渡辺惣官家
三つ星に一文字
(瑳峨源氏渡辺綱流)
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渡辺氏は嵯峨天皇の皇子源融の後裔と伝えられ、約十万あるといわれる日本の名字のなかでベスト10に数えられる大姓である。嵯峨天皇は皇子の融・明・定・常・信らに源朝臣の姓を授けて臣下に降し、それぞれ後裔は嵯峨源氏と称された。嵯峨源氏は名乗りが一字であることが特徴的である。大納言から左大臣に上った源融は、河原左大臣と称され、紫式部の『源氏物語』の主人公光源氏のモデルとも言われている。
融の孫にあたる仕は、武蔵守として武蔵国に下向し、足立郡箕田郷を開墾してその地に住み箕田氏を称した。仕の子宛は平忠常と武勇を競って勝負がつかず、ついに引き分けたと『今昔物語』に語り伝えられている。宛の子が源次綱で、綱は多田源氏源満仲の妹婿である仁明源氏敦の養子となり、摂津国西成郡渡辺村に移って渡辺を称するようになった。綱は剛勇の武士で満仲の子頼光に仕えて四天王の一人と称せられ、大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻り橋の上で羅生門の鬼の腕を源氏の名刀髭切りの太刀で切り落としたなどの逸話を残している。
渡辺氏の発展
中世末期までの河内平野北部は、大阪湾からの入り江が生駒山麓まで達し、日下の江と呼ばれていた。日下の江に注ぐ淀川の河口近くに瀬戸内海岸で最大級の港湾「渡辺津」があった。渡辺津は瀬戸内と京の間の水運の拠点で淀川を南北に渡る渡し場でもあり、交通や経済のみならず、軍事・宗教的にも重要な場所であった。渡辺氏はこの地を本拠として、渡辺党と呼ばれる武士団に発展したのである。
ところで、平安時代に発祥した武士は、自ら土地を開発して、その土地を守るために武力を養うようになったことから始まった。いわゆる開発本領を有する領主として勢力を拡大していった例が多い。その一方で、海上交通、陸上交通の要衝を本拠とし、武士化していった非開発領主型武士団が登場した。渡辺津を本拠とした渡辺党武士団は、そのような非開発領主型武士団の一つであった。
渡辺党の武士たちは、京都では内裏で天皇の警護に就く滝口を世襲し、他にも衛門府、兵衛府などの官職に就き検非違使をつとめた。また、河内にある皇室領の大江御厨を統轄する渡辺惣官に補任された。そうして、渡辺党は渡辺津の水運業者や港湾業者を、渡辺惣官あるいは検非違使として統轄する武士団となったのである。当然、水軍としての側面も有し、一族は海を通じて肥前・豊後・三河・甲斐など日本全国に拡がっていった。土地に根ざすことのない渡辺党は、開発領主系の武士たちが国衙から法的権利を保証されたのに対して、京の朝廷や貴族への軍事奉仕をもって政治的保護を仰いだ都会的武士団であった。
武士が歴史の表舞台に登場したのは、保元・兵治の乱がきっかけとなった。保元の乱に際して渡辺氏は、源頼政の郎党として参加し、『保元物語』には渡辺党の省・授・連・競・唄らが崇徳上皇方の白河御所を攻めたことが記されている。つづく平治の乱にも頼政の麾下として従軍、義朝の長男悪源太義平と戦い手も足も出なかったと『平治物語』にみえる。
保元・平治の乱によって平清盛が出頭、やがて平家政権を樹立した。平家政権下にあって渡辺惣官授は変わらず源頼政に従っていたが、一族のなかには平氏に従うものもあった。やがて治承四年(1180)、以仁王の令旨を奉じた頼政が平家打倒の兵を挙げると、省・授ら渡辺一族は宇治川の戦いで奮戦、頼政とともに多くの一族が戦死した。
二流の渡辺惣官
ところで、渡辺党には嵯峨源氏渡辺氏とは別に、藤原式家流の遠藤氏一族がいた。遠藤氏は平将門の乱に活躍した藤原忠文を租とし、孫の為方は「遠藤六郎大夫・摂津守・惣官」とあり、渡辺氏よりも早く渡辺津に住したという。そして、為方の後裔頼方は平氏政権下にあって「和泉・紀伊・摂津三ケ国総追捕使」とあり、平家の家人として勢力を有していた。この時期、渡辺惣官は源頼政に従う渡辺授であり、渡辺には渡辺氏と遠藤氏が拮抗するかたちで存在していたのである。
源平の乱を経て鎌倉時代になると遠藤氏が渡辺惣官を独占するようになるが、そのきっかけをなしたのは、遠藤一族の文覚上人であった。文覚の前身は袈裟御前との悲恋から出家した遠藤武者盛遠であり、伊豆の源頼朝に挙兵を促した人物として知られる。文覚の甥遠藤家国は、治承四年(1180)、石橋山の合戦において頼朝方として参加している。
源頼政の敗戦後、渡辺惣官は藤原頼方であったが、寿永二年(1182)七月、平家が都落ちしてのちは渡辺学が源義経との関係から惣官に任じられた。有名な屋島攻めに際して義経は、摂津渡辺から出航したが、それは摂津渡辺党の水軍を麾下に組み込んだ結果であった。かくして、元暦二年(1185)、壇ノ浦の合戦に敗れた平家が滅亡し鎌倉幕府が成立した。
新時代を迎えて渡辺党の遠藤氏は幕府御家人としての道を歩み、渡辺氏は御家人としての道を選ばず後鳥羽上皇に出仕した。このことが、承久の乱において渡辺氏と遠藤氏との明暗を分けることになった。乱に際して渡辺惣官学と一族は上皇方に味方して戦死し、渡辺惣官は遠藤家国が補任され、以後、鎌倉時代を通じて家国の子孫が惣官を世襲した。
