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白井長尾氏
九曜巴
(桓武平氏良文流)

 長尾氏の歴史への登場は、南北朝時代に山内上杉憲顕の有力家臣として活躍した長尾景忠に求められる。景忠は憲顕が越後・上野両国の守護に補任されると、その下で守護代を務め、越後・上野の両国に足場を築きあげ、この景忠の系統が上野長尾氏なった。
 上野長尾氏はのちに惣社長尾・白井長尾に分立し、それぞれ山内上杉氏の重臣として発展した。ところで、長尾氏と白井の結びつきはいつから始まったのであろうか。

長尾氏の白井入部

 『長尾正統系図』などには、鎌倉時代の康元元年(1256)に長尾景熈が「上州白井ノ庄ヲ賜リ、同年十一月十五日入部」とあり、これが長尾氏と白井の関係を示す初めとして広く流布している。
 白井長尾氏の長尾氏は鎌倉時代においては関東御家人ではなく、鎌倉将軍に迎えられた宗尊親王の関東下向に従った上杉重房に付き従って景熈が関東に下ったことに始まるとされている。そして上杉家臣となったもので、長尾景熈が「白井ノ庄ヲ賜リ」とあるのは、幕府から与えられたものではなく、上杉氏から与えられたものということになる。しかし、鎌倉時代における上杉氏の所領は丹波上杉庄が判然としてるばかりで、関東における所領についてはまったく不明である。
 また、鎌倉時代における上野国白井に白井河内守常忠という鎌倉御家人の存在が知られ、白井氏が白井に居館を営んでいたものと思われる。そして、室町時代の享徳四年(1455)に「白井保之内、白井三河入道跡同庶子知行分寺社共」が、古河公方足利成氏から岩松持国に与えられている。白井三河入道が白井河内守の後裔かどうかは分からないが、白井には鎌倉時代より白井を称する一族が存在していたのである。
 これらのことから、長尾氏が鎌倉時代に白井庄を賜ったとする説はうなづけないものといわざるを得ない。また、上野が山内上杉氏の分国となった南北朝時代のはじめに、長尾氏が白井に入ったとも考えられないようだ。
 白井は「白井保」ともあることから、国衙領であって荘園ではなかったようだ。南北朝時代に上野が山内上杉氏の分国となって以後、上杉氏の領国支配、国衙領掌握という流れの中で、惣社・白井を含む上野中央部が掌握された。そして、上杉氏の分国である越後への交通の要衝である白井を確保するために長尾氏が白井に配置されたものと思われる。それは、長尾氏が上野と越後に分立した貞治二年(1363)ごろではないかとされている。とはいえ長尾氏は、はじめ上野の国衙であった惣社に入り、のちに白井に移ったのだと考えられる。
 長尾氏が仕えた上杉氏は、憲顕以来、兄弟一族が分裂した形で分割相続する惣領制から嫡子単独相続方式への転換をはかった。そして、管領職についた憲顕の流れである山内上杉氏の系統が上杉一族のなかで優位を占め、山内上杉氏の家務を司ったのは鎌倉(足利)長尾氏であった。

