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総社長尾氏
●九曜巴
●桓武平氏良文流  
 


 長尾氏は桓武平氏の一族で、相模国鎌倉郡長尾郷から起った。いわゆる、大庭氏、梶浦氏とともに坂東八平氏の一つである。源平合戦時の為景・定景兄弟は、頼朝の挙兵のとき大庭景親らとともに平家方について頼朝と石橋山で戦いった。鎌倉幕府が開かれると、有力御家人三浦氏の庇護を受けつつ、長尾郷を本拠とする幕府御家人としての立場にあったようだ。『吾妻鏡』をみると、為宗(為景)・定景・景茂といった長尾氏の人々が散見している。しかし、長尾氏に近い三浦氏が宝治合戦(1247)で滅亡したこともあって、鎌倉時代の長尾氏は総じて振るわなかった。
 三浦氏滅亡後、宗尊親王に供奉して鎌倉に下向してきた上杉氏と関係を持ったことが、のちの長尾氏の発展につながった。上杉氏は有力御家人である足利氏と縁戚関係を持ち、鎌倉幕府が滅亡したのち、足利氏の側近として一躍歴史に躍り出た。南北朝時代、長尾景忠は山内上杉憲顕の有力家臣として、越後・上野両国の守護に補任された憲顕の下で守護代を務めた。その後、景忠は上野守護代をつとめ、越後守護代は弟景恒の子高景がつとめて、それぞれ山内上杉氏の分国経営を担った。
 景忠には数人の男子があり、足利、白井、鎌倉などの諸長尾氏に分かれ、足利直義から惣社を与えられた忠房が総社長尾氏の祖となった。以後、それぞれ上杉氏に仕えて、乱世に身を処しつつ戦国時代に至った。とはいうものの、鎌倉時代より南北朝時代における長尾氏の系図に関しては不明な点が多く、惣社長尾氏の祖になったという忠房に関しても景忠の孫というものもあり系図上の位置も一定しない。

乱世の始まり

 忠房の子忠政(二人の間に忠綱を入れる系図もある)は、武蔵守護代をつとめ山内上杉家の執事職も兼帯した。執事職は山内上杉氏の家政を執り行う職掌で、家宰とも称されて家臣の最高位に位置した。そして、忠政の弟憲明は上野守護代をつとめ、惣社長尾氏はにわかに勢力を拡大することになる。
 応永二十三年(1416)「上杉禅秀の乱」が起ると、山内上杉氏は鎌倉公方足利持氏に味方して禅秀と対立した。このとき、山内上杉氏には扇谷・庁鼻和の上杉一族、家臣長尾氏・大石氏、そして武蔵・上野の国人らが加担した。この時期、山内上杉氏は固有の軍事組織を形成していず、武蔵・上野の国人を把握できたのは領国が守護分国であったことと、守護代長尾氏の活動によったものであった。
 禅秀の乱は禅秀方の優勢に推移したが、幕府が鎌倉公方持氏を支援したことで持氏=山内上杉方の勝利に終わった。乱後、上杉憲基は領掌した上野・伊豆の闕所地を乱の功賞として被官に給付し、分国内の国人の被官化が進んでいった。かくして、山内上杉氏の勢力が拡大するとともに、長尾氏も越後長尾氏・鎌倉長尾氏・白井長尾氏そして惣社長尾氏らに分かれたのである。
 山内上杉氏の家務を総括する役である「山内家執事職」にはじめて任じられたのは、惣社長尾忠政であったことは前記の通りである。山内家執事職は関東管領山内上杉氏に最も近い地位にあり、やがて鎌倉府にも影響を及ぼすようになるのである。たとえば、応永二十二年に一色満頼が「長尾殿」に宛てた書状は、知行地の還補に関する処理を鎌倉府関係者に執り成してもらうことを依頼したものであった。この「長尾殿」は忠政のことであり、忠政は山内家の分国の経営にも主導権を振るうなど文字通り関東の有力者と呼ばれる存在であった。
 禅秀の乱後、公方持氏は禅秀与党を仮借なく討伐したため、禅秀方の諸将は持氏に抵抗し、関東各地に争乱が続いた。関東の情勢を憂慮した幕府は、持氏に反感をもつ宇都宮・山入・武田氏らの関東諸氏と気脈を通じ「京都扶持衆」と称して親密な関係を結び、持氏の行動を警戒した。さらに、直轄地である足利庄に細川氏や畠山氏の被官を代官として下し持氏の動向をうかがわせた。このような幕府の態度に対して、持氏は扶持衆をも討伐するようになり、幕府と鎌倉府との間はにわかに険悪の度を深めていった。

