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那須氏
●一文字/十六葉菊に一文字
●藤原北家道長流/那須国造後裔?
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那須氏の出自は、藤原道長の曽孫資家(貞信)が奥州白河郡八溝山の賊を討った功で、下野国那須郡を賜わり同地に住したことから起こるとも、古代那須国造の末裔ともいう。また、相模山内首藤氏の一族とする説もある。いずれにしても平安末期から江戸時代初期まで、下野国那須郡内に勢力を保った。
はじめ須藤を称し、平安時代末期の資隆に至って那須を称したという。資隆の子が与一宗隆で、宗隆は源平合戦に際して源義経に従って出陣し、屋島における扇の的の功名により歴史に名を残した。建久四年(1193)孫にあたる光資のとき、源頼朝の那須野巻狩が行われ、その準備と経営の功績によって御家人の地位を得た。
戦国時代、那須氏の下には一族の芦野・福原・千本・伊王野氏や重臣の大関・大田原氏がいて、那須本家を加えて「那須七騎」と称された。そして那須七騎は、それぞれ独立性が強かったことでも知られている。
●那須七騎
那須氏はのちに勢力争いを演じる宇都宮氏や佐竹氏のように室町幕府から守護に任ぜられることはなく、守護代あるいは目代といった地位を確保していたようである。そして、鎌倉公方などの勢力の一翼をにないがら、鎌倉時代以来の名門武家としての意地を貫いて勢力を拡大した。
那須氏の分裂
南北朝時代には足利尊氏に属して活躍し、室町時代になると鎌倉公方足利氏に臣従して順調に発展を続け、政治的にも経済的にも守護大名に匹敵するほどの勢力を築きあげた。
ところで、南北朝統一後の関東の情勢は、関東公方と幕府の対立、鎌倉公方足利氏とその執事上杉氏との対立、さらに関東管領上杉氏一族の対立抗争、そして、これらと集合離散して権力闘争の渦を巻き起こした有力豪族の対立など、混迷の様相を深めるばかりであった。そのような関東争乱の発端となったのが「小山義政の乱」であった。小山氏は鎌倉以来の下野の名門として勢力を持っていたが鎌倉公方足利氏満に抵抗して滅亡した。その一連の戦いにおいて那須氏は公方方に与して戦功をたて、資氏の代になると、千葉・小山(中興)・長沼・結城・佐竹・宇都宮・小田の各氏と並んで、関東八家の一つに数えられるほどの存在となった。
しかし、応永年間(1394〜1428)に至って、資之と弟の沢村資重が対立し、資之の拠る福原城の上庄那須氏と資重が退去して拠った烏山城の下庄那須氏とに分裂した。この背景には、やがて「上杉禅秀の乱」へと発展する時代の変動と、それに連動して表面化した那須家臣団内部での勢力争いがあった。
応永二十三年(1416)、関東管領を務めていた上杉禅秀(氏憲)が、鎌倉公方足利持氏を討つべく挙兵した。この「上杉禅秀の乱」に際して、上那須資之は禅秀方に、下那須資重は持氏方に参じたことが知られている。そして、この禅秀の乱において両陣営に属して実際の戦闘集団となったのは、上総の本一揆、武蔵の北白旗一揆などと呼ばれる地縁結合的な武士集団であった。
この時代は、鎌倉・南北朝期の惣領制的な同族一揆は解体され、庶子の独立化が進み地域的な国人一揆が形成されてきたことが時代相の一特長であり、それが乱の打ち続く遠因ともなった。
関東の大乱
