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三河渡辺氏
三つ星に一文字/丸に三つ星
(瑳峨源氏)


 渡辺氏は嵯峨源氏の後裔である。嵯峨源氏は嵯峨天皇が皇子の融・明・定・常・信らに源朝臣の姓を授けたのに始まる。嵯峨源氏は名乗りが一字であることが特徴的である。融の孫にあたる仕は、武蔵守として武蔵国に下向し、足立郡箕田郷を開墾してその地に住み箕田氏を称した。仕の子宛は『今昔物語』に、平忠常と武勇を競って勝負がつかず、ついに引き分けたと語り伝えられている。
 宛の子綱は源満仲の婿である仁明源氏敦の養子となり、摂津国西成郡渡辺村に移って渡辺を称するようになった。綱は満仲の子頼光に仕えて、四天王の一人と称せられた。綱の子久から多くの諸流渡辺氏が生まれ、肥前平戸の戦国大名として名を馳せた松浦氏、徳川家に仕えた三河系渡辺氏もそのひとつである。
 三河系渡辺氏の先祖は足利義満の直臣であった道綱といわれ、道綱が三河国額田郡浦部村に居住したことに始まるという。その渡辺氏が松平宗家に仕えたのは、家譜によれば範綱のときである。範綱は長親・信忠・清康の三代に歴仕し、家康の祖父清康の吉田城攻めにおいて戦死した。その嫡子氏綱は清康・広忠に仕え、永禄六年(1563)浦部村で死去した。氏綱の子高綱は広忠・家康に仕え、広忠の上野城攻めには先鋒をつとめ、弘治二年(1556)の日近城攻めに戦功があった。

槍の半蔵

 高綱の子が「槍の半蔵」の異名で知られる渡辺半蔵守綱で、弘治三年、十六歳のとき駿府で人質生活を送る家康のもとに出仕した。
 永禄三年(1560)、桶狭間の合戦において今川義元が戦死したのを契機に、独立した家康は三河平定をめざした。守綱は家康のもとで忠勤をはげみ、永禄四年の長沢城攻めに活躍した。翌年の三河国八幡の戦いでは先陣が崩れる中、ひとり踏みとどまった守綱は、今川方の将板倉弾正と槍をまじえてよく今川方の攻勢を凌いだ。世人、この守綱の奮戦ぶりをみて「槍の半蔵」と呼ぶようになったという。一方、『武功雑記』などでは、元亀三年(1572)の一言坂の合戦における奮戦によるとしている。
 渡辺家は熱心な一向宗の門徒で、永禄六年秋に起った三河一向一揆に際した高綱・守綱父子は、一族とともに一揆方に加わり家康に弓をひいた。翌年、大久保党が籠る上和田砦を攻めた守綱は、中根喜蔵・鵜殿十郎三郎と戦って負傷した。これを見て救援に駆けつけた高綱は、十郎三郎を突き伏せ、さらに家康に槍をつけようとしたが、内藤正成に射倒された。重傷の守綱は父の首を敵に渡さぬため、父を肩にかついで退いたと伝えられている。
 ほどなく一揆は鎮圧され、三河統一を急ぐ家康は一揆に加わった者たちの罪を深く問わず、寛大な態度で対応したため、多くの家臣が家康のもとに帰参した。守綱も罪を許され、額田郡のうちで百貫文の地を、さらに三十貫文の地を与えられた。以後、家康に仕えて、永禄十二年(1569)、掛川城攻めに槍で武功をあげ、三方ケ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いなどに出陣、先鋒として力戦した。
 関東入国後、武蔵国比企郡のうちで三千石、関ヶ原の合戦後加増をうけて四千石、六千石の地を「騎馬同心」三十人の給米とされた。慶長十八年(1613)から嫡男重綱とともに尾張徳川義直に付属されたが、のちに帰参して統べて一万四千石を領する小大名となった。
 重綱の嫡子吉綱は大坂の城番となり、一万三千五百石余を与えられた。孫の元綱の代の元禄十一年(1698)、和泉国のうちに転じ、子孫封を継いで明治維新に至った。

●渡辺星のあれこれ
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渡辺氏の一族の家紋としては、「三つ星一文字」があまりに有名である。その「三つ星一文字」を嫡庶によって、輪を付けたり、一文字をなくした「三つ星」にしたり、あるいは一文字のカタチを変えるなどして変化を付けている。なかには、扇のなかに星を配したものも見られる。




■参考略系図
 



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