鎌倉府と幕府の対立

 応永三十年、持氏は幕府扶持衆小栗氏を征伐するため常陸に出陣した。管領上杉憲実も出陣したが、家宰長尾忠政は足利庄に駐在する代官、畠山満家の被官神保慶久に持氏の動静を注進し、慶久はこれを京都へ報告している。管領上杉氏は持氏の行動に従いながらも、その態度はきわめて曖昧なものであった。その背景には、幕府と対立した公方満兼を諌めて自殺した憲春以来の幕府との親密な関係があったようで、幕府も山内上杉氏をして持氏を牽制する立場に立たたしめたようだ。
 やがて、幕府と鎌倉府との間は一触即発状態となったが、応永三十一年、建長寺の勝西堂等の尽力によって両府の和睦が成立した。しかし、その後も不穏な空気は消えず、正長元年(1428)正月将軍義持が死去し、そのあとを義教がついだことをきっかけに両府の関係はふたたび険悪状態となった。持氏は義持死後の将軍位を望んでいたようで、義教が将軍職を継いだことは大いに不満であり、兵をひきいて上洛しようとした。管領憲実は持氏を必死で諌めて出兵を思いとどまらせると、永享三年(1431)、両府の和睦にこぎつけた。
 その後、駿河・甲斐・信濃に不穏な状態が続き、越後では守護上杉氏に対して守護代長尾氏が乱を起した。 これらの争乱に際して持氏は反幕府的立場を示したことから、幕府と鎌倉府の関係は波乱含みとなったが、上杉憲実はよく持氏を制して決定的対立には至らなかった。しかし、憲実の幕府寄りの姿勢は持氏との関係を次第に悪化させ、ついに永享十年、両者は決裂し憲実は領国上野へ退去した。
 これに対して、持氏はみずから兵を率いて武蔵府中に出陣し憲実を討伐しようとしたことで、「永享の乱」が勃発した。上杉憲実は幕府に支援を求め、幕府も持氏を討伐する腹を固め、駿河の今川範忠、信濃の小笠原政康らが幕府の命を受けて関東にに出兵した。
 この乱に際して、憲実の家宰をつとめていた忠政は、分倍河原に着陣していたが、鎌倉を警固するため出立した。そこへ鎌倉へ帰ろうとしている持氏と逢い、持氏を説得してともに鎌倉へ入った。そして、持氏を永安寺に入らせ、ついで持氏側近の上杉憲直・一色直兼らの処分を行い乱の収束につとめた。上杉憲実は幕府に持氏の助命を願ったが、将軍義教はこれを許さず持氏に自害を命じたことで鎌倉公方は滅亡した。  その後、持氏の遺児兄弟を擁した結城氏朝らが「結城合戦」を引き起こすと、忠政は鎌倉にあって留守を守った。永享の乱から結城合戦において忠政は、憲実の命をうけつつ山内上杉家および鎌倉府内部で主導的立場にあったようだ。
 ところで、山内上杉氏が戦国末期まで居城とした平井城を築いたのは、忠政の父忠房であったという。それは「永享の乱」の最中の永享十年(1438)のことといい、忠房は憲実を迎えるために平井城を築いたものと考えられる。これが本当ならば、忠房はかなりな長寿を保った人物であったといえよう。さて、忠政は嘉吉三年(1443)の文書を最後に見えなくなり、忠政のあとの山内家家宰職は白井長尾氏の景仲が継ぎ、忠政の子景棟は上杉方として武蔵・上野など関東諸国の合戦に参加している。

