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足利長尾氏
●九曜巴
●桓武平氏良文流
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長尾氏は、桓武平氏の一族で、相模国鎌倉郡に拠って鎌倉党といわれた武士団に属し、同郡長尾郷を本貫の地とした。いわゆる坂東八平氏の一つである。
鎌倉時代の記録である『吾妻鏡』には、為宗(為景)・定景、定景の子景茂・胤景・光景、景茂の子景忠・為村・為景・定村等、長尾氏の人々が記されている。長尾氏の家系については諸説があり、伝わる系図も異同が多い。それら諸系図によれば、『吾妻鏡』にあらわれる長尾氏は鎌倉権五郎景政の系統となっている。
為景・定景兄弟は、頼朝の挙兵のとき大庭景親らとともに平家方について頼朝と石橋山で戦った。その後、頼朝に降服した定景は三浦義村に預けられのちに許されたが、鎌倉時代を通し長尾氏は総じて振わなかった。定景と一族は三浦氏恩顧の下に立ち、承久元年(1219)、定景は将軍実朝を殺害した公暁を三浦義村の命によって討伐に向い、首尾を達して公暁の首を義村に献じている。この定景の行動は、三浦氏の被官としてのものであり、御家人としての主動性は認められない。とはいえ、長尾氏は将軍の供奉人、随兵、将軍臨時外出供奉人としても行動しており、三浦氏の一族として長尾郷を本拠とする御家人の立場でもあったようだ。
長尾氏の出自に関する諸説
宝治元年(1247)、景茂と一族は三浦氏と北条氏が対立、抗争した「宝治合戦」で三浦氏に与して運命をともにした。この三浦氏の乱で、景茂の子景忠は生け捕りとなり、のちに許されて、建長四年(1252)に宗尊親王の供奉上杉重房に随行してきた長尾景熈の養子となり長尾氏の家督を継いだという。そして、定時(定村)の子景直・景廉が景忠の養子となり、それぞれ鎌倉・越後長尾氏の祖となった。景忠の嫡子は景行で、その子清景・忠房は白井・惣社長尾氏の祖になったと伝えている。
長尾氏について系統的に記されたものとして『御影之記』があり、おそらく長尾氏について記された最初のものであろうとされている。それによれば、長尾氏は「桓武天皇の子孫である桓武平氏の流れで、相模守忠通が相模国村岡より長尾郷に移って長尾を称したのが始まり」と記されている。
忠通には為通・景成・景村・景通・景政の五人の男子があり、為通は三浦、景成は大庭、景村は忠通のあとを継ぎ、景通は梶原、景政は鎌倉のちに長尾と改めそれぞれ家祖となった。景村の後裔景熈は京にあって後深草院の北面の武士であったが、宗尊親王が鎌倉下向のとき、上杉重房の介添として鎌倉に下向したといい、長尾氏は景熈が鎌倉に下るまで幕府とは関係が無かったことになる。
また、新井白石が著わした『藩翰譜』には長尾氏について、「宗尊親王が鎌倉下向のとき、勧修寺重房は供奉として鎌倉に下り、上杉を称して武士となった。その子頼重、その子頼成と継ぎ、頼成の三男藤景は長尾氏の家を継いだ。長尾の家は平良文の後裔で、鎌倉権五郎景政の五代の孫、長尾次郎景弘の末という」と藤原氏説を挙げている。そして、長尾氏は「中先代の乱」で滅亡したため、上杉藤景があとを継いだとしている。
このように、長尾氏の出自・系統については諸説があり、それらを系統だてることは非常に困難なこととなっている。いずれにしろ、宗尊親王が征夷大将軍として鎌倉に下ったとき、随行した上杉氏との関係から戦国時代の長尾氏は始まったものとみられる。
長尾城址点描
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長尾氏発祥の地に残る長尾城址 ・長尾城址に祀られる石碑(2003/10)
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長尾氏の台頭
