渡辺(真那井)氏
三つ星に一文字/梶の葉
(瑳峨源氏渡辺綱流) |
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豊後はいわゆる豊後水道に面して、東部の沿岸地方には古代より海に生きた海人集団があった。その伝統は後世に引き継がれ、源平争乱の時代には大神氏流の緒方三郎が海人集団を組織し、武士団化した。鎌倉時代になると緒方氏は没落、豊後は関東分国となり、大神緒方氏が築き上げた水軍も崩壊した。のちに、豊後国は大友能直が守護職に任命され、大神緒方氏の遺産を引き継いだのである。
鎌倉期の幕府や守護の軍事力は、地方ごとの御家人によって担われ、水軍もまた御家人によって編成されていた。やがて、南北朝の内乱を経て室町時代に至ると、一国の軍事力は守護の下に一元的に組織されるようになった。
大友氏は南北朝の内乱に際して武家方に属して活躍、そのまま豊後守護職を安堵された。その結果、豊後水軍も大友氏の支配下に組み込まれたのであった。そのような豊後水軍の一に真那井渡辺氏がいた。
九州に下向する
伝えられる系図によれば、真那井渡辺氏は嵯峨源氏渡辺綱の後裔となっている。観応二年(1351)、祖信は上野国那和原の戦いで父の応を失い、幼少にして流浪の身となった。信は越後国赤田保の一族を頼り、越後赤田氏に養育された。成人した信は、貞治元年(1362)、越前に到って斯波義将に仕えた。そして、貞治六年、義将の推挙を受けて将軍足利義満の番衆となって京に移住した。
そのころ、九州の地は懐良親王を頂点とする南朝方が勢力を誇り、対して将軍義満は今川了俊(貞世)を九州探題に任じて九州に下した。このとき、信も将軍の命を受けて了俊の麾下として豊後に下ることになったのである。
信は了俊の嫡男義範に従って豊後高崎城に入って籠城、南朝方の菊池氏と対峙した。菊池氏との戦いは熾烈をきわめ、翌年にいたるまで半年の間に百余度の合戦を行ったという。九州探題了俊の活躍によって、九州南朝方は次第に勢力を失っていき、ついには、肥後に逼塞するに至った。ところが、応永二年(1395)了俊は探題職を突然解任され、京へと帰っていった。
了俊麾下にあった信だったが、豊後の大友氏と行動をともにすることが多く、大友氏と合戦に明け暮れるなかで大友氏麾下の国人衆らとも誼を通じて、信は豊後に地歩を築いていた。そして、了俊が召還されたのち九州に留め置かれた信は、大友親世に属するようになった。親世は信に対して、海部郡仲村細村七十町と真那井五十町の地頭職を与えた。
大友氏に仕える
大友氏に仕えるようになった渡辺氏であったが、応永二十二年(1415)、信の孫親は讒言を信じた大友親世に所領を没収され、討伐を受けるなどして一時逼塞した。その後、二十四年を経て大友に再出仕がかない、本領の内真那井五十町を回復した。この苦い経験から渡辺氏は惣領を中心に、東秋吉・西秋吉・東政所・半畠・岩門の庶子家を立てている。そして、これら庶子家も大友氏の直臣となりそれぞれ所領を給与され、惣領とともに「真那井衆」と呼ばれる存在となった。
「真那井衆」は大友氏の直臣として、「府内勤番」「鹿越城番」そして水軍として「海上警固」の軍役を勤めた。水軍真那井衆の活躍としては、天文初年(1532ごろ)の対大内戦、永禄年間(1558〜69)の対毛利戦、天正三年(1575)の一条兼定の土佐渡海支援などが知られる。一方、陸上における合戦には吉弘氏の同心者として働いていたようだ。とはいえ、渡辺氏がもっとも期待されていたのは水軍としての活躍であった。
渡辺氏は大友氏の家中にあって、さほど大きな存在ではなかったが、大友氏とは、きわめて密接な関係にあった。のちに大友氏が改易処分となり、大友義統が水戸に配流されたとき、その下向衆のなかに渡辺三右衛門護がいる。この三右衛門護は東政所渡辺氏と思われ、その他の渡辺諸家は武士を捨てて帰農したと伝えられている。
【参考資料:大友宗麟のすべて(新人物往来社刊) /西国武士団関係史料集 ; 15・16ほか】
■参考略系図
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