏北条氏流) |
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熊谷氏は、桓武平氏北条直方の後裔を称し熊谷直貞がはじめて武蔵国大里郡熊谷を領し、熊谷と称したことに始まる。
一説に、熊谷氏は宣化天皇を祖とする丹治姓・私市氏の後裔ともいい、直季の時に熊谷氏を名乗ったのだという。それによれば、直季は源頼義に従い「前九年の役」で鎮守府軍監として功をあげ、武蔵国熊谷に三千余町を賜り武州目代として私市氏より分家し、熊谷にちなんで熊谷氏を称したとある。丹治姓熊谷氏は直季のあと、直広・直孝と続いたが直孝は子に恵まれなかったため、平家一門の直貞を養子に迎えた。以後、熊谷氏は平姓を称するようになった。
直貞の長子と思われる直正は近江国浅井郡塩津郷に住んで、近江熊谷氏の惣領として豪族化した。この直正の弟が一の谷の合戦で平敦盛を討った次郎直実である。直実は石橋山の合戦では源頼朝を攻めたが、のち源頼朝に従い平家追討に功をたて本領を安堵された。しかし、建久三年(1192)一族の久下直光との所領争いに敗れて家督を嫡子直家に譲り法然上人に帰依して出家した。
出家後の直実は蓮生房を名乗り、東海道藤枝宿に熊谷山蓮生寺を建立。熊谷郷に帰った後は草庵を建て念仏三昧の生活を送り、承元元年(1207)上品上生を予告し往生したと伝える。
奥州熊谷氏の成立
熊谷氏が奥州に関係をもつ始めとなったのは、文治五年(1189)源頼朝の奥州合戦に直家が参加し、その功により本良庄の地頭職に補任されたことによる。その子直宗は、赤岩館を中心に気仙沼地方に勢力を伸張し、やがて本吉郡北方に支配権を拡大した。
また、武蔵の熊谷郷に住んだ直国は「承久の乱」の時戦死し、その功によりその子直時は新たに安芸国三入庄の地頭職を与えられ、その子孫は法然が直実に授けた「迎接蔓茶羅」を携えて、弘安以後三入庄に落ち着き戦国時代に至っている。
奥州に下向した熊谷氏は直宗の子石見守直鎮、その子左衛門尉直光、その子佐渡守直時と続いた。この間に、直光は「霜月の乱」に出陣している。また直光は、弟直遠を高良木、直則を八瀬、直忠を磐井に分立させ、次ぎの直時は弟の直能を寺崎、直景を松崎、直久を磐井中里に分立させている。このように熊谷氏の勢力は直光・直時の時代に着実に広がっていった。
熊谷氏の挫折
「熊谷系譜」によれば、南北朝初期の建武三年(1336)、葛西陸奥守高清と千葉周防守行胤とが本吉郡馬籠村で合戦に及んだとき、直時は千葉行胤を支援したとある。
葛西氏は鎌倉以来、葛西五郡を領して勢力を誇り、建武の新政がなると陸奥守として下向してきた北畠顕家の麾下となり奥州南朝方の有力者として活躍した。鎌倉末期、関東葛西氏が奥州に下向し、葛西氏は奥州葛西氏と関東葛西氏の二系が存在していたようだが、奥州葛西清貞が葛西太守として惣領職をつとめ、葛西高清は関東系葛西氏の人物であった。
建武二年、北畠顕家は後醍醐天皇の命を奉じて奥州兵を率いて西上の軍を起こした。この軍には南部・伊達・白河氏らとともに葛西清貞、高清も参加して、顕家とともに京都に攻め上った。顕家軍は足利尊氏と戦ってこれを破り九州に追放して京都を回復した。戦後、高清は一足先に葛西に帰りつくと、兵を集めて本吉郡馬篭村を襲撃したのである。おそらく、高清は奥州葛西氏の惣領職を狙うとともに、本吉郡を支配下に収めようとしたのであろう。さらに、南朝方に忠節を尽している惣領清貞に対して、足利尊氏方へ心を傾け、この馬籠村侵攻をきっかっけとして足利方に転向したものと思われる。
熊谷直時の母は馬籠氏の出であり、熊谷氏は流郷や寺崎の一族も糾合し全力を上げて馬籠氏を応援した。そして、葛西高清の軍勢を籠城戦で迎え撃ったが、衆寡敵せず馬籠方のほとんどが戦死するという壊滅的敗北を喫した。熊谷軍は直時及び一族六人が戦死し、本城に退いたが高清軍はこれを追撃し赤岩城を包囲したが、難攻不落の赤岩城を落すことができず攻撃軍は兵を引き揚げた。
