毛利氏に仕えた渡辺氏の祖先は鎌倉期に毛利家に属し、建武三年(1336)、毛利時親の安芸下向に追従したと伝えられ、代々毛利家の譜代として重きをなした。 大永三年(1523)渡辺勝は、元就の宗家相続にあたって、井上元兼とともに多治比におもむいて元就に宗家相続を依頼し、相続を要請する宿老十五名の連署状では四番目に署名した。しかし、元就が宗家を相続すると、坂氏とともに尼子氏と気脈を通じて、元就の弟元綱の擁立を謀り、元就に誅伐された。 勝の嫡子通は、父が元就に誅伐されたとき、備後の山内直通のもとに逃れ、この地で成人した。その後、山内直通の要請をうけた元就により渡辺家は再興され、再び毛利家の家臣となった。 天文十二年(1543)五月、出雲敗走中に尼子軍の追撃を受けた元就が危なくなると、元就の甲胄を着用し踏みとどまり、元就に代わって討死した。この忠節に感じた元就は、毛利家の続く限り、渡辺の家を見捨てぬことを誓ったと伝えられ、以後、毛利家歳首甲胄の賀儀において通の子孫が先ずそのことに預かった。 通の跡は嫡子長が継いだ。天文十七年(1548)備後神辺、同二十年安芸高屋、翌二十一年備後志切、弘治元年(1555)の厳島合戦、さらに永禄四年(1561)豊前門司表の合戦などに参陣して活躍した。 天文十一年安芸豊島定未名、同十九年安芸下麻原三百貫代官職、弘治三年安芸山里・久嶋・津田にて五十貫、天正十三年(1585)周防国山珂郡三瀬川村などを宛行われた。同十六年には輝元に従って上洛し、豊臣の姓と飛騨守・従五位下を授けられている。慶長十七年(1612)二月死去。七十九歳。 ■参考略系図 |