白井長尾氏の台頭

 山内上杉憲定は応永十二年(1405)関東管領となり、鎌倉府における実力者として将軍義満と密接な関係にあった。憲定は山内上杉氏の権勢を確固たるものにし、それと同時に上野は山内上杉氏の分国として最も重要なところとなった。
 憲定のあとは犬懸上杉氏の氏憲(禅秀)が関東管領となり、公方持氏を補佐したが、応永二十三年(1416)、反公方持氏勢力を結集して乱を起こした。いわゆる「上杉禅秀の乱」で、一時鎌倉を制圧する勢いを見せたが、幕府の支援を得た公方方の攻勢に敗れて一族ともに自刃した。氏憲のあとの管領は山内憲基がつぎ、伊豆・上野両国の守護に任ぜられている。憲基は武蔵の守護でもあったから、山内上杉氏は三国の守護を兼帯していたことになる。そして、武蔵守護代は惣社長尾忠政が任じ、上野守護代は白井長尾景守が任じていた。景守の死後は、惣社長尾忠政の弟である長尾憲明が守護代となり、白井長尾氏の家督は鎌倉長尾氏から景仲が入って継いだ。
 禅秀の乱後、公方持氏は禅秀の与党を呵責なく討伐したため、禅秀党の諸将は持氏に反抗し関東各地に戦乱がつづいた。このころの管領は憲基の養子として家督を継いだ憲実であり、当初は持氏に従って常陸・下野の争乱の鎮圧に出陣した。やがて、持氏の行動は幕府から警戒されるようになり、次第に幕府と鎌倉府の間は対立関係へと発展していった。
 そのような情勢に対して、憲実は持氏に諫言を行ったが、聞き入れられるどころか返って持氏と憲実の対立は深刻となった。命の危険を感じた憲実は、永享十年(1438)、鎌倉長尾実景・大石重仲らのすすめで鎌倉から上野へ退去した。しかし、持氏はこれを反逆としてみずから兵を率いて武蔵府中に出陣したことで「永享の乱」が勃発した。乱は、幕府が上杉氏を支援したことで持氏方の敗北となり、捕らえられた持氏は将軍義教から自刃を命じられ鎌倉府は断絶した。
 鎌倉府が断絶したあと、憲実が事態の収拾にあたったが、永享十二年、日光に逃れていた持氏の遺児らが結城氏朝らに擁されて結城城で兵を挙げたのである。この「結城合戦」に際して幕府は、上杉清方を大将に命じ長尾景仲らも清方に従った。景仲は入間河原に陣を張り、そのまま武蔵にとどまった。そして、景仲は結城方の一色氏の軍と村岡河原において戦い、これを打ち破り、以後も武蔵にあって攻城軍の背後を固めた。攻城軍には、越後長尾氏・鎌倉長尾氏らが加わり、とくに越後長尾氏は落城に際して、春王丸・安王丸の遺児兄弟を捕らえる大功を立てた。

鎌倉錯乱

 「永享の乱」「結城合戦」と続いた関東の戦乱は、ひとまず終熄したとはいえ鎌倉府は倒壊し、京都では「嘉吉の乱」で将軍義教が殺害されるなど、室町幕府体制も衰退しつつあった。このようななか、関東の政治的中心に位置すべき存在は上杉氏であったが、憲実は隠居して弟の清方を名代として政務をとらせた。ここにおいて、山内家の主導権をにぎり実際の政務にあたったのは長尾氏であり、家宰を惣社長尾忠政が、武蔵守護代は景仲が務めていた。その後、景仲は忠政に代わって山内執事職も務めるようになった。
 宝徳元年(1449)、持氏の遺児のうち唯一残っていた永寿王丸が赦されて新公方となって鎌倉へ下向し、永寿王丸は成氏と名乗り鎌倉府が再興された。成氏を補佐する関東管領職には、上杉憲忠がつき政務を行った。しかし、成氏は父や兄に属して没落した者の子孫を取り立て側近に登用したため、それに反対する管領上杉氏と対立するようになった。
 当時、山内上杉氏では憲忠が若年であったため、長尾景仲が名代として政務一般を取り仕切り、景仲を長尾一族が助けて関東は事なきをえたという。一方、扇谷上杉氏の当主顕房も若年であったため、家務は執事の太田資清が代行していた。長尾景仲と太田資清の両人は「その頃関東の不双の案者なり」と称され、ともに才幹・武力にすぐれた実力者であった。そして、両人は成氏が結城氏や里見氏らを取り立てることを苦々しく見ていた。
 やがて、成氏を取巻く諸将と景仲・資清を取巻く勢力の衝突が起り、宝徳二年、景仲と資清は成氏を攻め「江ノ島合戦」が起った。事態は憲実の弟重方の斡旋で和議が成立したが、成氏の上杉氏に対する反感は決定的なものとなった。合戦後、成氏は長尾・太田に加担した者たちの所領を没収したため、成氏と両上杉氏の側近の対立に所領問題が加わり、成氏と上杉氏との対立は不可避のものとなっていった。そして、享徳三年(1454)、成氏が憲忠を謀殺したことで、「享徳の乱」が勃発した。
 ところで、白井長尾氏の居城は白井城として知られるが、白井城をはじめて築いたのが景仲で、それは結城合戦後の嘉吉元年(1441)から康正元年(1455)までの間のことであったと考えられている。山内上杉氏は越後上杉氏と結んで関東の争乱に当たり、白井の地は越後と関東の隘路口であり、上杉氏にとって最大の要地であった。上杉氏執事をつとめる長尾景仲にすれば、上杉氏の背後を固めるため白井城を築いたのであろう。