この戦いについて「熊谷系譜」では、南朝方の葛西高清が北朝方の馬籠・熊谷氏を討伐したと伝えているが、馬籠千葉・熊谷氏ともに南朝方に属していたようであり、北朝方に転じた高清が勢力拡大を狙って攻撃をしかけたものであろう。戦いは高清方の勝利となり、本吉郡は高清が掌握するところとなった。以後、馬籠千葉氏の動向は不明となるが、直時の子弾正忠直明は滅亡することもなくそのまま領地を維持し、敗戦のあとも赤岩城を守り、その後もたびたび葛西家の大軍と戦ってその勢に屈しなかった。
その後、奥州は北朝方が勢力を拡大し、北畠顕家は多賀国府から伊達郡霊山に移った。そして、建武四年、後醍醐天皇の命によりふたたび西征の軍を起こした。葛西大守清貞は顕家の上洛軍に従ったが高清は参加していない。西上した奥州軍は、和泉国石津合戦で大敗を喫し顕家は討死、清貞は命からがら石巻湊にたどり着くという結果となった。北畠顕家が戦死したあとは実弟にあたる顕信が下向し、奥州南朝方の中心として勢力の回復につとめたが、三ノ迫の合戦で敗北し南朝方葛西氏も北朝方に屈した。そして、貞治二年(1363)にいたり、熊谷氏もついに葛西家に降りその支配下に入ったのである。
熊谷氏の再起と興亡
こうして、鎌倉期以来営々として経営してきた領地の大方を失い、熊谷一族は逼塞を余儀なくされた。以後、直明・直政・直行と続き、葛西氏に臣従しながら次第に勢力を回復していった。
備中守直宗(直致)の代には、宇都宮氏討伐にも参陣するなど戦功を重ねながら旧来の勢力圏を回復していったようだ。この時期、唐桑や横山、中館や岩月への庶子家分立が伝えられていることでもそれが推察される。直宗のあとを継いだ信直は、馬籠氏と争ったり、応仁元年(1467)の三ノ迫合戦に出陣するなど、熊谷氏の武威をおおいにあげた。そして直政は江刺攻めに参加して新領を得て、石森熊谷氏を分立させるなど着実に勢力を盛り返していった。
さらに直定の代になると、葛西太守に近侍して一層勢力を強め、嫡子直景に赤岩館を継がせ、二男の直光を分立させ長崎館を築いている。まさに、熊谷氏は失地を回復し葛西家中における勢力もおおきく増大させた。しかし、このことが、熊谷氏の悲劇につながることになるのである。すなわち、永正十二年(1515)、葛西稙信(晴重)は、気仙沼赤岩城主熊谷直定の二男直光に気仙沼荘長崎邑を与え長崎に城を築かせた。これは、勢力を拡大する熊谷党を分割してその勢力をそごうとする葛西氏による策であった。
赤岩熊谷氏の惣領は、直光の兄直景であった。当時は、惣領が一族を統轄し、本家・分家の秩序が重んぜられていた。それだけに、弟直光が長崎館主として、赤岩と対等な独立をしたことは直景にとって不愉快なことであったろうし、両者の間に軋轢が生じたことは容易に想像できる。しかし、この戦はどうして起こったのかは謎が多く伝承にも矛盾が多い。この頃葛西氏は晴重から伊達系晴胤に移っていた、晴胤は旧勢力を払拭して、新家臣団編成をほぼ完了したばかりであった。従って、鎌倉以来の地頭であった熊谷氏の繁栄は好ましくなく、それを揺さぶるべく内訌を起こさせたと考えるのが一番自然なようだ。熊谷一族同士の抗争は、葛西氏の遠謀でもあったといえよう。そして、それから十四年後の天文二年(1533)三月、熊谷直景は葛西太守に背任という理由で、葛西軍の攻撃を受けた。
攻撃軍は太守みずから率い、寄せての先鋒は長崎館の直光であった。赤岩城はかつて葛西軍の攻撃を受けて一指も触れさせなかった要害である。しかし、直景は葛西軍の攻撃に敗れ去り、「在城の党族皆これを殺戮、誅に伏す」という結末になった。
戦後、赤岩城の領地は直光に与えられたが、「兄殺し」「本家つぶし」の批判を避けたものか、直光は弟の直脩をして赤岩城を継がせ、自らは気仙沼熊谷一族の頭領としての実権を握った。直光・直脩兄弟には、直景のほかに庶腹の兄で築館城主の直政がいたが、この合戦のときの動向は不明である。また、中館熊谷氏の動静もわからない。おそらく、葛西太守の権力に密着した長崎館の直光に対し、熊谷一族の多くは表面上従いながらも、ひそかに不信感を募らせていたようだ。
混迷を極める奥州の戦乱
