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在田(有田)氏
●二つ引両/琴柱に三つ巴*
●多々良氏流
野間城跡に立てられた旗に「丸に二つ引」が据えられている。赤松系図の傍注に琴柱に三つ巴とあり、「丸に蔦」「丸に大一」とする史料もある。
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在田氏は、播磨国加茂郡在田を名字の地とし、赤松円心の長男美作守範資の次男朝範(朝則)を祖とする、というのが通説である。朝範は叔父である守護赤松則祐の養子となり、一家をたてて「在田殿」と呼ばれたという。赤松氏の庶流であるとはいえ、守護たる惣領家にとって本来は本家筋にあたる。文和四年(1355)二月、足利尊氏の子義詮が南朝軍と摂津神南山に戦って勝利を得たとき、赤松朝範は義詮に属して奮戦し、九死に一生を得たという。
朝範の跡は肥前守則康ぎ、『尊卑分脈』にも赤松在田彦二郎則康とみえる。則康が史料にみえるのは、明徳三年(1392)八月の「相国寺供養記」である。すなわち、三代将軍足利義満の建立にかかる相国寺の仏殿の落慶供養が催されたとき、赤松則康が義満の帯刀衆として従っている。父朝範は尊氏の帯刀衆であったし、以後も在田氏は歴代将軍の近習を勤める家柄で、赤松庶流家として幕府から重用されていた。
赤松軍の主力として活躍
播磨国加西郡河内町にある河内城は、従来、別所氏が城主であったとみられていた。しかし、河内城の城主は在田氏であった可能性が高く、したがって、加西郡に関する別所氏の伝承の多くは在田氏のものであったようだ。となると、播磨守護代とされた赤松肥前守は在田肥前守則康とみられる。則康は「守護方」と呼ばれるにふさわしい人物であった。
永享九年(1437)十月、後花園天皇が足利義教邸に行幸した。このとき、赤松在田三河守持忠が義教の帯刀衆としてみえる。翌年八月の石清水八幡宮の放生会にも、義教に従って出席している。
嘉吉元年(1441)の「嘉吉の乱」には、赤松満祐に与しなかったようであるが、有馬氏などのように赤松追討軍のなかに在田氏の名前はみえない。赤松守護家の滅亡後も、まずは無事であったらしい。
応仁の乱に際して、在田氏は赤松軍の主力となって戦った。応仁元年(1467)八月、西軍山名方の合力として周防守護大内政熙が上洛しようとした。東軍の大将細川勝元は、摂津守護代秋庭元明を支援するため赤松氏の兵を摂津に派遣する。赤松衆は、大内軍の京都進撃を阻止するため。摂津猪取野に要害を構えて奮戦した。しかし、赤松軍は強大な軍事力をもつ大内軍に敗退、軍兵の大半が討死し、残る兵たちはほうほうの体で播磨に逃げ延びたという。在田氏はこの赤松衆の筆頭にあげられている。
嘉吉の乱後、北播磨の在地に勢力を温存していた在田氏は、赤松再興をかけた戦いに、赤松政則を助けて多大な貢献そした。政則が播磨を回復して守護となったのちには、旧領はすべて安堵されたようである。
しかし、その後、在田氏と政則の間に確執が生じた。そして、文明十二年(1480)の四月から五月にかけて合戦に
発展し、在田氏は敗れた。同十四年閏七月には、在田氏の子息四人が政則に殺害されている。このころ、
赤松惣領職をめぐって政則の立場は微妙であり、ややもすれば足元を掬われかねない一家衆の台頭には警戒心が強かった。
応仁二年、在田氏と同様に一族衆である有馬上総介が殺されていることでも推察できる。
播磨動乱
文明十五年冬、政則は但馬真弓峠で山名方に大敗、姫路に逃走した。これをみて国人層が離反し、翌年には、浦上則宗ら赤松再興功労家臣団が会談して政則を追放、有馬刑部大輔則秀の子慶寿丸を家督にすえて山名氏と戦った。この間、在田氏は広岡氏と組んで山名氏と結び、赤松播磨守満政の子息「新赤松」をかついで戦うことになった。ほかにも赤松下野守政秀を盟主とする一派があり、播磨は四派に分裂して、一大騒乱の渦に巻き込まれた。
やがて、山名氏が播磨全域を占領し、赤松氏の勢力は一掃された。のち、赤松政則と家臣団との間に和解が成立し、赤松勢の反撃が始まった。しかし、このなかに在田氏の名はみえない。山名氏の播磨撤退後も、在田氏嫡流の則盛は返り咲くことはできなかったようである。ただし、則盛の従弟にあたる忠長の子息村長は政則に従って和泉・摂津に出陣している。
永正十八年(1521)九月、浦上村宗が赤松義村を暗殺して領国支配の実権を握り、西播磨・東備前をその掌中におさめた。これに反発する勢力は浪人となり、義村の子才松丸(政村のち晴政)を擁して村宗と戦った。このころ、在田氏は多可郡の野間に本拠地を移しており、同地に本格的に野間城を築いてそこに拠っていた。在田氏は反村宗派に一味して浪人衆を引き入れ、野間は北播磨における反村宗派の拠点となった。
享禄元年(1528)、将軍足利義晴は赤松政村およびその被官に播磨東西の和睦を図るように求めている。浦上村宗・在田源次郎にも御内書が出された。しかし、享禄二年、三年の二度にわたって「名城にありける有田」の城が浦上村宗によって落された。が、四年に村宗が摂津天王寺で討死したため、ことなきをえたようだ。
天文七年(1538)には、出雲国の戦国大名尼子氏が播磨に侵攻。国人の多くが晴政に離反したため、晴政は淡路に逃走した。翌年、晴政は明石城を攻略、四月印南郡神吉の常楽寺に陣した。このとき、在田氏は晴政を支援するため神吉へ参陣している。これらのことは在田村長の時代のことであったと思われる。
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・写真:野間山城址山麓にある極楽寺から城跡を見る
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在田氏の終焉
永禄九年(1566)八月、在田元長と国泰は連署して掟状を出し、多可荘内の普光寺の寺域を確定し、同寺の守護不入権を安堵したことが史料で確認される。また、年不詳だが、在田元長は、飾磨郡野里村金屋に鋳物師衆惣官職を安堵している。これは、小寺氏から黒田兵庫助利高を通じて元長に安堵状発給の依頼があり、それに応じたものだが在田氏が北播磨を制圧していたことがうかがえる。また、元長は野間殿と呼ばれており、野間が本拠地であったことが確認できるのである。
在田氏が拠る野間城は、天正三年(1575)、別所重棟に攻められ落城したと伝えられている。 このころベ別所氏は三木城主として近隣に勢力を拡大しており、在田氏は別所氏に属することを潔よしとせず、結果、別所氏に滅ぼされたものであろうか。・2004年12月07日
【参考資料;依藤 保氏論文「北播磨の国人在田氏について」】
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