長尾景春の乱

 永享の乱でいったん滅亡した鎌倉府は、持氏の子成氏が赦されて新公方となり再興された。しかし、公方成氏は父や兄に加担して没落した結城氏らを側近に採用したため、それに反対する管領上杉憲忠と対立するようになった。享徳三年十二月、成氏が管領憲忠を謀殺したことで「享徳の乱」が起った。以後、関東は公方足利成氏と管領山内上杉=幕府方とに分かれて戦いが繰り返され、時代は確実に下剋上が横行する戦国時代へと推移していった。
 その後、鎌倉を失った成氏は古河に奔って古河公方と称されるようになった。一方の山内氏は五十子に陣を布き、公方方と上杉方は利根川を挟んで睨み合った。
 この間、山内上杉氏の家宰をつとめたのは白井長尾景仲・景信父子で、とくに景信は山内房顕を援けて公方勢と対峙し、房顕が死去すると越後守護上杉房定の二男顕定を管領職に迎えるなどの活躍を示した。景信の 弟で惣社長尾景棟のあとを継いだ忠景も、上杉方として諸処の戦いに参加して奮戦している。文明五年(1473)景信が死去すると、山内上杉顕定は奉行人の意を受けて執事職に忠景を任じた。
 山内家執事職は関東の政治体制のなかで重要な地位であり、これに就くことは長尾氏内で宗家の地位を占めることでもあった。景信には嫡子景春がいて、景春は父を援けて公方方との戦いに出陣、一角の武将として知られた存在であった。それだけに景春は顕定のこの措置を不満として居城である白井城へ引き揚げると、主家への反逆を決意したのである。
 白井長尾氏は景仲・景信の活躍で勢力を大きく伸ばしており、さらに景春が執事職に就くとその勢力はさらに拡大することは疑いない。山内家の奉行衆は白井長尾氏の勢力強大化の阻止を目論み、顕定も奉行衆の意向を入れたものであろう。もっとも、景春自身にも山内家執事職に就くだけの器量に欠けるところもあったようだ。
 かくして、景春は国人衆を味方につけるとともに古河公方成氏と結んで、文明八年(1476)、道灌が駿河に出張している留守を狙って五十子陣の上杉顕定を襲撃する挙に出た。この景春の反乱の収拾に立ち向かったのが扇谷家の執事太田道灌であり、それを山内家家宰である惣社長尾忠景が援けた。乱そのものは文明十二年(1480)、景春の籠る日野城は上杉方の攻撃で陥落したことで一応の終結をみた。
 この景春の乱の特長は、公方や管領の被官である景春や道灌、そして被官・国人といった在地武士が中心となったことが挙げられる。それは下剋上の世相が顕在化してきたことを示すものでもあり、中世的な権威である古河公方や上杉氏の権勢を失墜させ、新興勢力である後北条氏などの戦国大名が登場してくるきっかけとなったのである。

両上杉氏の乱

 景春の乱に際して、太田道真・道灌父子の活躍は目覚ましく、とくに道灌に対する関東諸将の敬意の念は高まった。この道灌の名声と武略によって、扇谷上杉氏は山内上杉氏を圧倒するまでになった。脅威を抱いた山内上杉顕定は道灌を除く謀略を企て、扇谷上杉定正に道灌は上杉氏に対して叛心を抱いていると讒言した。顕定の讒言を信じた定正は、文明十八年(1486)七月、みずからの手で道灌を殺害してしまった。道灌の死をきっかけに両上杉氏の対立が表面化し、やがて「長享の乱」へと発展していくことになる。
 十一月、総社長尾忠景は顕定とともに上野国府に出陣した。国府には総社長尾氏の本拠である蒼海城があり、そこを拠点として西上州の長野業尚と戦ったのである。長野氏は上州一揆の中心として西上州に勢力を拡大し、景春の乱には景春に味方して反上杉的行動をとった。山内上杉氏にすれば道灌謀殺後の時勢に備え、上野の安定をはかるための軍事行動であった。
 かくして、長享二年(1488)二月、山内上杉顕定と扇谷上杉定正とは相模国実蒔原で激突、圧倒的兵力を動員した山内方が敗北を喫した、ついで六月、両者は武蔵国須賀原で戦ったが、この合戦も兵力に劣る扇谷方の勝利に終わった。続いて11月、高見原合戦が行われ、この戦いも定正の勝利に帰した。定正は道灌を謀殺するという愚挙をなしたが、武将としては傑出したものを持っていたようだ。明応三年(1494)の第二次高見原合戦において定正は戦死したが、永正二年(1505) に扇谷上杉朝良が降伏するまで、両上杉氏の抗争は断続的に続けられた。
 この多難な時代に生きた総社忠景は、三十年近くにわたって山内上杉氏の家宰をつとめ、武蔵・上野両国の守護代に任じて上杉氏を支えたのであった。文亀元年(1501)に忠景が死去すると、嫡子顕忠は山内上杉の家宰に任じられ、顕定を支援して所々に戦い武蔵国鉢形城に在城した。
 このように、両上杉氏が不毛な抗争を続けいるなか、明応四(1495)年、伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆から相模へと勢力を拡大していた。一方、顕定の弟房能が守護職にある越後では、永正四年(1507)、守護代の長尾為景が上条上杉定実を擁してクーデターを起し房能を討ち取る下剋上を行った。時代は確実に弱肉強食の戦国の世となり、南北朝期より鎌倉府管領として関東に君臨してきた山内上杉氏といえども安閑とはしていられなくなったのである。

