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江刺氏
●三つ柏
●桓武平氏葛西氏の支族
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江刺氏は、奥州の戦国大名葛西氏の支流と伝えている。葛西氏は桓武平氏流秩父氏の一族豊島氏の流れである。すなわち、高望王の子村岡五郎良文の孫中村太郎将恒(常)が武蔵介藤原真枝を討った功によって、下総国葛西郡を与えられたのが始まりとされている。
文治五年(1189)、葛西清重は頼朝の奥州征伐に従軍し、戦後、胆沢・江刺・磐井・気仙・牡鹿など葛西五郡を任され、陸奥国在住の御家人奉行権「奥州総奉行」と平泉特別行政区の「検非違使職」に任命された。のちに清重は鎌倉に帰り、二男の朝清を現地に派遣してその経営にあたらせた。その後、朝清は江刺郡の采配を子清任に任せた。この清任が和賀郡との国境である門岡の地に拠って江刺氏を称したのが、江刺氏のそもそもの始まりだという。清任以後の江刺氏の動向は明確ではないが、北上川の水運を利用して家運は栄えたものと想像される。
南北朝の大乱を迎えて、江刺氏は葛西太守とともに南朝方に属したと想像されるが、内乱の時代を生き抜いていることからのちに武家方に転じたようだ。一時は宗家葛西氏と争ったりしているが、宗家より清泰を迎え江刺氏を立て直し、近隣の争い事の仲裁にあたっている。また、藤沢岩淵氏・東山長部氏・一関黒沢氏と姻戚関係を結び、勢力の維持・拡大に尽力した。
江刺氏の興亡
葛西氏領の北辺と境を接する奥州の雄南部氏は、はやくから南下政策をたてており、応永ころ(1394〜1427)には岩手雫石氏・稗貫河村氏・和賀和賀氏・閉伊阿曾沼氏らをうかがう勢いを示した。応永十八年(1411)、阿曽沼氏の内紛を援けて南部守行が遠野征伐戦で戦死するということもあったが、南部氏の勢力は衰えをみせなかった。文明年間(1469〜86)になると南部氏の本格的な南下攻勢が始まり、和賀郡・気仙郡が南部氏に攻められた。
南部氏の攻勢に対して葛西氏では家督をめぐる内訌があり、文明十五年(1483)、江刺隆見は葛西氏に叛旗を翻した。以後、隆見は永正二年(1505)にいたるまで四度にわたって葛西氏に抵抗を示した。その背景には、葛西領の北辺を守る江刺氏にとって南部氏への脅威に的確に対応できない葛西宗家への不満があったと思われる。さらに、葛西氏は大崎氏と争って大敗を喫し、文明二年(1470)に伊達成宗の仲裁で助けられ、それが縁で成宗の子宗清を嗣に迎える事態に至っていた。
葛西氏に入った宗清は正系の葛西氏を圧迫しはじめ、それをこころよしとしない武将達が抵抗した。江刺隆見も葛西一族の一人として、葛西宗清=伊達派と対立したのだろう。明応四年(1495)六月、葛西政信に抗した江刺隆見は、江刺郡に進攻した政信勢に高寺で敗れ降伏している。このように江刺隆見は葛西宗家に反抗を続け、その実在はまぎれもないが、江刺氏系図には記されていない。おそらく後世において抹殺されたのであろう。
明応七年(1498)秋より翌年にかけて、葛西領内に擾乱が起きた。また、これより先の長享二年(1488)、大崎氏に内訌が起こり、大崎義兼は伊達領に逃れ伊達成宗を頼りその救援を求めた。伊達氏は義兼を支援して大崎に送り帰し大崎氏を継がしめた。このとき、佐沼城主の某が大崎義兼に反対したが、義兼に味方する薄衣入道が佐沼城を攻め落し義兼の復帰を支援した。
この大崎家の内乱に際して、明応七年、江刺弾正大弼が薄衣入道とともに大崎氏に味方して出陣した。戦いは激化し、明応八年になると葛西領内全円に及び各地で戦いが繰り広げられ江刺三河守が大崎方として活躍した。しかし、葛西太守の率いる惣領勢をはじめ、柏山・大原・本吉らの大軍が薄衣入道の籠城する城郭を包囲し、薄衣入道の運命は風前の灯火となった。このとき、薄衣入道が伊達氏に救援を求めた書状が『薄衣状』として有名なものである。
その後、合戦の経過がどのようになったかは詳らかではない。そして、江刺三河守とその陣代をつとめた弾正大弼の江刺氏内での位置はもとより、その後の動向も判然としない。おそらくこの江刺氏は傍系と思われ、この合戦のなかで滅亡したものと思われる。
乱世に身を処す