その長尾氏が後世名を残すようになったのは、南北朝時代に長尾景忠が山内上杉憲顕の有力家臣として活躍したことに求められる。景忠は憲顕が越後・上野両国の守護に補任されると、その下で守護代を務め、戦国時代、長尾氏が上野・越後の両国の大名に成長する足場を築きあげた。
足利尊氏と弟の直義が対立した「観応の擾乱」に際して、上杉氏は直義に属して各地に分かれて戦ったが、長尾氏もこれに従った。擾乱は直義の敗北に終わり、文和元年(1352)、直義は鎌倉で急逝した。一説に毒殺されたのだともいう。上杉憲顕と長尾景忠は信濃に逃れた。この、足利氏の分裂をみた南朝方の新田義宗・義興が兵を起こして、武蔵から鎌倉に攻め入った。この新田勢に信濃にあった宗良親王も加わり、宗良親王に属して上杉憲顕・憲将と長尾景忠・景恒も参加して、足利軍と戦い敗れて信濃から越後に逃れた。
以後、上杉氏は南朝方に通じて北朝方と戦ったが、延文四年(1359)ごろに北朝方に転向したようで、翌五年には、新田義宗らの拠った上田城および妻有城を攻撃している。このころ、関東では尊氏の子基氏が東国を治め、執事として畠山国清が補佐していた。康安元年(1361)、畠山国清は鎌倉を出奔して伊豆に拠り、基氏に叛いたが、翌年には敗れて基氏に降った。その結果、基氏は越後の憲顕を招いて関東管領とした。そして、これが関東管領の初めとなった。その任務は鎌倉府の主である関東公方の補佐であり、鎌倉府における最高職であった。この関東管領職の設置によって、鎌倉府の体制は一応の完成をみたのである。
以後、関東管領職は上杉一族が独占した。そして、憲顕は上野および越後の守護職に再任され、上杉氏は鎌倉府の重鎮として、さらに守護職につくことで在地との関係を深め、関東の諸豪族に対処しようとしたのである。上野の守護代には長尾景忠が任じられ、この景忠の系統が上野長尾氏となった。一方、越後では憲顕の子憲将が守護代となっていたが、貞治五年(1366)に逝去したため、長尾高景が守護代となり、高景の子孫が守護代を世襲して越後長尾氏として発展していった。
ここに至るまでの長尾氏は山内上杉氏の直臣として、越後長尾と関東長尾の分立は明確ではなく、戦乱が起ると越後と上野の間を往来していた。それが、貞治二年(1363)に至り、鎌倉府の支配体制が確立されたことによって、長尾景忠の系統が関東長尾氏、弟景恒の子高景の系統が越後長尾氏として分立し、それぞれ上野・越後の守護代として山内上杉氏の分国経営を担ったのである。
乱世に地歩を築き上げる
さて、長尾氏の嫡流は足利(鎌倉)長尾氏とされ、宝治元年の「三浦氏の乱(宝治合戦)」によって滅んだ長尾景茂の名跡を継いだ景直を祖とする(鎌倉長尾系図による)。景直の子満景は山内上杉憲定の家宰となり、家宰職のはじめとして勢力をもったが、応永二十三年(1416)の「上杉禅秀の乱」で戦死した。満景の死によって鎌倉長尾氏の勢力は挫折したが、満景の甥房景の子景仲(白井長尾氏を継ぐ)が家宰職に就いている。
房景の子実景(満景の子)は、享徳三年(1454)に上杉憲忠とともに鎌倉公方足利成氏に誅殺された。これが引き金となって「享徳の乱」が起こり、関東は公方派と上杉派とに分かれて内乱状態となった。翌享徳四年、公方成氏は武蔵国分倍河原において上杉房顕・長尾景仲らを撃破して、下野西部における上杉方を掃滅し、さらに天命・只木山城を落して長尾氏らを追い落とした。以後、公方勢力が優勢となったが、幕府は上杉氏を支援して争乱に介入し、駿河守護今川範忠に動員を命じ範忠は鎌倉を制圧した。
鎌倉を失った成氏は下総古河に奔り「古河公方」となった。以後、公方は下野・下総・常陸などを制圧し、上杉方は上野・武蔵・相模などを支配し、関東は利根川を境にして二分して両派が相争った。長禄元年(1457)、将軍義政は成氏に対抗するため弟政知を関東に下した。政知は鎌倉に入ることができず、伊豆の掘越に居を構え「掘越公方」と称して古河公方足利成氏と対抗した。