禅秀の乱後、関東公方足利持氏は禅秀方に加担した関東の守護や国人の追討を積極的に行った。特に北関東・東関東の諸豪族、たとえば千葉・小栗・佐竹一族の山入、宇都宮・大掾氏らの討伐のために兵を動かした。那須氏も反鎌倉府の立場にあって持氏勢に攻められた。しかし、これら諸豪族は「京都御扶持衆」が多かったため、持氏の追討行動はそのまま反幕府的行動につながっていった。
管領上杉憲実は持氏を諌めてきたが、ついに永享十年(1438)鎌倉を去り下野に下国した。持氏はこれを鎌倉府への叛乱として、憲実を討伐するため武蔵府中に出陣し戦端が開かれた。憲実は幕府に救援を頼み、将軍義教は上杉持房・朝倉孝景・土岐持益らを援軍として出陣させた。結果は、持氏方についていた国人たちがつぎつぎと幕府方に寝返ったため、敗れた持氏は捕えられ、翌年将軍義教の命で子の義久とともに自害させられ鎌倉府は滅亡した。これが、世にいわれる「永享の乱」である。
翌年、持氏の遺児安王丸・春王丸が下総の結城氏朝を頼って兵を挙げた。「結城合戦」であり、結城城に立て籠った安王丸・春王丸らは、幕府軍を迎え撃って一年余り抵抗を続けたが、嘉吉元年(1441)結城城は落城した。
関東に乱が連続して発生した背景には、先述した通り武家社会の惣領制崩壊が大きな要因となっていた。関東の地、なかでも上野・武蔵は支配者層の交替が多かったため、惣領制の崩壊も他地域より早く進行し、国人一揆の発生も早かった。そして、力を付けた国人領主層と惣領家・守護豪族との対立抗争が、そのまま鎌倉公方と関東管領との反目などに結び付き、関東の地に乱が続発したのであった。
このような社会情勢の変化は下剋上の風潮を生みだし、その風潮は那須氏にも波及してきて、ついには那須氏の分裂という事態にいたったのである。
上下那須氏の統一
那須氏が上下に分裂して約百年を経た十六世紀の初め、上那須氏は家督相続をめぐる内紛がもとで滅亡するという事件が起こった。
上那須の資氏(資親)には男子がなかったため、白河結城義永の二男資永を婿養子に迎えた。ところが、のちに実子資久が生まれたため資永を廃して、資久に家を継がせたいと思うようになった。『那須記』によれば、資親は実子資久に家督を継がせたいということを、大田原父子に遺言したという。それにより、大田原備前守は資永を討つことにし、この策謀に大関・芦野・井王野氏らが同調したとある。
大田原氏らの策謀を察した資永も対策を講じ、実家の白河結城氏に援軍を頼んだが間に合わず、ついに永正十一年(1514)資久を擁する大田原勢が資永の拠る福原城に攻め寄せた。両軍激しい攻防を繰り返したが、資永軍の必死の防戦によって勝敗は一日で決しなかった。その夜一計を案じた資永方は、資久を奪い取る奇策に出て、山田城から資久を奪取することに成功した。そして、福原城において資久を切ると資永は自刃し、翌日、大田原氏らの攻撃によって福原城は落城した。
大田原勢は資永を討ち取ったものの幼主資久をも失う結果となり、上那須氏は断絶し滅亡ということになった。その結果、下那須家の資房が後を継いで両家を統一、上下那須氏は百年ぶりに統一されたのである。
資房は宇都宮氏の介入を排除し、大田原氏・大関氏ら上那須衆を支配下におくことに成功した。そして、千本氏や興野氏らを従えて山田城に入城し統一那須氏の主となり、那須氏は戦国大名として飛躍する礎を得たのである。以後、資房は戦国大名として近隣の諸大名と争うことになる。永正十七年(1520)、結城義永(一説に顕頼)と岩城常隆の連合軍が那須に侵入したが、資房は山田城と縄釣台の二ケ所で那須郡の諸将を率いて連合軍を打ち破った。翌年には、上川井城籠城戦を演じている。