戦国への序奏

 享徳の乱に、上杉方の中核となって活躍したのは、長尾景仲と太田資清・資長(道灌)の父子であったが、景仲は乱の最中の寛正四年(1463)に七十六歳を一期として死去した。のちに白井を拠点として戦国大名に成長する白井長尾氏の基盤は、景仲の一代で築かれたといってよいだろう。景仲のあとは嫡子の景信が継ぎ、景信は山内家の家宰として房顕をよく補佐して公方勢力と対峙した。房顕が五十子の陣で死去すると、越後守護上杉房定の二男顕定を擁立するために奔走し、応仁元年(1467)、顕定を関東管領に任じることに成功した。その後も戦乱は止むことなく続き、景信は上杉方の中心として活躍した。
 白井長尾氏は景仲・景信の二代にわたって山内上杉氏の執事をつとめ、武蔵や上野の守護代もつとめたことで所領も多かった。さらに、在地武士との結びつきを強め、武蔵や上野の国人らを被官として組織し、山内上杉家中において屈指の勢力を築いていた。文明五年(1473)、景信が死去すると顕定は嫡子の景春をさしおいて、景信の弟で惣社長尾氏を継いでいた忠景を山内家執事職に任じたのである。景春は『鎌倉大草紙』に「長尾四郎左衛門尉景春ハ、長尾一家ノ大名ニシテ、有勢ノ者ナリ」と記されているように、景春は景信の後継ぎとして大きな勢力を有していた。上杉顕定としては、景信の死を好機として長尾景春の台頭を抑えるために忠景を執事に任じたのであろう。
 景春の一件に際して、太田道灌は顕定を諌めて景春は器量なきため執事職に就くことは及ばないが、父祖の功もあり景春を武蔵守護代に任じるように説いたが入れられず、それなら景春を誅伐すべきと主張したがそれも却下された。景春の器量のなさが、叔父忠景の山内家執事職就任となったのだが、執事職のことは顕定の意志もあったとはいえ山内家奉行によって決定されたようだ。奉行らは、白井長尾氏の勢力強大化を阻止しようとし、それに山内家分国である上野国内の武士たちの軋轢が加わったのである。
 いずれにしろ、景春は山内家執事にはなれなかった。白井長尾氏の勢力拡大は山内家執事職をつとめ、守護代として領国支配に関与することで築いたものだけに、景春はこの処置におおいに不満であり、山内上杉氏に叛して古河公方足利成氏と結んだのである。

