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柏山氏
●三つ柏
●奥州葛西氏支流
 


 柏山氏は「かしやま」と読み、鎌倉末期から胆沢郡主となり大村城を居城とした。葛西氏に仕え、代々家老の家柄であった。
 柏山氏は、一説に千葉清胤(佐渡前司)が陸奥国江刺・輪賀・胆沢を領し、柏山氏を称したことに始まるという。清胤の「清」という字は葛西氏の通字でもあり、葛西清胤のこととも考えられるが確証はない。また別説として、平兼盛なる者の子に亀千代がおり、その子千葉平二郎盛春が胆沢や流に領地を得て、上伊沢に住して柏山氏を称したとするものもある。また、康永元年(1342)に葛西氏家臣の平二郎蔵春が上伊沢柏山に住したとの伝えもある。
 他方、柏山氏の祖はもともと奥州平泉の藤原氏の麾下にあって、文治五年(1189)八月の源頼朝による奥州平定によって土地を追われた。しかし、惣奉行職として平泉に入った葛西清重によって見いだされ、その取りなしによって御家人の列に加えられて胆沢郡に所領を与えられた。そして、奥州御家人の警察権をもっていた葛西清重の麾下に入ったのだとする説もある。ちなみに、室町末期の小岩播磨守信実の母が「柏山兵部清原信綱ノ娘」とされており、「清原」氏の一族であった可能性もある。
 いずれにしろ、柏山氏の発祥は不詳としかいいようがない。

柏山氏の出自─考察

 『吾妻むかし物語』の「胆沢殿の由来」によれば、柏山氏の出自を「むかし胆沢郡の主柏山殿(千葉殿五男と云伝ふ)というは、葛西七人衆の内なり、其七党と云は、気仙殿(千葉阿波守)、大原殿(飛騨守)、元良殿、薄衣殿、長部殿(磐井主)、江刺殿、柏山殿是を其時代に葛西七百騎といふ。一家より七百騎づつ出せばなり、然るに柏山は上胆沢三十三郷、下胆沢二十四郷合て五十七郷を領す、一説に柏山の先祖は小松の内大臣重盛の二男左中将資盛の子資元と云う人なり、(後略)」とみえ、これによれば、柏山氏は平清盛の曾孫にあたる人物が祖ということになる。
 一方、『柏山家先祖等系図』には、永承五年(1050)源義家が安部貞任を誅伐したのち「八幡八丁、塩竈八丁、上野八丁都合二十四丁」を平兼盛の一子亀千代に与え、寺蜘村に在城して水沢殿と号した、之が柏山の根本であるといっている。
 その後、寿永二年(1183)平家没落の時、亀千代の子平次郎盛春は京都を落ちて、葛西の傍に七年も生活していたが、葛西が奥州総奉行となって奥州を仕置することになったので、盛春の家臣茄子川(那須川ともいう)左衛門の働きで葛西清重の取扱によって、当時闕所となっていた「上胆沢、下胆沢、西磐井、清水、賀沢、涌津、石巻」の七ケ所の朱印を貰って帰国したという。七ケ所の地は、葛西清重が給与された地域であり、その中の闕所部分を給与されたということであろうか。そして、盛春は葛西に伴われて鎌倉に上り、知行を拝領し、千葉左近明広と改名したのだという。
 帰国した盛春改め明広は、上胆沢の大林に居城を構え、重臣の三田将監を前沢城に、蜂屋縫殿を上胆沢の水沢城に配置したと記している。その後、千葉左近明広は清重とともに鎌倉に出仕し、のちに柏山と改姓したというが、何故柏山と改めたのかは明らかではないが、みずからが支配する地に由来したものと思われる。
 ちなみに、室町期の文書に柏山氏が柏山郷を支配したとあるが、柏山郷という地名は伝わっていない。しかし『正法年譜住山記』のなかに胆沢郡内に大柏山郷柏山郷と称する地名があったことが記されていることから、柏山氏が没落したのちの郷制廃止のときに大柏山、柏山という郷名は削除されたものと想像される。

