戦国時代、備後国山田荘を領し、一乗山城主として勢力のあった渡辺氏は嵯峨源氏の流れを汲んでいる。系図によれば、源頼光四天王のひとりとして知られる渡辺綱の後裔、渡辺持が初代となっている。
そもそも渡辺氏は、嵯峨天皇の皇子で臣籍に降下した左大臣源融を祖とし、その四代目にあたるのが渡辺綱である。融・昇・仕・宛・綱・久など、渡辺氏は一字名が特徴的で、肥前松浦一族、三河渡辺氏など、日本各地に一族が繁衍した。
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●清涼寺を訪ねて
嵯峨源氏の祖源融の山荘「棲霞観」のあとに建立された清涼寺、ご本尊がお釈迦様であることから嵯峨釈迦堂とも呼ばれる。境内の一角に融の子昇の墓碑がある。渡辺昇は正三位、大納言、民部卿に上り、河原大納言と称された。昇の子仕は、武蔵守として武蔵に下向し、箕田氏を称した。仕の子宛は平忠常と武勇を競ったことが『今昔物語』に記されている。宛の子が、有名な渡辺綱である。
・右:渡辺昇の墓碑
・左:清涼寺の山門を見る
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備後国への移住
渡辺持は足利尊氏に従って戦功があり、備後国山田荘の地頭職を賜った。その後、観応の擾乱が起こると、直義方に属して高師泰、上杉朝定らと戦った。持のあと忠・直・重とつづき、重は兄近とともに斯波義将に従い、越前福井に七千貫を領したという。
備後守護職は、鎌倉時代は大江長井氏が世襲したが、南北朝の争乱期になると、仁木・細川・高・渋川・今川・山名氏らが相次いで守護職に任じられた。応永八年(1400)、山名時煕が守護職に補任されてのちは、戦国時代にいたるまで山名氏が守護職を世襲した。永享五年(1433)、時煕から備後守護を譲られた持豊は、将軍足利義教が殺害された嘉吉の変(1441)における活躍などによって山名氏の勢力を拡大、幕閣に重きをなすようになった。宝徳二年(1450)、家督を嫡男の教豊に譲り、出家した持豊は名を宗全と改める。
さて越前にあった重の子高は伯父近に養われたが、のちに近を殺害して出奔、京にのぼり泉涌寺悲田院を頼った。その後、悲田院領の管理をまかせられて備後に下向した高は、やがて備後守護山名宗全に属して諸処の合戦に活躍、甲奴郡国富村・矢野村を賜った。かくして、ふたたび備後に地歩を築いた渡辺氏は、以後、乱世に身をおくことになり、高の子信濃守兼は宗全の二男是豊に属した。
嘉吉の乱をきっかけとして幕府体制に翳りが見えるようになり、将軍家をはじめ管領、守護などの家中において家督をめぐる内紛が頻発するようになった。畠山氏は管領畠山持国のあとをめぐって、養子政長と実子義就が対立した。畠山義就と隙を生じた将軍足利義政は、寛正元年(1460=長禄四年)、義就を河内に追放し政長に追討を命じた。
寛正三年、山名是豊は北畠・武田氏らとともに政長を支援して出陣、信濃守兼もこの陣に参加して河内に出撃した。義就勢の奮戦に北畠・武田らが苦戦するなか山名勢は奮戦、兼は嫡男の定とともに先陣を務め、定はついに討死をとげた。戦後、兼・定父子の活躍に対して是豊は感状を与えて激賞したと伝えられている。
応仁の大乱
長禄四年(1460)、山名氏惣領の教豊は畠山氏への対応をめぐって父宗全と対立して追放され、播磨に出奔した。のちに両者は和解、ふたたび教豊は山名氏の惣領となった。教豊が追放されたとき、是豊は家督相続を期待したが、兄の復帰によって楽しまない日を送っていた。山名氏の分裂を狙う細川勝元は、是豊を備後守護に任ずるなどして庇護を与えていたのであった。応仁元年(1467)教豊が死去、養子の政豊が山名氏の家督を継いだ。
結局、畠山氏の内紛は、応仁の乱を引き起こす一因となった。すなわち、応仁元年(1467)、上御霊社に拠った政長を、山名宗全の支援を得た義就が攻めたことで応仁の乱が勃発した。応仁の乱に際して山名一族が西軍に属するなか、是豊は父宗全を離れて細川勝元に属し東軍として行動した。
