陸奥黒沢氏
七 曜
(奥州葛西氏一族)
*幕紋は三葉柏を白地に貼る |
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奥州葛西氏の一族。嘉禄元年(1225)三月、葛西清重の四男時重は、鎌倉幕府四代将軍・藤原頼経に近侍してその信任を得、従六位下・左衛門尉に叙せられた。さらに父清重の領内である磐井郡黒沢郷に三千余町の領地を与えられて黒沢を称したという。
時重は武勇に優れた武者であったようで、「無双の弓の上手なり」と伝わっている。彼の旗印は「赤地に九曜」、幔幕は葛西氏一族を物語る「白地に三つ葉柏」だった。しかし、黒沢氏の祖とされる時重の事歴については異説が多い。
黒沢氏の出自、諸説
たとえば『平姓奥州葛西系図』には、時重を清重五男とし号は黒沢七郎とする。さらに、従五位下左衛門尉に任じて、鎌倉将軍頼嗣朝臣の近習を務め、無双の弓の上手。奥州磐井郡二千余町の地を領し、同郡上黒沢郷に住す。弘長元年(1261)二月十五日卒すとある。 『平姓奈良坂系図』では、「時重は清重四男。黒沢七郎、始め葛西壱岐七郎左衛門尉と称す。従六位上、建保年中より奥州磐井郡黒沢邑に住し、ゆえに屋号と為す。寛喜元年(1229)より鎌倉将軍家の御近臣となる。正元元年(1259)八月十七日卒」とみえる。
さらに、『盛岡葛西家系図』、『本称寺蔵葛西系図』などの記述も微妙に違っており、『黒沢家譜(『伊達世臣家譜』巻の12)』 には黒沢氏の祖として、清重の四男、従六位下左衛門尉時重を祖とす。その裔、虎ノ間番士となる。今、三百四十一石の禄を保つ。時重、嘉禄元(1225)年三月、鎌倉将軍頼経卿の近侍。三千余町奥州磐井郡黒沢邑に受け、よりて氏としおわんぬ…とある。
といったように、書によって微妙な相違を見せているのである。いずれにしても、葛西清重の男の一人である時重が磐井郡黒沢郷に住んで、黒沢氏の祖となったことは諸書の一致するところである。ちなみに、一関周辺には時重を祖とする家門が多く、荻庄の黒沢氏、さらに清重の子を重氏としてその後裔とする赤荻氏などがある。
葛西氏の重臣となる
黒沢氏は葛西氏との間に血縁を重ね、繁村は清経の娘を、宗重は定清の娘を、くだって信寛は晴胤の娘をそれぞれ妻とし、守忠は持信の子を養子に迎えている。そして、葛西宗家に家老として近侍していたことを自負していた。
五代重尚のころ、南北朝期を迎えているが、葛西忠清に仕えて葛西北方鎮護となり、黒沢村に千町を賜ったという。その子清尚は江刺氏との戦いで戦死しているが、康安元年(1361)三月に葛西詮清が江刺高津嗣と浅井村で戦ったときのことであろう。
信盛・信理父子の時代は、伊達系葛西宗清の領内統一の時期にあたり、近辺が騒がしくなったときであるが、系譜では何も語られていない。信理の子信資は勇猛の武者で、荻荘本郷千七百町を賜っていた。しかし、葛西稙信と大崎高持が佐沼・新田で戦い、葛西方が敗北した享禄四年(1531)に戦死したという。
その後、黒沢氏の勢力は衰退したが、信忠―豊前信通と続く、別に信資ー豊前信通とつながる伝えもある。さらに信資には信久―信明―義任と続く系譜もあり、それぞれが同一人か別系かは不明である。おそらく、並立し、協力しながら活動したものと想像される。
戦国時代の終焉と黒沢氏のその後
天正九年(1581)、豊前信通と越中信明が柏山明国と結んで、長部忠俊に攻撃を加えている。戦勝はしたようだが、長部氏は葛西分流であり柏山氏が葛西太守の勘気を受けていることから、黒沢氏にとっても好ましい結果とはならなかったようだ。
天正九年七月、今度は東山の長部孫八郎と武力衝突した。合戦の原因は不明だが、三迫片馬合上吉目木城主千葉式部大夫兄弟、小岩信明らが黒沢豊前(信明)を支援し、小岩信明は長部孫八郎を討ち取っている。つづいて、天正末年ごろ、豊前は山目小石名沢城主千葉下野守と争っている。黒沢氏の下黒沢城と山目小石名沢城とは磐井川をはさんで相対していることから、豊前は領土拡張の野望に燃え、小石名沢城を攻略しようとしたのである。
黒沢豊前は馬上七、八騎に雑兵百人ばかりを率いて小石名沢城に攻め寄せたが、小岩駿河守・赤萩三河守らが千葉氏に加勢したため、ついに城を落すことができず兵を引いている。この戦いは兵力・規模からいってまことに小規模なものだが、天正末期の葛西領内の動静を伝えるものであろう。黒沢豊前は葛西家中の大身で、武勇・知謀に優れた人物であったが、佞奸な性格の持ち主でもあったようで葛西氏とは次第に不和となっていた。
天正十八年(1590)、小田原北条氏を降した豊臣秀吉は、ひきつづき「奥州仕置」に着手し。小田原に参陣しなかった奥州諸大名に対する処分を行った。その結果、葛西・大崎・稗貫・和賀の諸大名は所領を没収され追放となった。その後に行われた検地に対して葛西・大崎氏の旧臣らが反発して一揆を起こした。「大崎・葛西一揆」とよばれるもので、所領を失った葛西武士の多くがこれに加担したが、仕置軍の攻撃によって潰滅、奥州の地はまったく豊臣政権下に組込まれた。
豊前は、「奥州仕置」で葛西氏が没落すると、木村・蒲生・浅野・石田らの上方衆に属し、大崎・葛西一揆に際しては佐沼城攻城軍に加わっている。その後、上杉氏に仕え関ヶ原の合戦で白石城に籠城し、白石城落城後は伊達氏に仕えて、子孫は三百石を知行した。
【参考資料:一関市史/岩手県史/葛西中武将録 ほか】
■参考略系図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
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● 奥州葛西氏
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