長尾景春の乱

 主家への反逆を決意した景春は、国人たちの協力を求め、扇谷上杉氏の家宰である太田道灌にも決起を働きかけた。道灌は景春の誘いを拒絶し、上杉氏の五十子陣へ景春の逆意を知らせた。武蔵・上野・相模の被官や国人らを糾合する景春は、文明八年(1476)、道灌が駿河に出張した留守を狙って鉢形城を築き戦備を整えると、五十子陣の上杉顕定を襲撃する挙に出た。
 景春は翌年にも五十子陣を攻撃して、山内上杉顕定・扇谷上杉定正・長尾忠景を上野に追放した。景春党はにわかに活気づき、武蔵では石神井城主豊島氏、相模では溝呂木・越後・金子らの国人諸氏が景春に呼応して一斉に蜂起し、太田道灌の居城江戸城と上杉定正の河越城の線を絶った。
 当時、上杉定正は上野に在陣していたので、道灌は弟の資忠と上田上野介に河越城を守備させた。景春党の矢野兵庫介らは河越城を攻撃するために苦林へ出陣したが、勝原において資忠らに迎え撃たれ敗走した。一方、道灌は江古田で豊島氏を破り、豊島氏の逃げ込んだ石神井城を攻略し、着々と武蔵・相模の景春党を征圧していった。そして、上杉氏を五十子陣へ迎え入れ、さらに景春勢を用土原で破り鉢形城へ追い込んだ。
 景春は古河公方成氏に支援を求め、成氏は景春を支援して上野へ出兵すると上杉氏を側面からおびやかした。そこで、両上杉氏は古河公方と幕府の和解を仲介する条件を持ち出して、公方成氏との和平を画策した。景春はこの和平交渉を不承知であり、その後も上杉氏に反抗を続けた。これに対して扇谷上杉定正は浅羽へ出撃して景春を破り、さらに羽生を攻めて景春を成田へ追いやった。
 ついで、道灌は豊島氏の拠った小机城を落し、景春党の大石駿河守を降伏させ鉢形城の攻略を開始した。鉢形城を追われた景春はその後も各地を転戦して抵抗を続け、ふたたび古河公方成氏に取り入り幕府との和解の仲介を図った。このように、景春は上杉氏に徹底的に抗戦したが、文明十二年(1480)、景春の籠る日野城は上杉方の攻撃で陥落し、景春は古河公方のもとに走り、さしもの景春の乱も一応の終結をみた。
 この景春の乱は、いままでの鎌倉公方と関東管領の対決という図式ではなく、景春や道灌、あるいはその被官・国人といった在地勢力が活躍したことが特長的であった。このことは、下剋上の世相が顕在化してきたことを示し、古河公方や上杉氏といった旧勢力失墜の前兆となり、やがて新興勢力である後北条氏などの戦国大名が登場してくる契機の一つとなったのである。

時代の転変

 景春の乱において扇谷上杉氏の家宰、太田道真・道灌父子は、景春に与した豊島氏らを討伐するなど大活躍をした。その結果、道灌の名声はあがり、その声望と武略によって扇谷上杉氏は山内上杉氏を圧倒するまでになった。そのような状況に危惧を抱いた顕定は道灌のことを定正に讒言し、文明十八年(1486)、讒言を信じた定正は道灌を殺害してしまった。道灌の死後、山内・扇谷両上杉氏の対立が表面化し、やがて「長享の大乱」が勃発し、以後、両上杉氏の戦いが倦むことなく続き、関東は確実に戦国時代へと移り変わっていった。
 永正二年(1505)、二十年にわたった両上杉氏の争いは、扇谷朝良が顕定に降伏するという形で終結した。この間、景春は古河公方とともに扇谷に味方したが、公方が山内と和睦すると、相模の北条早雲と結んで扇谷朝良を支援した。しかし、両上杉氏が和睦したことで、上野・武蔵・相模における山内上杉氏の支配権は一応の回復をみた。両上杉氏の和睦は、台頭いちじるしい早雲を阻止するためであったともいわれるが、早雲はすでに伊豆・相模西部に地盤を確立していて、和睦は早雲にとって大きな脅威にはならなかった。
 両上杉氏の和睦後間もなく、越後に内乱が起こった。この内乱は、関東および山内上杉氏に大きな打撃を与えることになるのである。越後の名君と称され山内上杉氏を支援してきた房定は明応三年(1494)に死去し、そのあとを顕定の弟にあたる房能が継いだ。ところが、永正四年(1507)、守護代長尾為景が上条上杉定実を擁して房能を攻め、敗れた房能は関東に逃れようとしたところを捕捉され自害した。この報に接した顕定は、永正六年、関東の兵を率いて嗣子憲房とともに越後へ進攻した。
 越後へ出陣した顕定は、為景・定実と戦ってこれを越中に追って越後の支配にあたったが、翌年、態勢を立て直した為景・定実勢は蒲原津へ上陸し柏崎方面に進撃してきた。越後の国人の支援を得た為景勢は椎谷の戦いに顕定軍を破り、府中に迫る勢いをみせた。さらに関東では、北条早雲・長尾景春らが不穏な動きを見せており、六月に至ってついに顕定は関東への帰国を決した。しかし、上田長尾氏が為景方に転じたことで、上田庄長森原において追いすがる為景勢と合戦となり、敗れた顕定は高梨氏に討たれ憲房は上野へ逃れて白井城に入った。