那須氏の内紛、近隣諸豪との抗争
資房の死後、家督をめぐって家中に内紛が生じ、資房の子政資と孫高資が対陣するということもあった。のちに家を継いだ高資は小田原北条氏と意を通じたことから、天文十七年(1548)後北条氏と敵対する宇都宮尚綱が進攻してきた。尚綱は古河公方足利晴氏と結んで、那須氏領の西端喜連川五月女坂に攻め入ったのである。
この戦いは、宇都宮勢二千余騎に対して那須氏は三百余騎であり、少数の那須氏が圧倒的に不利な状況であったが、那須勢は善戦して宇都宮尚綱を討ち取る大勝利を得た。「五月女坂の戦い」と呼ばれる合戦で、高資はこの勝利によって那須氏の力を内外に示し、所領も塩谷郡の東部にまで拡大し戦国大名として飛躍する端緒を掴んだのである。
ところが天文二十年、那須家の主導権を握ろうとする大田原綱清と父尚綱を討たれた宇都宮広綱の謀略で、高資は千本城において謀殺されるという一大事件が起こった。高資は岩城氏の娘を母としていたが、弟資胤・資安らは大田原氏の娘を母としていた。綱清は何とかして那須宗家を資胤に継がせ、外戚の地位を得ることで、那須氏の主導権を握ろうとしていた。それが、父尚綱の復仇を図っていた宇都宮尚綱に利用され、高資暗殺事件につながったのである。
戦国乱世とはいえ何とも悲惨な事件であり、下剋上が烏山の地にも横行していたことを如実に示す事件であった。名将の資質をもっていた高資を失ったことは那須氏にとって痛恨事であったが、事件後、那須氏の重臣たちが相談の結果、大田原氏の筋書通り資胤が家督を継いだ。以後、那須家の歴史は大田原氏を中心に動くようになったといっても過言ではない。
領国支配の確立へ
高資が殺されたあと、烏山城主となった異母弟資胤は、永禄三年(1560)、奥州小田倉で葦名盛氏と戦ったが那須勢の結束が弱く苦戦した。一時は大将資胤が負傷して自殺しようとするほどに敗色濃厚となったが、那須下庄の森田・千本氏らの来援によって奥羽軍を撃退できた。戦後、資胤は小田倉の戦いにおける苦戦は大関高増の策謀であると決めつけ、高増を除こうと謀った。これが露見して、大関・大田原氏ら上那須衆は常陸の佐竹氏に走り、上那須の諸将は資胤に敵対するようになった。
上那須の大関・大田原氏は資胤にとっては近い親族であり、かれらは、那須氏の動向を左右する力を持ち、主家の那須氏を滅ぼすことも考えていたようだ。それが、小田倉の戦いにおいて顕われ、資胤の怒りをかったものと思われる。加えて、那須氏一族の分裂を意図した佐竹氏の策謀が上那須衆のなかに伸びていたこともあったろう。資胤と敵対した上那須衆は資胤兄弟を討ち、佐竹氏から養子を迎えようと策謀して、佐竹氏を後楯に永禄六年(1563)兵を挙げた。以後、数度の合戦が行われ、那須氏は最大の危機に直面した。
永禄九年になると、上那須衆を中心とする佐竹勢、それに呼応した宇都宮勢などが神長村治部内山に来攻してきた。烏山勢は必死の戦いを展開し一進一退を繰り返したが、ついに敵将東政義を取り囲み、政義が降伏したことで来攻軍は統制を失い退散した。また、この合戦に際して上那須衆の歩調が乱れていたことも烏山勢にとって勝利につながった。
その後も、上那須衆は佐竹氏を頼んで資胤と対立した。永禄十年二月、「大崖山の戦い」では佐竹勢の猛攻の前に、那須勢は劣勢となったものの奇策をもって佐竹勢に大被害を与え、かろうじて佐竹勢を追い落した。敗れた佐竹軍は、四月、三たび烏山に侵攻し那珂川の東に布陣した。これに呼応した上那須衆は、烏山城の北から押し寄せ挟撃してきた。烏山城に籠城した資胤は、このときも奇策をもって防戦し、ついにこれを退散させることに成功した。
