奥州千葉氏の一族。千葉介成胤の七男(ともいう)飛騨守頼胤の五男とされる重胤が星氏を称し、葛西家に仕えて寺池に住して、2700貫を領したという。 重胤の子になるのが康胤で、五郎左衛門尉・和泉守を称した。 系図上伯父の伊豆守康胤と同一人物の可能性も指摘される。重胤の嫡男だった重光が、宗家の大原氏の養嗣子になり、重胤は兄・康胤を養嗣子として星氏の家督を譲ったものか。そう考えれば、康胤以下の時代的な矛盾がなくなる。 四代が春胤で重康の子とされる。寺池城主・葛西氏の家老職を務め、文永元年(1264)葛西信茂の代官として、東山岩井徳田郷70貫文に所替えされる。しかし、この時代の葛西氏家督は葛西伯耆守清親であり、信茂と清親との関係は不明である。 勝胤の時期が南北朝期にあたり、建武四年(1337)、陸奥守北畠顕家に従い南朝方の立場であった。延元元年(1336)、顕家の上洛軍に加わって、和泉国阿部野の戦いに参陣した。その子胤光は、 葛西氏の代官として正安十一年(1356)に上洛している。九代胤行は、永享十一年(1439)の大崎葛西の戦いで討死している。その子胤信は、太守葛西氏の命によって藤沢岩淵氏に付けられ、所領として19貫文を賜ったことが知られる。 戦国期の天文22年(1553)康胤は、葛西氏の命により岩淵氏の代官として上洛し、将軍義輝の石清水参詣の供奉を奉行している。その功によるものか義輝から将軍家家宝の大明成祖皇帝の書を拝領し、友長の太刀をも拝領した。 戦国末期の天正18年(1590)、星氏最期の当主となった安胤は、深谷において奥州仕置に出陣してきた秀吉軍と戦い、敗れて討死。星氏は滅亡した。 星氏には、相馬家に仕えた一族もいた。発祥は下総国相馬郡星村と伝え、相馬重胤の奥州下向にしたがって奥羽に来住したという。のち、相馬家の重臣となって幕末まで仕えた。現在でも奥州相馬地方には星家が多く、「相馬野馬追い」にも出陣している。 ■参考略系図 |