天文十三年(1544)、伊達家中では稙宗と晴宗の父子が抗争した「天文の大乱」が起こった。この乱中に、流金沢飯倉館の熊谷越中守直朝は、栗原郡三迫郷里谷に移住している。
飯倉熊谷氏の祖は、赤岩城主熊谷直行の孫直継である。直継は葛西持信に近侍して、采地を賜り、金沢飯倉に居住して直朝に至った。直朝は、文亀三年(1503)に大崎家臣となって飯倉を去った直綱の子で兄直顕の養子となったものである。直朝の一族はことごとく大崎家臣であった。しかし、直朝の三迫移住は大崎家臣としての行動ではなかったようだ。
直朝の子直行は葛西氏没落後に仙台藩士となったが、『伊達世臣家譜』には「富沢吉内家僕」と書かれてあることから、葛西一族でありながら、大崎・伊達氏とも通じた三迫の雄、富沢氏が自己の戦力とするため、熊谷直朝を誘ったものと考えられる。
永禄二年(1559)、葛西晴信が行った人事において、流総旗頭として、本吉郡岩月村八幡館の城主熊谷直則が起用されている。流地方の旗頭はかつて峠城主の寺崎氏であった。しかし、永正四年(1506)、金沢氏に敗れて衰退、さらには葛西氏に嫌われて討伐を受けた。他には、岩淵・奈良坂氏らもいたが、まとまりが無いため、熊谷氏が登用され、大崎に対する国境線防備に当たらせようとした結果の人事と考えられる。一方、直則を流総旗頭として、流地方に残存する熊谷勢力を糾合し威力を強化する狙いもあったとみられる。すなわち、金沢北館、三迫の里谷の熊谷氏らが割拠しており、熊谷の名はあまねく知れわたっていたのである。
永禄十二年(1569)秋、宮城郡の留守顕宗が、深谷の三分一所氏に攻められたため、葛西晴信は救援軍を派遣した。そして、晴信は気仙沼長崎館の熊谷河内守直正に、指揮を命じた。直正は、晴信から信頼の篤い部将の一人であったようだ。直正の宮城郡進出は、船を利用したものであったようで、直正の援軍は留守顕宗を喜ばせ、早速、直正を先陣の将として三分一所城攻撃を開始した。葛西軍の来援と攻勢により、三分一所景清は抵抗をあきらめ和議が成立した。顕宗は直正の帰還にあたり、戦功を賞して佩刀を贈ったことが知られる。
直正が留守家支援のために出陣していたとき、養嗣子直資は、大崎・葛西氏の紛争の和解交渉に活躍していたようで、伊達晴宗から感謝状を送られている。すなわち、永禄八年、伊達稙宗が死去し、晴宗は奥州探題としての責任上、大崎・葛西氏の紛争に意を用いていた。ことに大崎氏に対しては、領内紛争鎮圧のため二度にわたって出兵している。このころ、大崎氏は伊達氏の保護領化していたのである。
直資が交渉役に起用されて活躍したのは、紛争の前線に近い流地方には総旗頭の熊谷直則をはじめ、三迫の里谷の熊谷氏、金沢飯倉の熊谷氏らがいて、一族からの情報入手が容易であった。このことが、直資が交渉役に起用された最大の理由であったろう。さらに、伊達氏は熊谷氏の留守氏支援のための出陣をも知っていたようだ。ちなみに留守顕宗は、伊達氏から留守氏に入った景宗の子であった。いずれにしろ、直正・直資父子が、大崎・留守・葛西氏の間で紛争調停に一役かったことは疑いない事蹟である。
しかし、熊谷直資の外交交渉にも関わらず、大崎・葛西の和平は長続きしなかった。元亀二年(1571)、大崎義隆は自ら兵を率いて栗原郡東部に進撃した。そして、流の大門二王ケ原で、葛西晴信の大軍と遭遇した。戦場は流庄から三迫諸郷におよび、やがて佐沼地方へと移っていった。葛西軍の主力は、流の岩淵金沢一族と熊谷但州など、磐井郡からは小岩一党・黒沢氏、東山の大原氏などであり、気仙沼長崎城主の熊谷直正も出動していた。この合戦はまる三年ほど続いたが、葛西方は栗原郡三迫地方を占領し、大崎氏の在地勢力をそのまま家臣団に組み込むという結果になったのである。
打ち続く戦乱
元亀三年(1572)八月、東山の黄海高衡が登米郡嵯峨立の千葉信輔と戦った。合戦の原因は不明だが、黄海高衡は葛西太守と親族となり、権勢を振るい千葉氏と衝突したものとみられる。熊谷氏は黄海氏と交流が深く、赤岩城主直秋の子直益や月館城主直澄の子直慶は黄海氏の娘を妻としていた。その誼でこの合戦に気仙沼赤岩城主熊谷直秋とその子直益が黄海氏を応援したが、黄海氏は大敗して直秋父子はともに戦死し、熊谷氏にとっては惨たんたる結果となった。
