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赤田渡辺氏
●閂(かんぬき)
●嵯峨源氏渡辺氏流
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近江国の湖東に位置する犬上郡豊郷町は、江州音頭発祥の地の地として有名なところである。その豊郷町八町にある常禅寺の山門の前の石柱に、八町城址と刻まれている。八町城は戦国時代、豊郷周辺を領した赤田氏の居城で、赤田氏は嵯峨源氏渡辺綱の子孫と伝えられている。
渡辺綱は嵯峨天皇の皇子源融の後裔で、摂津国西成郡渡辺村に移って渡辺を称するようになった。多田源氏源頼光に仕えて四天王の一人と称せられ、大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻り橋の上で羅生門の鬼の腕を切り落としたなどの逸話を残す剛勇の武士である。渡辺氏は摂津渡辺を本拠に勢力を拡大、暦仁元年(1228)、綱の七世の孫兵衛蔵人恒*は御家人として勲功をあげ、越後国三島郡赤田保の地頭に補任された。そして、恒の二男の等が赤田兵衛尉を称したのが赤田氏の始めである。
等は鎌倉幕府に出仕し、元弘の乱に際しては足利高氏に属して上洛、元弘三年(1333)五月の六波羅合戦において討死した。等には系図上で任・紀・納・備など数人の男子があり、建武の新政を経て南北朝動乱の時代になると、赤田一族は足利氏の麾下に属したようだ。
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『渡辺惣官系図』には、赤田保の地頭に補任されたのは定の曾孫兵衛尉応とあり、応の孫備が赤田氏を称したことになっている。
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近江に土着
等の四男七郎備は越後から近江に移り、その子左衛門尉栄(さこう)は犬上郡曾我村に居を構えたという。『尊卑文脈』の渡辺氏系図によれば、左衛門尉栄は観応二年(1351)九月、近江蒲生野合戦において討死、弟の源次向も貞和四年(1348)河内風森合戦において討死したとある。
河内風森の場所は特定できないが、貞和四年の合戦とは、武家方高師直と南朝楠木正行との一連の戦いであったと思われる。また、蒲生野合戦は、足利尊氏と弟の直義が抗争した観応の擾乱における戦いの一つと思われる。これらのことから、赤田渡辺氏が南北朝の動乱期において武家方として多大な犠牲を払ったことが知られる。
ところで、『続群書類従』の「渡辺氏系図」によれば、備のあとは照であり越中国津見保を賜り、河内風森合戦において討死したとある。さらに、後村上天皇の綸旨を賜っており南朝方であった。そして、照の子左兵衛尉国は、観応二年(1351)九月、近江蒲生野合戦において討死している。「渡辺氏系図」は渡辺惣官家の系図であり、『尊卑文脈』の渡辺氏系図の記事と人名がまったく違っていながら、事績が同様の内容となっている。
南北朝時代は惣領家と庶子家が南北に分かれて戦う例が多く、渡辺氏も例外ではなかった。系図の異同は、南北朝時代における渡辺氏の複雑な動きをあらわしたものであり、当時の武家に見られる事象のひとつに他ならない。
いずれにしても近江に土着した赤田渡辺氏は、近江守護佐々木氏に属して、代々、江陽の旗頭として勢力を保った。その一方で、赤田井堰を造ったり、赤田川を改修したりして、曽我地方の開発に尽力した。
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湖東の田園地帯のなかに残る八町城址は、城というよりは典型的な中世領主の館址というべきものである。
常禅寺の山門横に立つ「八町城址」の碑。本殿の軒瓦には古形の「閂」紋が見られ、赤田隼人正の顕彰碑が建立されている。
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境内の墓地には赤田高の墓碑があり、赤田氏の後裔の家々の方の墓には「閂」紋が刻まれているが、本来の「閂」ではなく意匠だけが伝承されているのが面白い。また、常禅寺のまわりを歩くと、土塁や壕跡と思われる遺構が見られる。城址に隣接する白鳥神社、本殿後方の森が常禅寺。
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戦国乱世を生きる
赤田氏の系図に関して、『尊卑文脈』には向の孫肥後守高までが記されている。高のあと、記録によれば衒・滋・輝とつづいて赤田隼人正隆(たこう)に至った。隼人正隆はなかなかの人物で、永正年間(1504〜20)に一族・家臣を引き連れて八町村に移り住み、八町城を築き、小さいながらも犬上郡の一角に勢力を張ったのである。
隆は江北の戦国大名に成長した浅井氏に従い、江南の佐々木六角氏との戦いに身をおいた。その一方で、領内の水利をはかり、橋を架け、道を開くなどして領民から敬い親しまれていた。そして、六十一歳のとき常禅寺を建立し、家督を嫡男の興に譲ると禅三昧の生活に入り、弘治元年(1555)に世を去った。
信濃守興も浅井氏に属して六角氏と対峙、永禄十一年(1568)、神崎郡位田の戦いで戦死した。やがて、尾張の織田信長が上洛の軍を起こすと、浅井長政は信長と結び、対する六角氏は没落した。その後、信長の朝倉攻めをきっかけに、長政は信長と袂を分かって敵対関係になった。
元亀二年(1570)、織田信長と浅井長政・朝倉連合軍とが姉川で戦ったとき、信濃守姓は浅井方の部将として参戦、抜群の活躍を示した。姉川の戦いに敗れた浅井氏は、天正元年(1573)、織田軍の攻撃を受けて小谷城で滅亡した。渡辺氏も小谷城の戦に加わり、浅井氏と没落を共にした。
赤田氏、余聞
その後、豊臣秀吉が天下を統一すると、姓の子堅が五千石をもって秀吉に召し抱えられた。そのとき、秀吉は姉川の合戦における渡辺姓の奮戦振りを物語ったという。かくして再興なった渡辺氏だが、文禄二年(1593)堅が死去、残された子達は幼かったため所領没収、一族離散の憂き目となった。
慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦が起こると堅の子虎之介は、赤田氏再興を図って西軍に属して力戦したが、合戦は西軍の敗北に終わり渡辺氏の再興は頓挫した。その後、野に下った虎之介は、家の再興を願って藤淵に身を投じ、龍神になったと伝えられている。
いまも、赤田氏の故地である犬上郡の曽我・八町などには、村岸・成宮・田部・藤野氏など赤田氏の一族を称する家が繁栄している。・2007年01月08日
【参考資料:豊郷町史/多賀町史/新修大阪市史 ほか】
■参考略系図
・尊卑分脈・豊郷町史所収の渡辺氏系図から作成。
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