柏山氏の登場

 柏山氏の文書上の初見は、南北朝内乱期の康永元年(1342)、奥州武家方の総大将であった探題・石堂義房が鬼柳氏に宛てた書状である。それによれば、柏山氏は三迫大会戦に武家方として出陣したらしい。さらに、葛西家の家督・葛西満信の舅に当たる薄衣志摩守清常の妹は、柏山近江守元重(その実在は不明)の妻となっている。
 その後の一揆契状(永徳二年=1382)には、あきらかに葛西流と思われる武将の名が見られるし、応永十七年(1410)には葛西宗家の中務少輔を名乗る柏山氏がいる。さらに、清胤の系か高胤なる者の子に近江守元重が出ており、その他左京大夫を名乗るものが続出し、それぞれに傍証も乏しく系譜上での確定は困難である。このことは、南北朝期における惣領制の崩壊による嫡庶の出入りの激しさを物語っているものといえよう。
 下って、片諱に「明」を用いる名前が並ぶ系図があらわれ、その祖を上伊沢の左近明広とし、これを亀千代の子盛長に求めているが、それを裏付ける傍証もなく後世の付会であろう。また『熊野奉賀帳』には永正十七年(1520)ごろ、最高額を寄進した伊予守重勝がいる。別に、伊予守重朝と伊勢守重明が天文十二年(1543)頃にあらわれる。一方では出羽国清原の系を汲む兵部信綱がおり、その一類が伊予守信久であるとの伝えもある。また、刑部少輔胤定なるものも知られるが、それぞれ輻輳してそれらの関連は解明できない。したがって、このころの柏山氏の歴史も詳らかではない。

奥州の戦乱

 南北朝期の内乱を経るなかで、各地の国人領主たちの封建的領主への移行が活発化した。柏山氏は葛西氏に重臣として仕えていたが、葛西家臣のなかでもっとも早く領主化した。葛西氏が支配地を領国化するに伴って、葛西氏の領国化に貢献した柏山氏も領国化を押し進めるようになった。
 葛西氏と隣接する奥州探題大崎氏も領主化を推進し、明応年中(1492〜1501)になると葛西氏が大崎氏と抗争するようになった。このころの柏山氏は葛西家の中心勢力で、独立した領主となていて葛西氏の方針と一致しない行動を取ることも多かった。したがって、葛西氏の専横に反感を持つものも増え、柏山氏を弾劾しその討伐を訴える者もいた。
 明応八年(1499)、薄衣美濃入道が大崎氏の内紛に巻き込まれた時、葛西軍の大将として柏山重朝が薄衣城を攻めており、薄衣氏は伊達氏に援助を請うたことが「薄衣状」によって分かる。そして、この薄衣状から薄衣氏は柏山氏と勢力を競ったものの、柏山氏に勝つことができず、伊達氏の力を借りようとしたことがうかがわれる。しかし、伊達氏は柏山氏の勢力を高くかっていたようで、柏山氏を重用しようとした感がある。それを裏付けるように、永正十八年(1521)、伊達稙宗が柏山伊予守に手紙を送って、みずからの乗用馬を求めかつ羽州の所々を攻撃した情報を伝えている。したがって、薄衣の書状によって柏山追討軍を出した形跡はない。
 その後の葛西氏家臣団が二派に分かれて対立したことが引き金となった「永正合戦」で、柏山氏は薄衣氏とともに葛西宗清に属して出陣している。

柏山氏の自立化

 天文三年(1534)、柏山明吉が南部衆と一戦を交えたことが知られる。戦いに出陣した石川越後守は、南部衆の北七郎、六戸弥太郎をはじめとして馬上十騎、雑兵らを討ち取った。これに対して柏山氏は胆沢郡下で八千刈、磐井郡下で七千刈、計一万五千刈を恩賞として給付している。これは抜群の戦功であり、恩賞であった。この戦いが如何なる理由で起り、柏山氏が如何なる戦果をあげたか、これに葛西氏がどのように関わったかは、明確ではない。しかし、柏山氏が単独で南部衆と合戦し、単独で部下の石川越後守に恩賞を与えていることは、柏山氏が葛西氏から独立した領国化、領主化を果たしていたことを示している。
 戦国時代になると、豪族たちは部下の関心を集め、みずからへの忠誠を高めるため、さまざまな形で恩賞を与え、領国の拡大につとめた。一方、小領主らもその権益を守るために勢力のある者と結び、集合離散が激しくなった。これら、小領主を糾合する豪族たちを配下に取りまとめ得た者が、戦国大名へと飛躍していったのである。やがて、葛西氏と重臣の間におけるさまざまな葛藤が目立つようになってくる。
 天文十二年(1543)、伊達稙宗と晴宗父子の不和から起った伊達氏の内訌である「天文の大乱」では、柏山明吉は晴宗派として進撃しており、翌年には葛西晴胤の命で伊達氏内紛の仲裁に尽力したという。この乱における稙宗派との戦いの戦功に対して、葛西高信と柏山明吉が、柏山氏の家臣団に恩賞を競争するようにして出しているのである。
 たとえば、柏山氏の家臣である石川氏と三田氏の場合、石川氏に対して柏山氏が五千刈を恩賞として与えたが、その一年後に葛西氏が八千刈の恩賞を与えている。また、味方の敗勢を一気に挽回する功績を挙げた三田氏に対して、葛西氏は五千刈を与えたが、柏山氏は何の恩賞も与えなかった。葛西氏は柏山氏の家臣に対して、柏山氏の頭越しに恩賞を与えているのである。一方、柏山氏は葛西氏を無視して葛西氏と抗争している大崎氏を支援し、葛西氏は阿曽沼氏を無視してその家臣の鱒沢氏に柏山氏が大崎に味方しているから応援を頼むといっている。このように、柏山氏は葛西氏と対立関係にあったことがうかがわれる。

