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上田長尾氏 ●ダイジェスト
九曜巴
(桓武平氏良文流)


 上田長尾氏は、越後守護代長尾氏の一族で、上杉氏に属して越後守護代となった長尾景廉の嫡子新左衛門尉某の後裔にあたる。代々坂戸城にあって、戦国時代に至った。『古代氏族系譜集成』にみえる「長尾氏系図」には新左衛門尉の弟にあたる豊前守景春の子孫となっているが、おそらく、新左衛門尉某の後裔とするのが妥当と考えられる。
 新左衛門尉某以後、戦国時代にあらわれる房長までの事跡は明確ではない。ただ、越後守護上杉氏というよりは、関東管領上杉氏に近い立場をとっていたようで、そのことが越後守護代府中長尾氏と対立関係を生むことになり、戦国時代には守護代長尾氏とたびたび戦いを繰り広げている。
 越後守護は代々上杉氏が世襲し、それを守護代長尾氏が補佐した。しかし守護代の長尾為景は永正四年(1507)ときの守護上杉房能に対して、謀叛を企てた。房能の養子定実を擁して挙兵した為景はたちまちのうちに守護勢を敗り房能を討ち取るという下剋上をなしたのである。この永正の乱によって越後の戦国時代が幕開けされたとするのが定説である。
 その後、房能の兄にあたる関東管領上杉顕定が越後に進攻し、敗れた為景・定実は越中に逃れたが態勢を立て直すと越後に軍を進め、顕定軍を敗って関東に逃れようとする顕定を討ち取った。以後、越後は定実を擁した為景が権勢を振るうようになる。この事態に際して定実は為景に抵抗を示し、実家の上条定憲・琵琶島城主の宇佐美房定らの協力を頼んで兵を挙げた。しかし、為景によってたちまち鎮圧され定実は幽閉の身となり、為景の権勢はさらに強固なものになった。

府中長尾氏との対立

 上条定憲は為景に敗れたもののその後も抵抗を止めず、虎視眈々と為景のすきを狙っていた。そして、享禄三年(1530)に至って「上条の乱」を起こした。この乱に、長尾一族の上田城主長尾房長は為景の統制強化に反発する揚北衆らとともに上条方に加担して為景に対抗した。
 上条定憲は揚北衆の結束を図り、さらに庄内の砂越氏維らに支援を依頼するなどして、為景勢の攻撃を受ける宇佐美救援に駆け付け、長尾房長も攻勢に転じた。上田勢は為景に対して激しい対抗意識を燃やして、為景方の下平ら数百人を五十沢口で討ち取り、上条勢とともに下倉山城を包囲し猛攻撃を仕掛けた。
 戦線は次第に為景方の不利へと推移し、天文五年四月、為景は上条勢を三分一原で迎え撃ち、数千人を討ち取るという大勝利をえた。しかし、この合戦の勝利も防衛を果たしたものに過ぎなかった。万事窮した為景は家督を嫡子の晴景に譲って隠退、その年の暮れに波乱の生涯を閉じた。
 長尾晴景は為景が幽閉していた定実をふたたび守護に迎え、揚北衆ら国人領主と和睦した。長尾房長も晴景の妹を嫡子政景に迎えて晴景と和睦した。このようにして内乱も次第に終熄していった。しかし、晴景に心服しない国人らの抵抗によって、ふたたび越後国内は戦乱が起り、晴景は弟の景虎(のちの上杉謙信)を栃尾城に入れて事態の収拾にあたろうとした。
 景虎は栃尾城にあって、よく対抗勢力を制圧しその武名をあげ多くの国人が景虎に心を寄せるようになり、ついには晴景に代わって景虎を国主にしようとする動きになったのである。以後、晴景と景虎派に分かれて内乱となり上田政景は晴景方に加担して景虎方と対立した。しかし、内乱を憂いた守護定実が調停に立ち晴景に隠退を進め、景虎に家督を譲らせたことで内乱は終熄した。
 長尾景虎が家督を相続したことで、苦境に追い込まれたのは政景であった。おそらく、政景は病弱の晴景に代わって守護代の地位を望んでいたと思われ、景虎に対立した身の始末もつけようがなかった。さらに、妻の実弟である若い景虎を侮る気持ちもあり、政景は府内に対する自立的立場に固執を府中参勤もしなかった。しかし、政景は次第に頽勢に追い込まれ、ついに天文二十年、父房長とともに景虎に誓紙を出してその軍門に降ったのである。

上杉謙信の時代

 景虎は代々府中長尾氏に対立していた上田長尾氏を赦す気はなかったようだが、姉が政景の室であったことから、ついに政景を赦したものであろう。無条件降服した政景の所領は削減されて、宇佐美・平子氏などに与えられた。こうして、政景は景虎に仕えてその一武将となったのである。
 永禄二年、関東管領職となることが内定して上洛した景虎が帰国したとき、越後の諸将は景虎に太刀を献じてこれを祝賀した。この時の侍の序列は、「直太刀の衆」として上杉・長尾氏の一門、続いて「披露太刀ノ衆」とされる外様・譜代の国人、最後に「御馬廻年寄分ノ衆」とされる旗本幹部の順が付けられていた。そして、古志長尾景信は一門の筆頭にあり、上田長尾政景は国人衆の第七位におかれていた。政景は景虎にもっとも近い一族でありながら、一門ではなく国人衆のしかも七位に位置付けられていたのである。
 永禄七年(1564)、政景は宇佐見定満と野尻池で船遊び中に溺死した。一説に暗殺されたともいうが、景虎に仕えてからの政景は忠実にその軍役をつとめていることから、純粋に事故であり暗殺のことは後世の妄説であろう。政景の死によって子の顕景は上杉謙信の養子となり、最終的に謙信の家督を継いで豊臣大名となり、関ヶ原の敗戦によって米沢へ移り、近世米沢藩主上杉氏の祖となった。この意味では、上田長尾氏の血脈が近世に生き残ったといえよう。

・上田長尾氏

 

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