越後の内乱

 顕定の越後出陣は北条早雲にとって好機となり、早雲は長尾景春と呼応し、古河公方政氏の子高基を味方に引き入れ両上杉氏と対立した。早雲は顕定・憲房父子の留守中の武蔵に侵入し、山内方の要害を攻略した。さらに永正七年六月、早雲は扇谷朝良の家臣上田政盛をして権現山に反旗をひるがえさせた。権現山は扇谷家の相模に対する防衛拠点であった。景春は上野へ出陣して相俣に陣を張り、越後への通路を扼して白井城の憲房と対陣した。七月、江戸城の上杉朝良は権現山を包囲し、憲房からは加勢として成田・渋江・藤田らが派遣され、両上杉氏の攻撃に権現山城は陥落した。
 憲房と対陣を続ける景春に対して、越後の為景は福王寺・山吉らを応援に派遣した。援軍を得た景春は福王寺らとともに、上野宮原で憲房の軍と戦いこれを打ち破った。こうして景春と早雲の両方から攻撃を受けて苦戦に陥った白井城の憲房は、幕府に応援を依頼したが、すでに幕府には関東の争乱に介入する力はなかった。
 ところで、山内家では顕定の遺言によって、古河公方政氏の弟が養子に入って関東管領となり顕実を名乗って鉢形城に拠った。顕定には憲房という養子がすでにあったが、顕実に山内家を継がせたのは、関東の情勢に対応するには古河公方と山内家が一体化する必要があると考えたものと思われる。しかし、山内家の実権は憲房が握っており、憲房は上野平井城に移って顕実と対立し山内家内部は分裂してしまった。
 憲房がいつごろ平井城に移ったのか正確な時日は分からないが、景春は白井城を回復し、越後方として白井城を保った。そして、永正八年には早雲に応じて武蔵に出撃して上杉勢と戦い、ついで、翌九年には駿河に赴いたことが知られる。やがて景春は早雲から必要とされなくなり、永正十一年(1514)八月に死んだと伝えられているが、その死去の場所については分からない。そのころ、長尾為景は越後一国の支配権を掌握しており、早雲は相模の大半をその手中に収めていた。
 景春は文明五年(1473)の叛逆以来、その死にいたるまで、四十年の長きにわたって山内家の対立勢力として終始した。はじめは古河公方と連係して行動し、ついで扇谷上杉氏、さらに早雲・為景と結んで山内家に拮抗したのであった。