伝統的旧勢力の衰退

 永正六年(1509)顕忠が没すると、養子の顕方が総社長尾氏を継ぎ鉢形城主となった。しかし、顕方が山内上杉氏の家宰になったとする史料は存在しない。ところで、顕忠の死後に後家幸春尼は亡夫顕忠の菩提のために、相模国長尾郷および金井村の地を円覚寺の龍隠軒に寄進している。長尾郷は長尾氏発祥の地であり、惣社長尾氏が名字地の長尾を所領としていたことが知られる。
 長尾為景が守護房能を討ち取ったのち、顕定は弟の仇討ちと越後の所領を確保するために越後に出兵しようとしたが、周囲の事情でただちに行動を起こせなかった。そして、永正六年(1509)、養子の憲房を先発させ、みずからも関東の兵を率いて越後に出陣した。このとき、顕方は鉢形城に留まって兵站の任にあたったようだ。また、この年に連歌師宗長が顕方を訪ねていることが「東路のつと」から知られる。
 越後に攻め入った顕定は、たちまちのうちに長尾為景・上杉定実を追放すると、越後を支配下においた。しかし、翌永正七年、為景・定実の巻き返しに敗れ、関東に撤退するところを追撃され敗死してしまった。顕定死後、山内上杉氏では古河公方成氏の子顕実を養子に迎えて管領職に就き、上野守護職は憲房が継承した。一方、顕定の戦死により長尾景春、長尾為景らと結んで上杉氏に叛旗を翻した小田原の北条早雲が、上杉氏の家臣上田蔵人を唆して武蔵神奈川権現山において蜂起させた。このとき、長尾顕方は山内上杉方として家臣矢野憲俊を参陣させた。
 やがて、古河公方政氏と嫡男高基の抗争が激化したことで、山内上杉氏は顕実と憲房が対立関係となった。この内訌において顕方は顕実に加担したが、顕実が古河に奔り、憲房が関東管領となると従前のように憲房に従った。永正十六年、古河公方、山内上杉氏らが内紛に揺れているとき着々と勢力を伸ばした北条早雲が死去し、嫡男の氏綱が北条氏を継承した。氏綱は父早雲に劣らぬ人物で、武蔵に進出して扇谷上杉氏の属城を次々と攻略していった。
 このような後北条氏の攻勢に対して、扇谷上杉氏は越後の長尾為景に関東への出陣を求めた。一方、氏綱も為景と和議を結んで上杉氏に備えようとして、大永四年(1524)、惣社長尾顕方に為景との和議の仲介を依頼している。顕方はこのとき後北条方に通じ、為景と北条氏綱との親交を結ぶことに活躍している。長尾顕方が北条氏綱に内応したことを知った太田資頼は、長尾「同名中」の離反と嘆いている。

時代の転変

 後北条方に転じた惣社長尾氏にとって、ともに山内上杉氏に仕えた箕輪城主長野氏が敵対勢力となった。長野氏は西上州において勢力を拡大し、ついには惣社長尾氏の勢力圏と境を接するまでになった。そして、惣社長尾氏が後北条方に通じたことを口実にその攻略を計ったのである。
 一方、顕方の尽力で後北条氏と親交を結んだ為景であったが、ほどなく山内上杉氏と和議を結んだ。そして、このころ為景が惣社長尾氏に出した書状の宛先は顕景になっている。この顕景は惣社長尾氏の一族高津長尾氏の人物で、おそらく惣社長尾氏の内部で路線をめぐって争いがあり、後北条方の顕方が没落したものと考えられる。
 さて、惣社長尾氏の攻略をめざす長野方斎は、惣社に向けて要害を築くなどさまざまな計略をめぐらしていた。この事態を重くみた顕景は為景に援助を請い、また、白井長尾景誠を恃んで山内上杉氏への復帰を画策している。山内上杉氏家中において長野氏が台頭してきたことは、惣社長尾氏と白井長尾氏に危機感をつのらせ、両長尾氏は越後の長尾氏と結ぶことで勢力の保持に努めようとした。越後の長尾為景にしても、山内上杉氏との関係を回復し、加えて惣社・白井の両長尾氏とも結ぶことで越後と上野の国境を保全しようとした。
 ここに、長尾景春の乱によって決裂した惣社・白井の両長尾氏は為景と結ぶことで、ふたたび連合するようになったのである。ところが、享禄元年(1528)白井長尾景誠が家臣に殺害されるという事件が起った。景誠には子が無かったため、長野業政の扱いで惣社長尾顕忠の嫡子景房に白井長尾氏を継がせた。しかし、顕忠は永正六年(1509)に没しており、景房は永正八年(1511)の生まれであり両者の親子関係は成立しない。おそらく景房は、『平姓長尾系図』に「惣社左衛門子」と記されているように、惣社左衛門こと高津長尾顕景の子であろうと考えられる。
   その後、白井長尾景房は管領山内憲政より一字を賜って憲景と称し、景春死後、十数年を経て山内家に復帰したのである。そして、惣社長尾氏も山内家との関係を復旧したと考えられる。