葛西氏との対立

 この葛西家中の情勢に対して伊達晴宗は柏山氏を重要視し、これを利用しようとしている。天文十四年ころのものと推定される晴宗から留守氏に送られた書簡中に、大崎と留守との紛争について、柏山伊勢守の兵力を借りることを進言している。そこで、留守氏は葛西晴信に書状を出して援兵を頼んだが、晴信は気仙沼城主熊谷河内守に援軍を命じている。晴宗は柏山氏と兵談するように奨めているのに晴信は柏山ではなく、熊谷に出陣を命じているのである。
 柏山氏は葛西氏の意に添わない存在ながら、伊達晴宗に信頼されていた。それは、のちに伊達政宗も柏山中書に丁重な手紙を送っていることからも知られる。これらのことから、柏山氏は葛西氏の重臣でありあんがらも、自立した勢力として伊達氏などから認識されていたものと想像される。その後1570年代、南部氏の南下が激しくなり、葛西北辺の武将たちに動揺が起こり、葛西氏への不服従の姿勢も目立ってくる。
 柏山氏の自立した領主化は、葛西家中からの独立一歩手前の状態にあったようだ。このことは、南部氏の家中でも八戸・津軽・九戸の諸氏が自立した領主化を推進していたことと同一線上にあるものであった。これもまた、戦国時代に一側面をあらわしたもので、葛西氏、南部氏などが服属している豪族たちの領地に対する領知権は中世的には何もなかったのである。
 石川・三田氏らは柏山氏の大黒柱であり、葛西氏が両氏に恩賞を給与したことは、両氏の歓心を買うためであったと思われるのである。そして、石川・三田氏らは葛西氏からの恩賞をどのような気持ちで受取り。それを柏山氏はどのように受け止めたのであろうか。
 柏山氏は南北朝期より台頭著しく葛西家中の中心人物として重きをなし、伊達・大崎氏ら周辺の豪族たちから一目おこれる存在となり、室町・戦国時代になると葛西一党から白眼視され、弾劾を受けるまでに成長した。葛西氏はこのような柏山氏を抑えようとした。それが、柏山氏の重臣の懐柔策であり、柏山氏としても葛西氏のこのような姿勢に反発し、たがいに一触即発の状態にあった。

柏山氏の内訌

 そのような時期、柏山氏に内紛が起こる。明吉の子明国は晴信の娘を妻としていたといわれるが、性暴慢なことから家中が揉めはじめ、家臣は弟の明宗を擁して引退を迫った。これに対し明国は引退を迫った家臣らを惨殺し、さらには隣国の長部氏を攻撃して大敗北を喫したりした。
 柏山氏の内紛は諸記録に散見するが、その実態は必ずしも明確ではない。一説に、元亀の初めころ(1570)から紛争が始まったとされる。柏山兄弟の紛争はなまやさいいものではなかったようで、やがて、柏山氏と葛西氏との紛争となり、さらに柏山氏の重臣三田氏との対立抗争となった。
 三田氏と対立したのは明国のあとを継いだ中務少輔明宗であった。三田氏は柏山家の創立当初からの重臣であり、代々忠誠の家柄の人であった。ある年、柏山氏の重要な年中行事に三田氏が参加しなかった。三田氏は柏山家臣団の筆頭であり、これを妬む者があり、行事への不参加は謀叛の心によると讒言する者があった。すなわち、三田氏は葛西氏家中の三田氏と度々会合をしており、陰謀をめぐらしているというものであった。
 このころ、柏山氏は葛西晴信と和議中であったため、三田氏に対して不信の念を抱いた。明宗は小山宮内を派遣して三田氏に切腹を強要した。しかし、三田は異心のないことを明宗に伝えたが、明宗は聞かずついに抗争とあんり両者とも多数の死傷者を出した。この事態に永徳寺と正法寺の両僧が明宗を説いたため、明宗も得心し両僧に調停を一任した。ところが、両僧の前で三田父子は切腹してしまった。
 三田一族の自刃によって柏山氏は大きな柱を失うこととなり、体制を立て直すためか居城を大林城に移している。
 柏山氏の内訌は不明な点が多いが、兄弟の抗争といい、三田氏との内紛といい、葛西氏の仕組んだ謀略のにおいが強い。葛西氏は小山・三田の率いる柏山勢に屈服せざるを得ないはめに陥り、その鬱憤を晴らそうとしたようだ。その結果、柏山氏はもっとも強力な家臣団を失うことになり、みずからを弱体化してしまった。そのことはまた、葛西氏自身の弱体化にもつながっていた。戦国末期の葛西氏は本吉・浜田に叛かれ、柏山に屈服し、急速に弱体化していた。それゆえに、天正十八年(1590)の小田原に参陣をしようとしても、留守中の領内が不安で動きがとれなかったのである。