備後の国人衆も東西に分かれ、備北の三吉・和智・江田・山内・田総氏らは西軍に属して遠く丹波に出陣して夜久野の合戦で細川軍と戦った。対して備南の杉原・宮氏惣領家、そして渡辺氏らは東軍方として行動した。兼の二男信濃守家は是豊の篤い信頼を得て、備後の西軍方鳶尾山城主宮下野入道、甲山城主山内上野介らと対陣した。以後、備後では両軍の激戦が展開されたが、文明五年(1473)、山名宗全・細川勝元が相次いで死去したことで、戦いは収束の方向に向かって行った。
文明七年(1475)、劣勢の挽回を狙う是豊は、山内氏の拠る甲山城を攻撃した。家も是豊の側近にあって甲山城に押し寄せたが、毛利氏・和智氏らが山内氏を応援、山名勢は挟撃され、散々な敗北となった。敗れた山名是豊は石見に退去し、信濃守家は備中へ逃れ、さらに讃岐に奔った。この戦いによって、備後の応仁の乱は終熄し、備後守護には山名氏惣治領の政豊が任じた。
乱世を生きる
家が没落したのち、弟の貞は宗全の家臣宮田備後守との縁から、盧田郡盧浦城主となった。もう一人の弟信は、文明のはじめ(1470ころ)、亀寿山城主宮若狭守とともに京都禁裏在番をつとめ、のち備後守護俊豊に属した。信は兼と改め、長享元年(1487)、将軍足利義尚の六角征伐に山内豊通とともに従軍するなど、渡辺氏の勢力回復につとめた。
越中守兼は一乗山城を築き、常国寺を建立するなど山田荘に確固たる地歩を築き上げた。明応四年(1495)、俊豊に従って丹後に出陣、敵将塚村治朗左衛門を討ち取る功を挙げている。十六世紀になると、出雲の尼子経久の勢力が備後に及ぶようになり、永正元年(1504)、尼子勢が備後に侵攻してきた。兼は江田・和智氏らとともに迎撃、尼子勢を撤退に追い込む活躍をみせ、俊豊から感状を受けている。
やがて、大内氏が安芸・備後に勢力を伸張してくると、大内氏に属すようになり、天文三年(1534)大内・毛利軍による宮氏の亀寿山城攻撃に参加した。宮氏が降伏した後は、亀寿山城の監視役を務めた。天文五年〜九年、渡辺氏は宮・古志氏らとともに尼子氏に従ったが、十年以後は毛利氏に通じて毛利氏の拠点としての役割をになった。
兼の子房は天文二十年(1554)、毛利元就に従って宮常陸介の拠る志川滝川城攻めに出陣、敵将常陸介を討ち取る功を挙げた。こうして房は毛利氏との関係を強めていったが、とくに小早川隆景の信頼を受けた。弘治元年(1555)、厳島の合戦が起こると、房は古志・有地氏らとともに隆景の麾下として出陣、戦功があった。以後、備中国において諸処の合戦に参加し、天正のはじめ、嫡男の高に家督を譲って隠居した。
高は永禄十二年(1569)、神辺合戦で活躍したが、同八年の宇喜多直家攻めにおいて戦死した。その間の天正三年、前将軍足利義昭が鞆に流寓、渡辺一族は義昭の警固と接待役を務めた。義昭は常国寺にも滞在、高のあとを継いだ民部少輔元は、義昭から白傘袋・毛氈の鞍覆の免許を与えるとの御内書を得た。渡辺氏は大名並の待遇を与えられたこになるが、すでに足利将軍家は有名無実な存在であり、義昭の御内書も空手形に過ぎないものであった。
戦国時代の終焉
天正十年、毛利氏は織田軍の部将羽柴秀吉と備中高松において対峙していた。そのような六月、本能寺の変が起こり、織田信長が明智光秀によって殺害された。この事件をきっかけとして世の中は大きく動き、豊臣秀吉の天下統一へと時代は動いた。
毛利氏は豊臣秀吉政権の大名となり、小早川隆景は豊臣五大老の一人に出世した。文禄元年(1592)朝鮮出兵が起こると、元の子四郎左衛門景は隆景に属して渡海、碧蹄館の戦に活躍、感状を賜った。文字通り、渡辺氏の歴代は武人として各地の戦場において名を貶めることはなかった。
慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦に際して、景は子息らとともに出陣したが戦いは西軍の敗北となり、毛利氏は封を削られて防長二国に転封となった。渡辺一族も時代の変化に直面、毛利氏に従って萩に移るものもいたが、景は一乗山を退去し漂白の身となったという。やがて、江戸時代になると、福山城主水野氏に仕え、吉津町御番所の役人を廃藩置県まで勤めた。
【参考資料:広島県史/沼隈郡誌 ほか】
■参考略系図
・尊卑分脈・沼隈郡誌所収の渡辺氏系図から作成。
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