文明三年(1471)、掘越公方を攻撃してきた古河公方勢を撃退した上杉方の総攻撃が開始され、成氏は古河を放棄して一時下総方面に逃れた。しかし、栗橋の野田氏、関宿の簗田氏、私市の佐々木氏、結城・那須氏ら公方勢の奮戦で上杉方は成氏に決定的な打撃を与えることはできなかった。
足利荘への入部
享徳の乱で、上杉憲忠とともに殺害された実景のあとを継いだ景人は成氏方との合戦で、総社長尾忠政・白井長尾景仲らとともに上杉方として各地を転戦し、景人の戦功は上杉氏家臣のなかで随一であった。その功によって、寛正六年(1465)、上杉房顕の推挙を受けて京都将軍家から「由緒の地」として、その御料所下野国足利庄の代官職に補任された。そして文正元年(1466)秋、景人は同庄勧農城に入部、勧農城は古河公方成氏攻略のための拠点となった。
文明三年、上杉方は足利荘を足場にして古河公方に対する総攻撃を開始した。景人は山内上杉顕定の将として長尾景信・景春らとともに出陣、このとき扇谷上杉政真の将として太田資清(道灌)が出陣している。さらに上杉軍には、足利周辺の新田岩松氏・佐野氏、上州・武州一揆之輩が加わり、公方方の樺先・赤見・八椚城を落し、さらに館林城に押し寄せ城主赤井氏を屈服させた。この一連の戦いにおいて、長尾景人の勧農城は上杉方の駐屯地として機能した。
景人の死後は定景が家督を継承し、定景のあとは弟景長が継いだが幼かったため、犬顕長尾氏を継いでいた叔父の房清(憲景)が後見人的立場として足利荘の支配権を掌握した。房清は足利氏の氏寺鑁阿寺に禁制を下し、明応四年(1495)、上野国金山城の岩松尚純と横瀬成繁が対立したとき、足利勢を率いて出陣し岩松氏を支援している。房清は永正元年(1504)九月の武蔵立河原合戦で戦死したが、この房清を景長の前の家督であったとするものある。家督を継いだ景長は、総社長尾氏に代わって山内上杉氏の家宰となった。
その頃、古河公方家では成氏のあとを継いだ政氏と子の高基が対立し、上杉氏もその影響を受けて内紛が生じた。景長は高基を支援する上杉憲房に従って政氏方の顕実が拠る鉢形城を攻め、顕実を古河へ追い落とし憲房を関東管領に据えた。景長は武人としても優れていたが、絵画にも長じ優れた山水画や自画像を残している。景長は大永八年(1528)に没し、そのあとは憲長が継いだ。
憲長は父景長と同様に山内上杉氏の家宰となり、足利高基の子亀王丸の元服に際して、将軍足利義晴の「晴」の一字をもらい請けるために奔走し、亀王丸は元服して晴氏となった。その功によって、憲長は但馬守に任ぜられた。憲長のあとは子の当長が継ぎ、上杉憲政の家宰を務めた。当長は初め関東管領上杉憲当(政)の偏諱を受けて当長を称したが、のちに憲政から関東管領職と上杉名字を譲られて関東に進出してきた長尾景虎(上杉謙信)の一字をもらいうけて景長と改名している。
後北条氏と謙信の抗争
十六世紀になると小田原北条氏が相模国を制圧するなど勢力を拡大し、やがて武蔵にも進出を企て上杉氏の領国を侵食するようになった。天文十四年(1545)山内上杉憲政は、後北条氏の武蔵進出を阻止するため扇谷上杉朝定、古河公方晴氏らと連合して公称八万騎と呼ばれる大軍を動員し、北条綱成が守る河越城を包囲した。
のちに「河越の合戦」と呼ばれる戦いで、一方の北条氏康は八千騎を率いて河越城の救援に向かった。氏康は包囲軍のあまりの大軍に驚いたが、一計を案じて連合軍の油断を誘うため弱腰をみせた。そして、ころ合いよしと判断すると乾坤一擲の夜襲を行い、数に奢る連合軍に壊滅的打撃を与えた。
敗れた憲政は上野国平井城に逃れ余喘を保っていたが、北条氏康の攻勢にさらされ、ついに天文二十一年、越後の長尾景虎を頼って関東から落ちていった。そして、憲政から関東管領職と上杉名字を譲られた長尾景虎は、永禄三年(1560)、憲政を擁して関東へ出陣してきた。景虎の関東進出に協力したのは足利・総社・白井の三長尾氏で、当長は景虎の陣に参じた。景虎は上野国館林城の赤井照康を攻め、降伏した照康の居城を景長(当長)に預けた。謙信が作成した『関東幕注文』にみえる「足利衆」の筆頭に長尾但馬守とあるのが景長である。