奥州仕置と柏山氏

 やがて、天正十八年(1590)豊臣秀吉の「奥州仕置」によって柏山氏は滅亡する。『葛西真記録』によると、柏山摂津守は江刺三河守とともに寺池城の後見番詰であり、当時の居城は胆沢郡百岡で、諸士三百人の頭とある。内訌があったとはいえ柏山氏は、葛西氏家中屈指の大身として、胆沢全域のほか、西磐井方面にも勢力を及ぼしていたようだ。
 仕置軍が進攻してきたとき、柏山摂津守胤道および嫡子若狭守胤衡が、他の諸将とともに佐沼に籠城したというが傍証がない。「柏山系譜」には、伊勢守明好が天正十八年仙北郡に落ちて死亡、中務少輔明宗を文禄年中和賀郡に死亡したとしているが、天正十八年に没落、死亡したのは明宗が正しいと思われる。ところで、仕置軍迎撃にあたっては、柏山摂津守胤道とその子若狭介胤衡が葛西晴信とともに佐沼城に籠ったとする。別伝では、柏山清晴とその子則胤がそれぞれ三十騎で乗り込んだとするものもある。系図によれば明宗と明助に対比されそうだが、伝記はそれぞれ矛盾して確定は困難である。
 明宗の没落、死去後は、明宗の子千代丸は叔父たちに後見され、長じて明助を名乗り南部信直の客分となった。明助は和賀・岩崎の一揆に際して、家士を率いて参陣し功を挙げた。その結果、一躍南部氏重臣に登用され、花巻の岩崎城代となって千石を賜り伊達領との最前線を守った。
 また「水沢市史」によれば、柏山氏は伊達および豊臣軍の追求を逃れて秋田に潜入し、のち南部利直に召し抱えられたとある。そして、慶長五年(1600)の岩崎合戦には、本陣の部将の一人として、北松斎・八戸左近・桜庭安房ら南部氏譜代の老臣のなかに入れられ活躍している。
 他方、伊達政宗は葛西の旧臣がややもすると一揆の大将となれば厄介として、柏山氏らを暗殺させようとした。ところが暗殺を命じられた人物はその旨を柏山に報じたという。それを聞いた政宗、北松斎らは柏山の人格を思い「柏山が政道正しき故なり」といって北も柏山を大切に扱ったという。「奥羽永慶軍記」の「奥羽両国名有る陪臣」という項に、南部信直の家中に柏山伊勢守を挙げている。このような人物を使いこなせなかったことは、やはり葛西氏側に問題があったといえそうだ。

柏山氏の断絶

 柏山明助は、寛永元年(1624)に死去したが、その死は変死であったとする伝がある。すなわち、南部利直が毒殺したのだというのものである。柏山氏は明助をはじめ一族が相次いで早世したため、このような変死説が生まれたのであろう。明助の弟は明知といい、叔父の小山氏の跡を継いだ。しかし、慶長五年の和賀一揆に出陣して討死したと伝える。その弟明胤も南部氏に仕えたが兄たちと同様に早世し。その子明忠も早世、男子が無かったため柏山氏は断絶した。
 柏山氏が鎌倉以来、奥州の一隅に割拠して葛西氏との連携を保ちながら戦国時代に至ったことは紛れもない事実である。しかし、家の断絶によって系図や伝来文書が失われ、その正確な歴史をたどることが出来なくなったのはまことに残念なことといえよう。・2005年07月07日

参考資料:水沢市史/胆沢町史/岩手県史/葛西中武将録 ほか】

●柏山氏の家紋─考察 ●葛西氏の家紋─考察

■参考略系図
 
  


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