山内上杉氏への復帰

 景春死後の白井長尾氏は、嫡子の景英が継ぎ「永正十一年伊玄(景春の法名)卒去の後、古河の御所の依命山内へ和談して出仕」と『白井長尾系図』にあるが、白井長尾氏が景春の死後ただちに山内家へ復帰したとは考えられない。
 白井長尾氏は、景春が顕定・憲房の越後出陣以来、越後の長尾為景と呼応して山内家と対抗し、白井から沼田にいたる三国街道を掌握して、為景の越後統一の背後を固めていた。景春死後も白井長尾氏は山内家から離反した状態をつづけ、為景と連繋することで白井を中心とする一地方領主として自己勢力の維持拡大に努めていた。そして、十六世紀の中ごろまで、白井・八崎・津久田・中山・尻高・川田など白井北部から西部を勢力範囲としていた。その勢力圏は、関東と日本海側を結ぶ三国街道を押さえることのできる地域であり、越後の長尾氏にしても山内家にしても白井長尾氏の存在は無視できないものであった。
 この勢力を背景として、白井長尾氏は越後の長尾氏と連係しながら、自己の地位を保持・拡大しようと計ったのである。このように、白井長尾氏は関東の諸豪族のなかではもっとも為景に接近した存在であった。そして、白井長尾と越後長尾は同名という点で結ばれた盟友の関係であり、それは、為景のもとでの府内・栖吉・上田の越後長尾三家の同盟につながるものであった。
 大永七年(1527)景英が死んで、その子の景誠があとを継いだ。ところが、翌享禄元年の正月(翌二年のことともいう)、景誠は家臣に殺害されてしまった。そこで、景誠の叔父である箕輪城主長野業政の働きで、惣社長尾氏から景房が迎えられて家督を継いだ。景房は惣社長尾顕忠の嫡男とされるが、年代的に疑問が残り、おそらく『平姓長尾系図』の記述から惣社左衛門こと顕景の子であろうと考えられる。
 白井長尾氏の家督相続の主導権を握った長野業政は、上州一揆の有力者として西上州に勢力を拡大し、山内上杉氏の実力者である両長尾氏に代わって山内家中の有力者に成長していたのである。そして、長野氏領と惣社長尾氏領とは境を接するようになり、長野氏は惣社長尾氏攻略をも目論んでいた。この事態に対して惣社長尾顕景は長尾為景と連合し、景誠の斡旋で山内家と和を結ぼうとした人物で、この顕景の子が白井長尾家を継いだことは、白井長尾氏と惣社長尾氏の関係の復旧も実現させたのである。
 その後、白井長尾景房は管領山内憲政より一字を賜って憲景と改め、景春の死後十四、五年を経て、白井長尾氏は山内家に復帰したのである。このとき、惣社長尾氏も山内家との関係を復旧したと考えられる。さらに、白井・惣社の両長尾氏が山内家に復帰した背景には、山内家と和睦した越後の長尾為景の意向も働いていたようだ。

後北条氏の勢力伸張

 早雲死後の後北条氏家督を継いだ氏綱は、大永四年(1524)に江戸城、翌年には岩付城を攻略して扇谷上杉氏の河越城を包囲する体制をとり、扇谷上杉氏もこれに対抗して両者の間で戦いが繰り返された。天文六年(1537)、扇谷朝興が死去すると氏綱はそれを好機として河越城を攻撃し、ついにこれを攻め落とした。以後、河越城は北条氏の武蔵進攻の前線基地となった。
 一方、山内上杉氏では内部抗争が続いていたが、享禄四年(1531)に憲政が家督を継いだ。この間、山内家の直臣である長尾三家も主家の内訌に際して、それぞれ分離・復帰を繰り返し、それがまた山内家の内部抗争を深刻化させていた。天文十一年ごろになると、山内憲政の活動が活発化してくる。そして、天文十四年、山内憲政は後北条氏の台頭を阻止するため今川・武田と同盟を結び、さらに扇谷上杉氏、古河公方にも連合を呼び掛けて、北条氏康を包囲する態勢を整えた。
 かくして、連合軍は北条綱成が守る河越城奪還を図って、河越城を包囲した。連合軍の兵力は八万ともいわれ、河越城の救援に向った氏康の率いる兵は八千であったが、天文十五年四月、氏康は上杉氏の陣を夜襲してこれを大破した。扇谷朝定は討死し、古河公方晴氏は古河に退き、憲政は平井城に逃れた。ここに、後北条氏は大きく飛躍し、山内氏ら伝統勢力は大きく後退した。しかし、山内氏の勢力がまったく崩壊したわけではなく、白井長尾・惣社長尾・長野・和田・小幡らの上野勢、太田・成田・深谷上杉らの武蔵勢は依然として山内方にあった。ところが憲政は家政を引き締めることはなく、山内家配下の諸将の結集をはかることもせず外征の道を選んだのである。
 天文十六年(1547)、憲政は信濃に出兵して武田軍と戦い散々な敗北を喫し、後北条氏に加えて武田氏をも敵にまわす結果となり、山内家の衰退は一層深まったのである。その後、山内氏を見限る被官が出てくるようになり、憲政は頽勢を挽回するため越後の長尾景虎に救援を依頼した。そして天文二十年、満を持していた氏康はいよいよ平井城攻めを開始した。上杉憲政は平井城を守り切ることができず、ついに天文二十一年正月、越後の長尾景虎を頼って関東から逃れ去った。
 『朝陽私史』によれば、憲政が越後に逃れたとき、惣社・白井の両長尾氏も従ったとある。また『白井長尾系図』には「白井領は越後へ通路自由成ニ依テ如是憲景忠節ヲナス」と、憲景が憲政の越後出奔を斡旋したとしている。たしかに白井は越後への通路を確保する位置にあったし、白井長尾氏は越後長尾氏と同盟関係にもあったことから、白井長尾憲景の努力があって憲政は越後に逃れることができたといえよう。