明応の争乱が一段落したのちも、葛西家中は親伊達派と反伊達派に二分されて騒擾が続いた。葛西宗清は、抵抗する葛西氏の有力武将達=反伊達派を各個撃破し、その勢をかって永正八年(1511)山内首藤氏ほか登米郡・桃生郡の諸将連合軍を破って葛西全域の統一に成功した。
かくして寺地城に入城した葛西宗清は、先に降した江刺隆見に代えて子重親(重見)を江刺岩谷堂に派遣した。岩谷堂城主となった重親は江刺氏を称し、江刺郡総領職として葛西宗家の北辺守備に任じたのである。
ここに江刺氏は伊達系にとって代わられたことになり、以後の江刺氏は「第二の江刺氏」と呼ばれる。しかし、ここらあたりの葛西氏の代々については系図に錯綜があり、重親は葛西政信の嫡男であったが廃嫡され、伊達氏から入った宗清に家督を譲らされたとする説もある。また、「江刺家系譜」は重親は葛西家二十代の当主であるとするなど、他系図とは異なる葛西氏の累世を記している。
『葛西史疑』によれば、葛西氏は石巻と登米の二系が共存していたといい、登米系葛西氏が葛西太守を世襲していた。宗清は庶流にあたる石巻系葛西氏の満重の養嗣子として迎えられ、満重が登米の家督を継いだのち、石巻葛西氏の家督を継承したとしている。
登米葛西氏を継いだ満重は政信と改め、嗣子として伊達氏から迎えた宗清ではなく嫡男で廃嫡した重親の三男重信を迎えた。重信はのちに政信のあとを受け継ぎ、将軍義晴の一字を拝領して晴重を名乗った。確証はないものの、葛西太守に反抗して没落したと思われる江刺氏の名跡を継いだのは、政信の子重親であったとみてまず間違いないだろう。そして、重親のあとを継いだのが重任であった。
戦国末期頃、江刺氏は鳥海及川氏や黒石氏と戦っており、現在の江刺市全域と北方は門岡・口内に家臣を配していることから、北上市の東南部までを勢力下に収めていたようだ。しかし、江刺氏の支配地は葛西領の北辺に位置することから、南下を企てる南部氏の矢面にたたされて苦闘をしいられることにもなった。
天文三年(1534)南下作戦を起した南部晴政は柏山氏を攻撃し、遠野においても葛西軍と交戦するなど、葛西氏と南部氏との間で合戦が繰り広げられた。それは、豊臣秀吉によって天下統一のなった天正十八年(1590)まで止むことはなかった。
混迷を深める奥州の戦乱
天文七年(1538)、江刺信重(重信?)は、気仙郡高田の千葉胤継および矢作重村らと戦い、矢作重村を討ち取ったという。この戦いは傍証を得ないが伊手村合戦とよばれ、矢作氏らが世田米郷から侵入したものかも知れない。
ところで、江刺重任は父に先立って死去したため、子の重胤が江刺の家督を継ぎ三河守を称した。重胤は伊達家と接近し、伊達氏天文の乱に際しては晴宗方として活躍したという。また、三河守重胤は、隆之(隆行)や重親と称した人物に該当し、葛西系江刺氏の二代にあたる人物とする説もある。それに従えば、三河守重胤は、葛西宗家が勢力を得るに従って次第に勢力を伸ばし、葛西家中に強固な地位を占め、従前の江刺氏を圧して葛西氏の一方の旗頭に据えられるまでに至った。
天文十四年(1545)十月、江刺三河守重胤は古河公方足利晴氏から軍勢催促状を受けたことが「江刺系図」にみえている。すなわち、北条氏康と絶って関東管領上杉憲政と結び、ともに河越城を攻撃した晴氏が重胤に発したものである。このことは、江刺氏が葛西宗家に比肩する勢力を築いていたことを思わせるが、公方晴氏の書状は、系図の記述以外には知られるところはなく文言の所伝もないことから、にわかに信じることはできないものといえよう。
重胤は嫡男の輝重(隆信)に家督を譲ったのち、浅井村三州館に隠居、江刺三州と称し能筆家としても知られた。治部大輔を称した輝重は南部氏と親交があり、永禄九年(1566)、秋田愛季が南部領鹿角を攻撃したとき、南部氏に救援軍を送ったが鹿角は秋田氏によって攻略された。ついで、元亀二年(1571)、伊達輝宗が葛西領に進攻したとき、葛西晴胤とともに出陣して伊達軍を撃退する功を挙げている。
天正元年(1573)、輝重が没すると嫡男の重恒(信時と同一人物か)が後を継ぎ兵庫頭を称した。このころになると、葛西家中は巨臣と呼ばれる本吉氏、柏山氏らが葛西宗家に叛旗を翻し、葛西氏は領内の騒乱収拾に翻弄されるようになった。
江刺氏の衰退と終焉
天正十年(1582)になると、南部氏の猛将九戸政実が葛西領に攻勢をかけてきた。南部氏の攻勢に進退窮まった江刺信時は、同十三年、葛西氏に叛くにいたった。江刺氏叛乱のことは、葛西晴信書状などからも知られる。また、江刺三河守が郡内諸族から糾弾忌避され、大守晴信からも勘当を受け、浅井館に謹慎していることなどから、江刺で乱を企てたのは江刺三河守であったと思われる。
