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戦国山城を歩く
北播磨の雄・在田氏の北の護り─段ノ城-上段(高城山城)
段ノ城は北播磨の多可郡中町にあり、南北朝時代、播磨の守護職に任じた赤松円心が、一族の宇野氏を当時松井荘と
よばれた中町に配し築かせたものと伝えられている。
いまも東山古墳群を見下ろす妙見山から南西に伸びた尾根筋に遺構が残っている。
松井荘は古代より拓けたところで、東方に丹波国へ通じる小野尻峠、北方は杉原荘を経て但馬に通じる道が
通る要衝の地であった。嘉吉元年(1441)赤松氏宗家が嘉吉の乱を起こして滅亡すると、宇野氏も宗家と共に没落した。
その後、赤松氏を再興した政則が、応仁の乱における活躍で播磨守護職に返り咲いたが、播磨守護職奪還を目論む
山名氏と赤松氏との抗争が繰り返された。松井荘は赤松氏一族衆で河内城を本拠とする在田氏の分家在田八郎太郎が
押領、段垣内構居を築き、段ノ城を詰の城として一帯を支配するようになった。
戦国時代、在田氏は赤松宗家の斜陽を後目に北播磨の一大勢力に成長した。一方で、東播磨の三木を本拠とした同じ
赤松一族衆の別所氏の勢力が北播磨に及ぶようになると、在田氏本家は居城を野間に移し、段ノ城も大改修されたようだ。
段ノ城は山上の上段と尾根先端の下段、下段山麓の段垣内構居、そして、妙見山から南に伸びた尾根先
に築かれた貝野城と併せて「荒田構居」または「荒田城」ともよばれる。
段ノ城は在田氏を応援するため山名氏が築き守将を配した貝野城と連携して北播磨の一大拠点となるものであった。
ここで取り上げる段ノ城-上段は、主郭のある北郭群、城址の中核部分で無線管理施設が建設された中央郭群、
そして城址の大手にあたる南郭群の三つの区画で構成されている。
・貝野城址山麓に鎮座する荒田神社より城址を見る
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登山口の集雲山瑞光寺 ・ 整備された山道 ・ 中腹より南山麓を眺望 ・ 貝野城址を見る ・ 山腹の出曲輪
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中央郭部西端曲輪と登り土塁 ・ 切岸の石積 ・ 南城への登り土塁 ・ 南城南西虎口 ・ 南城北東虎口
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南城西帯曲輪 ・ 南城切岸と西帯曲輪 ・ 水呑場 ・ 北郭部(場広山・本丸)の南曲輪 ・ 北郭より西方山麓熊野部方面を眺望
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段ノ城-上段の中核をなす中央郭群は、中央の主郭を中心として北側に帯曲輪南北に腰曲輪を配し、無線管理施設のある北曲輪は上段城域最大の広さのものである。各曲輪の外縁部は土留めの石積で固められ、主郭は南北に虎口が開いている。南曲輪から主郭へは登り土塁を経て虎口に至るが、正面に主郭部切岸が立ちはだかって一折れ構造を呈している。東曲輪からは発掘調査で建物跡が検出され、南端の水呑場遺跡とあいまって生活の場として機能していたようだ。
中央郭群の北端より続く北郭群は、尾根筋には自然の露岩を巧みに用いた小曲輪が段状に築かれ、「本丸」と称される最高所の主郭へと至る。主郭は二百坪くらいの広さを有し、南側より主郭をまくようにして城道が設けられ、切岸は石積で補強されている。主郭一帯は潅木に覆われて眺望は利かないが、往時は抜群の風景が望めたことは疑いないところである。
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自然の岩を活用した切岸 ・ 北郭部本丸虎口への石垣 ・ 生い茂る樹木鬱蒼とした本丸 ・ 随所に巨岩が ・ 中央郭部南端の大堀切と土橋
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大堀切を隔てた南尾根に築かれた南郭群は、西南端部に枡形を思わせる窪地をともなった虎口が特長的である。
段状に築かれた曲輪は全体に削平が甘く切岸も低い、中央部にある竪堀と堀切はのちの改修を受けたものであるようだ。
かつて、南曲輪群西南端虎口より尾根筋に大手道があったようだが、現在、ほとんど消滅状態にある。とはいえ、
尾根筋をひたすら下っていくと段の城-下段へと至る。見方によれば段の城は「上段」と「下段」とが「二城一郭」を
なしているようにも見えるがどうだろう。
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南郭部の中央部の堀切 ・ 段状に続く曲輪群 ・ 要所に竪堀 ・ 南郭部南端の桝形虎口 ・ 城址を門前より遠望
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……………
戦国後期の永禄九年(1566)八月、在田元長と国泰が連署した多可荘内の普光寺の守護不入権を安堵した掟状が伝来している。当時、元長は野間殿と呼ばれており、在田氏惣領家は野間が本拠地であった。天正三年(1575)、野間城は別所重棟に攻められ落城したと伝えられていることから、
在田氏の支城群のひとつである段ノ城も落城したと考えられる。
城址へは端光寺そばの林道が、山上の中央郭に設営されている電波管理施設に至る登り道へと続いている。急な登りが続くが、手入れも行き届いていて迷うことなく中央郭西方の堀切までたどり着くことができる。城址においては中央郭群がもっともまとまった縄張を呈し、切岸・曲輪群の残存状態も良好である。おそらく、在田氏を降した別所氏は中央曲輪群を上段の中核部として改修の手を加え、
南尾根筋に続く南曲輪群は要所を改修するにとどめた結果とみなされる。
・段の城城址附近地図
(地図閲覧サービス(ウォッちず)の二万五千分の一地図をベースに作成)
【参考】播磨・水尾城跡の調査と研究
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[ 在田氏 ]
[ 段ノ城下段・垣内構居 / 貝野城址 / 河内城址 ]
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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| ……
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