長尾景虎の越山

 憲政を越後に迎えた長尾景虎は、その依頼に応えて関東出兵の決意を固めた。景虎はまず天文二十一年(1552)七月、平子・庄田・宇佐美らの部将を上野へ出撃させた。これが、景虎軍の関東出陣の最初である。この後、景虎は武田信玄との三度にわたる川中島合戦などがあり、関東への出兵は思うにまかせられなかった。そして、永禄三年(1560)、常陸の佐竹義昭から関東の情勢がもたらされ、景虎の関東出陣を求めてきた。安房の里見氏も景虎の出陣があれば、後北条氏の侵略が止むと期待してその出陣を要請してきた。ここにおいて、景虎は関東出陣の腹を固め、上野・武蔵・下野の諸将に檄をとばした。九月上旬、憲政を擁した景虎はついに関東に兵を入れたのである。
 関東へ入った景虎は、北関東をたちまち平定して厩橋城に入り、そこで越年した。翌年の四月には関東の諸将を率いて小田原城を包囲・攻撃したが、攻略までには至らなかった。ついで鎌倉に入ると、鶴岡八幡宮において、上杉憲政から譲られた関東管領職の就任式を執り行った。このとき上杉名字も譲られ、長尾景虎改め上杉政虎(のち輝虎、さらに謙信と号す)と名乗った。
 この長尾景虎の関東出兵に際して、白井・惣社・足利の長尾三家は長尾一類としてただちに景虎軍に加わった。関東長尾氏は後北条氏の上野進出によって次第に自己の立場を失いつつあったため、つねに景虎と連絡をとり景虎の越山を要望していた。景虎が関東出陣において上野を基盤にできたのは、長尾三家の協力があったことが大きかった。そして、景虎と関東長尾三家との関係は、服属・臣従というものではなく同名長尾としての連合関係であり、少なくとも永禄三年の時点では盟友の関係にあった。
 永禄三年の越山のときに景虎が作成した『関東幕注文』には、「白井衆」「惣社衆」「足利衆」として三長尾家が記され、この時期の関東長尾三家を知る格好の史料となっている。
 『関東幕注文』の「白井衆」には、長尾孫四郎(憲景)「九ともへにほひすそこ」、外山民少輔「ききやう」、大森兵庫助「三かしわ」、神保兵庫助「立ニニ引りやう」、高山々城守(行重)「にほひかたくろ」、小林出羽守「にほひかた黒」、小嶋弥四郎「立ニニひきりやう」、三原田孫七郎「三のしろ」、上泉大炊助「かたはミ千鳥」ら、長尾憲景を筆頭に白井衆を形成する諸将の幕紋が記されている。