赤井氏の旧領は館林領と小泉領とに二分され、足利長尾氏は小泉領を与えられた。こうして長尾氏の支配領域は館林城を含めていちじるしく拡大された。そして、永禄五年に景長は足利城から館林城に移った。これは、館林城が戦略上の地の利を得ていることと、新領地の支配を確実にするためであった、などと考えられる。さらに、永禄初年の渡良瀬川の大洪水によって、足利地域が大被害を受け、その復旧が困難であったことも移動の大きな要因となったようだ。
永禄十二年の越相同盟に際して、上杉方と後北条方の交渉を長尾景長は上野国金山城の由良成繁とともに仲介した。そして、同年七月景長は没し、そのあとは、由良成繁の子が婿入りして顕長を名乗り家督を相続した。ここに、長尾=由良氏の関係が強化され、長尾氏は北関東の一大勢力となった。
後北条氏に屈服
越相同盟の成立により、上野・下野は上杉氏、武蔵は後北条氏と一応の支配領域の分割が行われ、関東は一時小康状態を得た。ところが、天正六年(1578)上杉謙信が死去し、謙信の跡目をめぐって甥の景勝と後北条氏から養子に入った景虎が家督争いを演じた。「御館の乱」と呼ばれる内乱であり、一年に及ぶ抗争の結果は景勝派が勝利となったが、景虎を支持した上野の諸将の多くは上杉氏から離反した 。
この結果、後北条氏の勢いは上野・下野方面にいちじるしく浸透した。これに対して甲斐の武田氏、常陸の佐竹氏らが上野・下野・武蔵の国境地域に侵入し、足利地域には佐竹氏の軍が駐留した。天正十年、上野国へ進出していた武田氏が織田信長によって滅ぼされ、武田氏が支配していた西上野には織田氏の部将滝川一益が入ったが、同年、信長が本能寺で横死したことで後北条氏の攻勢に敗れた一益は関東から逃れ去った。
かくして、関東一円には後北条氏の支配が貫徹してきた。いままで、かろうじて独立性を保ってきた長尾・由良両氏にも後北条氏の圧力が強まってきた。滝川氏を追い厩橋城を掌握した北条氏直は、長尾顕長・由良国繁兄弟を招いて、佐竹氏攻撃のため新田・館林両城の借り上げを強要し、両人を幽閉したまま両城に攻撃をしかけてきた。
この後北条氏の攻撃に対して、長尾・由良連合は兄弟の母を中心に結束し、金山・館林両城を防衛した。天正十二年、後北条氏は利根川を渡り総攻撃を開始した。長尾・由良勢はよく奮戦したが衆寡敵せず屈服した。長尾顕長は北条氏直と会見して、後北条氏への忠誠を誓い、足利を含む館林領はまったく後北条氏の領国に合併された。その結果、顕長は岩井山へ、国繁は桐生へ退いていった。天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めに際して、国繁・顕長兄弟は小田原城に籠城、後北条氏没落ののち、顕長は佐竹義宣にいったん預けられたが、その後、流浪の身となり長尾氏嫡流は没落した。・2005年07月07日
【参考資料:長尾氏の研究/戦国大名系譜人名事典/足利市史 ほか】
・長尾氏一族のページにリンク…
●上田長尾氏
●古志長尾氏
●白井長尾氏
●総社長尾氏
●足利長尾氏
■桓武平氏長尾氏諸流一覧
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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安逸を貪った公家に代わって武家政権を樹立した源頼朝、
鎌倉時代は東国武士の名字・家紋が
全国に広まった時代でもあった。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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