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戦国山城を歩く
北播磨の雄、在田氏発祥の城址─河内城
河内城は応仁の乱のころ、赤松氏一族衆の在田則盛が築いたと伝えられる。赤松在田氏は赤松宗家が嘉吉の乱で
没落したのち、播磨守護に任じられた山名氏に通じ北播磨に勢力を保っていた。
赤松政則によって赤松氏が播磨守護に返り咲くと、在田氏は山名氏と結んで政則と対立、
則盛は領国経営の拠点として河内城を構えたようだ。河内城は別名を別所城といい、三木城に拠って
東播磨の戦国大名となった別所氏発祥の地ともいわれるが確証はないようだ。
則盛は政則に敗れて没落したが、在田氏は勢力を保ち、赤松氏と
山名氏の抗争から生じた「播磨錯乱」と呼ばれる乱世を生きた。大永年間(1521〜27)、浦上氏との対立、抗争が続き、
享禄三年(1529)、浦上氏の攻撃を受けて河内城は落城、城主の在田村忠は討死したという。やがて、
戦国時代もたけなわになってくると、東播磨の三木を本拠とした別所氏が勢力を拡大、在田氏の立場は
一層、厳しいものとなってくる。
河内城に代わる強固な城を求めた在田氏は北方中野間にある野間城を改修して拠点を移動、
さらに東条の依藤氏と結んで別所氏の攻勢に対した。河内城は東方の満久城とともに、
在田氏領の南部を固める拠点になっていたようだが、在田元長のとき別所氏に屈して野間から退去、
在田氏領は別所氏の支配下となった。かくして、在田氏の没落とともに河内城は廃城となり歴史に埋もれていった。
・別所方面より城址を遠望
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東山麓の六処神社 ・ 登り道の傍らに曲輪状の地形 ・ 途中の東屋(見張り曲輪か) ・ 尾根の要所に曲輪状の地形 ・ よく整備された登山道
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主郭北東尾根の曲輪 ・ 鎌倉山に伸びる尾根筋に切られた堀切 ・ 急斜面を主郭へ ・ 休憩施設の整備された主郭 ・ 主郭東の帯曲輪
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河内城一帯は「河内 ふれあいの森」として整備され、要所に道標が立てられ、河内城の出丸であろうか…
途中の小山には真新しい東屋が建っている。樹木もいい感じに伐採されていて、のどかな山歩きが楽しめる登城路だが、
本来の登城道は散策路の所々にあらわれる山道であったかと思われる。散策登山道は城址東北尾根の曲輪群をまくようにして、
鎌倉山との分岐となる北東尾根先に至る。
北尾根の急斜面を登りきると主郭部で、東側を帯曲輪が巻き、尾根には腰曲輪が段状に続いている。
主郭の西に大堀切が切られ、中曲輪、堀切、そして南曲輪へと至る。南曲輪は主郭より大きく、
周囲を帯曲輪が取り巻き、南西の尾根先には二重堀切が切られている。河内城は全体として小振りな城だが、
山上からの眺望は抜群で、眼下には在田庄、遠く北播磨の地が一望できる。
晴れた日には瀬戸内海、淡路島から四国までが見えるといい、中世山城として絶好の立地にあったことが実感される。
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主郭から野間城址を遠望 ・ 主郭と南西腰曲輪 ・ 曲輪を区画する大堀切 ・ 西の堀切 ・ 西曲輪から旧在田庄を眺望
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西曲輪の南腰曲輪 ・ 西尾根曲輪を見下ろす ・ 西曲輪切岸と帯曲輪 ・ 西尾根に切られた堀切 ・ 普光寺境内墓地の在田城将兵の五輪塔群
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……………
河内ふれあいの森を含む山々は修験の山として行者が往来、明治維新後には普光寺住職の尽力で行者道が開かれ、播磨修験道の山として賑わったという。普光寺は天台宗の古刹であり、
おそらく、河内城主在田氏とは深い関わりを有して、河内城北方の備えに任じていたのではなかろうか。
いまも、普光寺の境内墓地の一角には河内城の戦いで討死したという武士たちの五輪塔が祀られている。
そのなかには第六代の当主であった在田村忠のものも含まれているといい、普光寺と在田氏の関係が
うかがわれるのである。
河内城を下山したのち、普光寺の在田氏関係のものという五輪塔を訪ねる。普光寺は相当な勢いを有した
時代があったようで、境内一帯にはかつての塔頭址であろう石垣、削平地が散在している。その一方で、
真新しい本堂はコンクリート製、境内に祀られた石造は現代風の可愛らしい小坊主風、なにやら
新旧混交した妙な空気が漂っている。普光寺を訪ねた後、河内城の前衛にあたる満久城にも寄りたかったのだが、ゴルフ場の
許可をえる必要があること、またゴルフ場側ではいい顔をしてくれないとの情報もあって割愛した。
・河内城址縄張図
(城址案内板より転載)
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[ 在田氏 ・ 野間山城址 ]
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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| ……
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