武者の世を生きる
承久の乱において渡辺氏は京方として打撃を受けたが、学の曾孫定は関東御家人となり本領安堵を受けた。その一方で、朝廷の滝口の武士として出仕し、検非違使の任に当たっている。定の曾孫兵衛尉応*は御家人として勲功をあげ、越後国三島郡赤田保の地頭に補任され、応の孫備は赤田氏を称した。
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『渡辺惣官系図』に拠る。渡辺氏の系図は『尊卑分脉』『続群書類従系図部』『渡辺惣官系図』『豊後真那井渡辺系図』などがあるが、いずれも異同があり、『尊卑分脉』『豊後真那井渡辺系図』などでは兵衛尉応を兵衛尉等としている。また、『渡辺惣官系図』は鎌倉時代の世系が多すぎ、親子関係というよりは家督の継承関係を表記した系図と思われる。
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鎌倉幕府の滅亡、建武の新政の成立と崩壊を経て南北朝の動乱時代を迎えると、渡辺氏は南朝方として行動していた。延元二年(1337)、渡辺惣官の渡辺照は後醍醐天皇から、摂津国難波荘の地頭職を賜っている。ついで、興国二年(1341)、後村上天皇から越中国上津見保を賜った。以後、照は各地を転戦し、貞和四年(1348)河内風森の合戦で討死した。照の子国は観応二年(1351)に左衛門少尉に任じられ、同年の蒲生野における合戦で討死している。南北朝の動乱なかで、渡辺氏が多大な犠牲をはらったことが知られる。
『大阪市史』によれば、照・国父子の戦死した貞和・観応の元号が北朝年号であることから、父子は南朝から北朝に転じ、北朝方として戦死したものと記されている。一方、『尊卑分脉』系図には照・国父子の名は見えず、栄が蒲生野で戦死し、子の何が風森の合戦で戦死したと記されている。これらのことは、渡辺氏に限らず南北朝の動乱期における武士団の動向の複雑さを示したものといえよう。南朝の柱石とされる楠木氏においても、正成の子正儀が北朝方に転じて南朝方と戦うということもあった。摂津を拠点とした渡辺氏は河内の楠木氏との関係が深く、楠木正儀との関係を示す文書を伝えている。
南北朝の内乱は、明徳三年(1892)の南北朝の合一をもって終焉を迎えた。ときの惣領渡辺左近将監強も幕府に降り、応永八年(1401)難波荘地頭職の安堵を受けている。しかし、南朝方として行動したこと渡辺氏は、室町幕府の体制下においては不遇を託つことになったのはやむをえないことであった。
事実、室町時代から戦国時代にかけての渡辺惣官家の動向はほとんど不明である。とはいえ、一定の勢力は保っていたようで、享禄年間(1528〜32)、渡辺孫三郎植が河内守護畠山氏に従って河内水走城を攻めたことが知られる。その後、細川氏の被官から台頭した三好氏が畿内を支配下におくと、渡辺氏は三好氏に属し、永禄八年(1565)、年貢の沙汰を受けている。
渡辺惣官家の終焉
渡辺・木津・難波を領する渡辺惣官家は、戦乱に翻弄されながらもよく家を保ったといえよう。しかし、弱小領主であることは変わりなく、時々の権力者にすり寄ることで所領を維持するしかなかった。永禄十一年、織田信長が上洛し、三好三人衆を逐って畿内を制圧した。渡辺惣官則は信長に帰服し所領を安堵されたが、その家臣になるだけの気力はなかったようだ。信長と石山本願寺との戦いには、参加したとする説もあるが、おそらく渡辺惣官家というよりは一族の者であったようだ。ちなみに、渡辺惣官とは平安時代から鎌倉時代においては大江御厨の供御人の棟梁をさしたが、戦国時代においては渡辺氏の惣領を指す名称になっていた。
天正十年(1582)、織田信長が本能寺の変で斃れてのち天下人となった豊臣秀吉が大坂城を築くと、渡辺惣官のような土着の旧勢力に対する締め付けがきつくなった。ときの渡辺惣官家の当主甚七満は、平安時代以来の渡辺を離れて、大和国に新天地を求めた。一説には、筒井伊賀守に仕えて伊賀に移住し、伊賀守の改易後、伊賀に土着したともいう。いずれにしても、渡辺惣官家の摂津渡辺における歴史は幕を閉じたのであった。
かくして、渡辺氏の嫡流というべき渡辺惣官家は没落の運命となったが、肥前国松浦氏、毛利氏重臣に列した渡辺氏、徳川家康に仕えて一万石の大名となった渡辺氏などが近世に名を伝えた。また、渡辺氏が神事に与ったという坐摩(ざま・いかすり)神社の宮司家、初天神として有名な大阪曾根崎の露天神社の社家も渡辺氏である。・2007年05月10日
【参考資料:新修大阪市史/大和下市町史/西国武士団関係史料集 ; 15・16/豊郷町史 ほか】
■渡辺氏一族リンク
赤田渡辺氏
三河渡辺氏
備後渡辺氏
安芸渡辺氏
渡辺(真那井)氏
相神浦松浦氏
平戸松浦氏
■参考略系図
・『渡辺惣官系図』『尊卑分脉』などから作成した。渡辺惣官系図は代数が途方もなく多く、本文にも記述したが家督相続を表した系図と思われる。
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