天正二年(1574)、本吉重継が兵を起こし、葛西軍と合戦におよんだ。太守晴信は大崎氏との合戦に勝利したあとでもあり、大軍をもって一挙に制圧しようとした。この戦いの詳細は不明だが、流の金沢北館の熊谷晴直が軍監として出陣したほかに、胆沢・磐井・東山・登米の諸将が参陣し、本吉方は敗退したという。
本吉の乱が集結すると、気仙沼築館郷中館城主の熊谷直平が挙兵し、長崎・赤岩・築館の諸城を攻撃した。これら諸城は熊谷氏同族が拠る城地である。すなわち熊谷一族内の内紛であり、おそらく熊谷直平は、四十年前の直景誅殺以来、嫡流でもない長崎館が一族の頭領ぶっているのを苦々しく思ってきたものであろう。太守晴信は熊谷一族に命じて、中館を攻撃した。中館熊谷一族は衆寡敵せず敗れて没落し、その跡は長崎館直正の子直房が入って再興した。
天正六年(1578)、気仙沼築館城主の熊谷直澄が兵を起こし、長崎館の直良と合戦した。ここに至るまで、熊谷一族では中館の直衡一族が滅亡し、本家の赤岩熊谷氏は先の嵯峨立の戦で直秋・直益父子が戦死したことで衰退していた。直澄の熊谷氏は直定の長男でありながら庶子であったために、分立した家である。また、直澄の母は直良の伯母でもあり、宗家ぶった直良に怒りをぶつけたものであろうか。
奥州仕置と熊谷氏のその後
両者はともに城を出て松川で合戦した。結果は長崎館の直良が戦死し、築館方の勝利に終わった。そして、後継者のいない長崎館主の座は直澄の弟直資が相続した。ここに、直景誅殺以来、血で血を洗った熊谷一族の内紛は築館の勝利で終止符が打たれたのである。
直資は馬籠氏から養子直長を迎えた。直長は直資が見込んだだけあってなかなかの人物で、浜田の兵乱のときの働きは抜群っで、太守葛西晴信の信頼も厚く、天正十八年には気仙・江刺・磐井・胆沢四郡の仕置のため馬上三十騎、弓槍の者百五十名を許されたという。これは、当時、葛西家中の巨臣といわれる江刺・浜田・柏山氏らの去従が不鮮明で、その状況が葛西太守の熊谷氏に対する信頼につながったものと思われる。
天正十八年、豊臣秀吉が小田原征伐の軍を起こし、奥州の諸大名にも参陣を呼びかけたが葛西氏はこれに応じなかった。ために、その後の「奥州仕置」によって所領は没収、城地追放の処分となった。晴信は直長を頼って葛西氏再興運動を懇願した。直長は晴信の依頼をいれて浅野長政らに対して折衝を行ったが、「大崎・葛西一揆」の勃発などもあって、結局、葛西氏の再興はならなかった。
その後、直長は津谷に引き蘢ったが、伊達政宗に召し出され、関ヶ原の合戦では白石城攻撃軍に参陣、子の直知は伊達氏に仕えて一千石を知行した。他方、赤岩城主の賀広も伊達氏に二百石で仕えたという。
奥州熊谷氏は多岐にわたっており、奥州仕置ののちの大崎・葛西一揆に加担して仕置軍と戦って戦死した者、行方不明になった者などがおり、一族の多くは帰農したようだがそれぞれの後裔の系譜的つながりは不明である。
・ダイジェストへ
●熊谷氏の家紋
伊達家の家臣だったという、仙台市在住の熊谷さんから家紋の画像を送っていただきました。「向かい鳩の、左は口をあけております。金色のは、開いておりませんが、開いているのが正式です。」との注記も添えていただき、家紋におけるきまり事「阿」「吽」が守られていることに感激しました。
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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安逸を貪った公家に代わって武家政権を樹立した源頼朝、
鎌倉時代は東国武士の名字・家紋が
全国に広まった時代でもあった。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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