三河守は信時であろうと思われ、三河守が勘当処分を受けたことで重恒が家督となったとする。江刺三河守、江刺三河守信時は実在した人物でありながら、「江刺系図」は三河守あるいは信時を抹殺している。このことから、江刺氏にはいくつかの系があり、さらに複雑な内訌が江刺家中であったことをうかがわせる。いずれにしろ、信時の系の失脚により重恒の系が江刺氏の惣領になったのではなかろうか。
十四年になると南部氏は雫石氏を滅ぼし、稗貫氏や阿曽沼氏らは完全に南部氏の勢力下に収められた。葛西領の北辺は確実に南部氏の攻勢にさらされ、それは、そのまま江刺氏に危機をもたらすものであった。
天正十五年(1587)、重恒は義兄の浜田安房守と呼応して葛西宗家に叛旗を翻した。江刺氏重臣の菊池右近・太田代伊予父子は、重恒を強諌したが返って伊予は討たれ、右近は危うく江刺郡を逃れ去ったと伝えられる。このころ、江刺では先に葛西氏に勘当された三河守と、岩谷堂城主となった重恒の二人が存在し、互いに反目して江刺氏は一枚岩ではなかったようだ。このような江刺氏一族の分裂は、江刺郡総領たる江刺氏の権勢を弱体化したことはいうまでもない。
江刺氏が乱世に翻弄されているころ、中央では豊臣秀吉が天下統一に邁進しており、天正十三年暮れに奥州の武将たちに惣無事令が発せられた。つまり、それ以後の合戦は私戦と見なされ豊臣政権への反逆として扱われることになったのである。これに対して南部氏は逸早くこれを受け入れ、のちに秀吉の仕置きを逃れ、和賀郡までを領地として認められることになる。一方、江刺氏は葛西氏を領袖としていたため、時局を見誤った葛西宗家ともども滅亡することになる。
奥州仕置と江刺氏のその後
天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原陣に参陣しなかった葛西氏、大崎氏、稗貫氏ら奥州の諸大名は豊臣秀吉の奥州仕置軍を迎えることになる。葛西・大崎勢は仕置軍を迎え撃つことに決し、江刺三河胤虎・兵庫重俊父子は葛西晴信の拠る佐沼城に籠城したが、敗れて所領没収のうえ居城追放に遇い乙茂にかくれた。
当時の江刺氏は葛西七党の一として、岩谷堂城主、士分二百五十人の頭であり、江刺郡全域を支配する葛西一族の大身であった。天正十八年の「葛西氏陣立書」によれば「江刺殿勢、三十騎兵士五百人」とあるが、「奥州葛西記」には、佐沼籠城を都合七百騎とし、その内に江刺三河守胤虎、同嫡子兵庫介胤元が入れてある。そして、江刺三河守の消息は、これ以降不明となるのである。
一方、兵庫頭重恒は仕置軍が到着すると、岩谷堂城を撤収し家臣らも居館を去って、その跡には新領主木村吉清の家来が赴任してきた。没落後の江刺重恒は、家老三ケ尻加賀らの努力と浅野長政の同情によって、旧領近辺に居住していたようだ。その後、南部氏に接近し、天正十九年(1591)に南部氏に召し抱えられた。九戸城攻囲戦にも出陣し、乱後、二千三百石の大身に取り立てられた。
重恒には実子が無く、妹が浜田氏に嫁いでもうけた重俊を養子に迎えていたが、養嗣子三郎重俊は大崎・葛西一揆に加わって深谷に籠城し戦死した。九戸攻めには重恒の養子四郎重隆(重俊の実弟)が参陣しており、兄の重俊が深谷で戦死したのち、弟の重隆が江刺氏を継いだ。そして、重恒とともに南部家に属して、江刺家の安泰を図ったのであろう。かくして、江刺氏は戦乱を生き抜き、子孫は南部氏重臣として続いた。・2006年1月31日
●もっともっと知りたい!
【参考資料:江刺市史/岩手県史/葛西中武将録 ほか】
■参考略系図
江刺氏の系図は諸本伝わっているが、そのいずれが真実を語っているものかは、にわかに判断することが難しい。清任に始まるとされる初期江刺氏は清任以後の代々の世系は不明であり、重親によって再興された後期江刺氏にしても、重親の位置付けが諸説あり必ずしも明確ではないのである。さらに、葛西太守に反抗した隆見にしても系図上の位置付けは、いまだ定説がないという状況である。江刺氏の正確な世系をたどるのは、いまとなっては困難な作業といえそうだ。
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