戦国時代の終焉

 永禄十二年、武田信玄の駿河進攻によって武田・後北条の同盟は破れ、北条氏康は上杉謙信との同盟を望んだ。憲景は太田資正とともにその不利を謙信に諌言したが、信玄が上野を席巻し、由良成繁や北条高広らが後北条方に通じた情勢は、謙信に講和成立を促したのである。他方、信玄は真田幸隆をして上杉と後北条の同盟に対する妨害行動を起させた。幸隆は吾妻川を両岸を進撃し、南岸を進んだ軍は柏原城を落し、北岸を進んだ軍は岩井堂を突破して杢川付近で南岸軍と合体して、館野遠堀で迎撃した長尾勢を破ると白井に迫った。真田勢の果敢な侵攻に、憲景は白井城を逃れて利根川を渡り八崎城に移った。その後、越相同盟がなったことで、幸隆は兵を岩櫃に撤収したため、憲景は白井城に復帰することができた。
 元亀四年(天正元年=1573)、信玄が死去すると、翌天正二年、謙信は徳川家康と協調して関東に出兵し、憲景もこれに参加して新田金山城を攻撃している。しかし、謙信の越山はこの年が最後となった。
 天正六年三月、上杉謙信が病没したことで上杉氏の勢力は上野から後退し、代わって武田・後北条両氏が上野を二分するに至った。このとき、憲景は武田氏に従い、同十年に織田信長の甲斐進攻によって武田氏が滅亡すると、上野国厩橋城に入った織田方の管領滝川一益に従った。ところが、同年六月、織田信長が本能寺の変で横死すると、滝川一益は北条氏と神流川で戦い敗れて上方に逃れ去った。
 ここに至って、上野はことごとく後北条氏が支配するところとなり憲景も後北条氏に属した。翌十一年憲景は死去し、二男の輝景が城主となった。このとき、人質として小田原にあった政景が返され、政景は八崎城主となって利根川以東の白井領を支配した。この処置に不満を抱いた大宝城代の牧父子が叛乱を起したため、北条氏直は由良国繁に命じて大宝城を政景に返させ、輝景のいる白井城には小田原から城代として南条山城守らが派遣された。
 天正十七年(1589)、輝景が病気のため隠居し政景が白井城主となった。そして、翌天正十八年、豊臣秀吉の小田原征伐の軍が起され、白井城には前田・上杉氏らが攻め寄せてきた。豊臣軍は数万騎と記録されている。厩橋城を落した上杉軍は利根川を遡って八崎の館を乗っ取り、鉄砲を撃ちかけてきた。さらに寄手は四の丸に火をかけ、三の丸を落したが、長尾勢は本丸を固守した。やがて夜になると、豊臣勢は一旦兵をひき、利家は政景に開城を迫った。ここにいたって政景も城兵の命を助けるため、翌日の朝、城を開け渡した。同年七月、北条氏は秀吉の降伏勧告を入れて小田原城をひらき、後北条氏は壊滅した。

白井長尾氏のその後

 白井城を開いたあとの政景は召人となり、加賀へ連行され、白井長尾家の重宝はことごとく散逸してしまった。その後、政景は流浪の身となっていたが、昔からの縁故で、上杉景勝の恩顧を受けその家臣となった。そのとき、政景を改めて景広を改めたという。
 二度にわたった大坂の陣に際しては、景勝に従って出陣、戦後は景勝の名代として駿府に参じ、家康に謁したと系図には記されている。こうして、南北朝期に家を興して以来、関東の戦乱に身を処してきた白井長尾氏の戦国時代は終わりを告げ、景広は寛永五年(1628)に死去したという。享年五十八歳、平穏な晩年であったといえよう。

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●白井長尾氏 ●総社長尾氏 ●足利長尾氏 ●越後長尾氏 ■桓武平氏長尾氏

●長尾氏の家紋─考察

■参考略系図
 


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