何度戦っても勝つことができない上那須衆に反省の色が見えはじめ、それと察した資胤の家臣興野義成が和睦交渉に乗り出し、ついに資胤と上那須衆との和解が成立した。こうして、那須氏は最大の危機を克服し、逆に家臣団の和合により、資胤・資晴父子は再び那須郡に君臨した。そして、積極的に他領への侵攻を行うようになり、那須氏の武名をますます上げることになる。
那須資晴の奮戦
元亀三年(1572)、千本常陸介の尽力によって那須氏と佐竹氏の和睦が成立し、資胤の女が佐竹義重の嫡子義宣の正室に迎えられた。ここに、那須氏と佐竹氏の戦いは一応の終結をみせた。しかし、天正二年(1574)に佐竹義重が白川領の赤館を攻めたとき、結城晴朝・葦名盛氏らと結んで白川義親を援けるために出陣し佐竹勢を破っている。ついで、同年の八月には陸奥寺山で、翌九月にはふたたび赤館に攻め寄せた佐竹勢を奥羽勢とともに撃退している。
このように、和睦したとはいえ天正期になると那須氏と佐竹氏は戦いを繰り返した。天正六年には佐竹軍の侵攻を受けて幕焼澤の戦いがあり、十年には資晴が武茂城の守綱・豊綱父子を攻撃した。武茂城攻めには資胤に替わって資晴が那須軍の大将として出陣したが、武茂軍の反撃にあって武茂城を攻略することはできなかった。
翌十一年には、佐竹・宇都宮連合軍が烏山に来襲し、資晴は千二百余人を動員してこれを迎え撃ったが、数にまさる佐竹勢が次第に優勢となり烏山城下に迫る勢いを示した。このとき、宇都宮勢に備えていた蘆野・大関勢が烏山に戻って佐竹勢にあたったため、ついに那須氏は佐竹勢を撃退することができた。これが、烏山川原表の合戦とよばれるものである。
天正十二年になると、那須氏は塩谷氏兄弟の内紛に介入して宇都宮氏領への侵攻を繰り返した。資晴は喜連川城主の塩谷孝信を援けて、川崎城主の塩谷義孝を支援する宇都宮国綱を攻撃したのである。那須氏にとって喜連川城は南方進攻における重要な拠点であり、宇都宮氏にしてみれば喜連川城の孝信を除くことで那須氏の勢力の後退を図った。宇都宮氏の応援を得た義孝が喜連川城を攻撃すると、資晴は援軍を送ったが佐竹氏が来攻するとの情報を得て兵を撤退したため、喜連川城は義孝勢に攻略されてしまった。翌年、資晴は喜連川城奪回を目指して出陣した。那須勢と塩谷軍とは薄葉原で対陣し、塩谷軍には芳賀高継・壬生義雄らが加勢に加わったため、両軍一進一退の激戦となったが勝敗は決せず双方兵を退いた。
資晴の代、関東は小田原北条氏や越後上杉氏らの強大な戦国大名を中心に集合離散が繰り返され、下野の中小大名も合戦に明け暮れた。資晴はこのような状況のなかで、東の佐竹、北の白河結城・葦名、南の宇都宮氏などの諸大名の間にあって絶えずその地位をおびやかされながらも戦乱を生き抜いた。那須勢は常に少数であったが、よく敵を撃退して古代以来の勇名を汚すことはなかった。特に、資晴は積極的に佐竹領や宇都宮領に侵攻して所領の拡大を図り、那須氏の武名を高めたのである。
時代の変転と那須氏の没落
このころ、中央政治は大きく変動をしていた。天正十年六月、天下統一を目前にしていた織田信長が京都本能寺において横死した。信長の覇業を継いだ羽柴(豊臣)秀吉は着実に天下統一を推進し、天正十三年(1585)には関白の位に昇進した。そして、天正十五年、島津氏を降して九州地方の平定を終えると、その矛先を東国に向けてきたのである。