激変する時代の潮流

 天文十四年(1545)、関東の戦国史に名高い河越合戦が起った。この戦いは、小田原を本拠として着実に勢力を拡大する後北条氏に対して、山内上杉憲政、扇谷上杉朝定、古河公方晴氏らの旧勢力が連合、北条方の河越城を攻撃したものである。連合軍は八万ともいわれる大軍で、これに対する北条氏康が率いた兵力は八千であったという。しかし、結果は氏康の機略もあって、連合軍の散々な敗北に終わった。
 扇谷上杉朝定は戦死し、山内上杉憲政、古河公方晴氏らはそれぞれの城に逃げ帰り、以後、北条氏康の勢力が関東一円を席巻するようになった。敗れた山内上杉憲政は、武蔵国からいっさい手をひかざるをえなくなったが、白井長尾・惣社長尾・長野・和田・小幡らの上野勢、太田・成田・深谷上杉らの武蔵勢は依然として山内方にあった。敗れたりとはいえ、山内氏の勢力がまったく崩壊したわけではなかったのである。しかし、勢力回復を狙う憲政は信濃に出兵して敗戦を被るなど、さらに勢力失墜をまねいていた。
 ころあいを見ていた氏康は、天文二十年(1551)、上杉氏の拠点である平井城攻めを開始した。憲政は防戦につとめたが、ついに平井城を守り切ることができず、翌天文二十一年正月、越後の長尾景虎を頼って平井城から逃れ去った。『朝陽私史』によれば、このとき惣社・白井の両長尾氏も従ったとあるが、おそらく国境まで憲政を守護したものであろう。こうして山内上杉氏の代官的地位にあて、盛衰をともにしてきた惣社・白井・足利の関東長尾諸氏はその主家を失い、自立した大名の道へと進むことを余儀なくされたのである。
 憲政を迎えた長尾景虎は、その依頼に応えて関東出兵の決意を固めた。そして、永禄三年(1560)、景虎は憲政を擁して関東に出陣したのである。北関東を席巻した景虎は厩橋城で越年すると、翌四年には北関東諸将を率いて長駆して小田原城を攻撃した。そして、鎌倉の鶴岡八幡宮において関東管領職就任式を行い、憲政から上杉の名字、系図などを譲られ上杉政虎(のち輝虎、謙信)と改めた。以後、上杉謙信は連年のように関東に出陣、管領として関東の政治秩序を正さんとして北条氏と戦った。
 この長尾景虎の関東出兵に際して、白井・惣社・足利の長尾三家は長尾一類として景虎軍に加わった。長尾氏は北条氏の上野進出に対抗するため、つねに景虎と連絡をとっていた。景虎が関東出陣において上野を基盤にできたのは、長尾三家の協力があったことが大きかった。
 永禄三年の越山のときに謙信が作成した『関東幕注文』には、三長尾家は「白井衆」「惣社衆」「足利衆」として記され、この時期の関東長尾三家を知る格好の史料となっている。「総社衆」としては、安中「わうふの丸すそこ」、小幡三河守(信尚)「団の内六竹」、多比良「二ひきりやうすそこ」大類弥六郎「うちハの内切竹にほうわう」など十五人の幕紋が記され、最後に長尾能登守「九ともへにほひすそこ」とある。長尾能登守は高津長尾氏の景綱(景総)であろうとされ、総社長尾氏嫡流に代わって、総社衆を率いて景虎のもとに参陣したようだ。
 その後、永禄六年(1563)に武田信玄が東上野に侵入したとき総社城は落城、総社長尾氏は越後の上杉謙信を頼って退出し、子孫は上杉氏に仕えたと伝えられている。・2006年03月03日

参考資料:長尾氏の研究 (関東武士研究叢書) /子持村誌/上杉氏の研究 (戦国大名論集) ほか】

●長尾氏の家紋─考察

・長尾氏一族のページにリンク…
●上田長尾氏 ●古志長尾氏 ●白井長尾氏 ●総社長尾氏 ●足利長尾氏
■桓武平氏長尾氏諸流一覧


■参考略系図
・景為から忠房に至る世代は『上杉本平姓長尾氏系図』に拠った。  


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