天正十八年(1590)三月、秀吉は小田原の後北条氏、奥州の伊達氏など関東・東北の諸勢力を征伐するため京より軍を発した。ここに至って、関東の諸大名は後北条氏に与するか、天下統一を目指して着実に勢力を拡大する豊臣秀吉に恭順の意を表して従うか、二者択一を迫られることになった。烏山城主那須資晴は、代々、関東公方足利氏に臣従していたことで、足利氏が後北条氏に敵対していた関係上、上杉・後北条のどちらにもつかなかった。しかし、足利氏が衰えてからは、小田原北条氏と結んで勢力の維持を図ってきた。
秀吉は小田原城を包囲すると、東国の大名に参陣を呼びかけた。資晴はこの呼びかけに応ぜず、しかも、後北条方へも出陣することなく、静観の態度をとったのである。『那須譜見聞録』には、大関・大田原氏らは資晴に対して秀吉に参陣することを勧めたことがみえている。しかし、資晴はついに動かなかった。
なぜ、資晴は小田原に参陣しなかたのだろうか。資晴は生まれたときから成長するまで、父資胤とともに合戦に明け暮れた。その人生は絶えず厳しい現実に直面し、他人を容易に信じない剛直でゆるみのない気性の持ち主になっていたと思われる。そして、ここに至るまで、大田原・大関の言をいれよく領国の拡大につとめてきた。しかし、晴清の心の片隅には父祖が大田原・大関氏らに煮え湯を飲まされた思いもあって、大田原・大関氏らの進言を策謀と疑い、それには巻き込まれまいとする考えが潜んでいたのかも知れない。それとは別に、佐竹・葦名・宇都宮氏など周囲の情勢が悪化していたこともあって、烏山城を離れることができなかったとも考えられる。
事実、資晴と秀吉との間には、小田原の陣の以前より書簡の往復があり、資晴は参陣のための通行に難儀しているとの訴えもしている。つまり、資晴は秀吉への拝謁を考えていたが、出立を伸ばし伸ばししているうちに小田原城が落ちてしまい、その機を逸してしまったのであろう。
再起、そして滅亡
かくして、小田原城は七月開城し、北条氏政・氏照兄弟は切腹して果て、後北条氏は滅亡した。小田原落城後、秀吉は「奥州仕置」のため会津黒川に下る途中、小山に着いたとき資晴は初めて秀吉に謁したのである。しかし、時すでに遅く、小田原の陣への遅参を理由に所領八万石は収公となり、烏山を改易となった。仕置の定まったのち資晴は旧領福原に退いたが、その悲運に同情した家臣達の取りなしによって、その子の資景が大名に復帰することがかなった。しかし、江戸時代に入った貞享四年(1687)、後嗣問題から改易処分となり那須氏は滅亡したのである。
いずれにしろ、資晴が改易された時点で、古代以来、那須の領主として名実ともに那須に君臨した那須氏の威信はまったく地に落ちてしまった。以後の歴史は、那須氏にとっては余滴に過ぎなかったといえよう。
ところで、那須七騎のうち、大田原・大関らは主家那須氏に先だって小田原に参陣したことから、豊臣大名となり近世大名として存続した。また、那須氏一族の芦野・福原・千本・伊王野の各氏も、大名には成りえなかったがそれぞれ徳川旗本として存続した。(伊王野氏は江戸時代初期に嗣子なくして断絶)。・2005年4月13日
・家紋:近世那須氏が用いた十六葉菊に一文字紋
【参考資料:烏山町史/栃木県史/東国大名の研究/戦国期北関東の地域権力/那須氏の研究(長内光弘氏)/
戦国期東国の権力構造/栃木県歴史人物事典ほか】
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