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蘆野氏
●一文字に右巴
●藤原北家那須氏流


 蘆野(芦野)氏は、戦国大名那須氏の一族で、那須資忠の四男資方が芦野三郎を称して蘆野氏の祖となった。代々那須氏に重臣として仕え、那須七騎の一つに数えられた。
 那須氏は十五世紀に上那須氏と下那須氏に分裂したが、十六世紀の初頭に上那須氏は家督相続をめぐる内紛が原因で滅亡にいたった。大田原氏の暗躍によって、当主が相次いで死去してしまい家を継ぐ者が絶えてしまったのである。蘆野・伊王野・佐久山氏らの上那須衆は大田原氏に加担して、上那須氏の滅亡に一役かっている。上那須氏滅亡後、下那須資房が上下那須氏を統一し、那須氏は戦国大名への端緒を開くことができた。しかし、那須氏が統一されたとはいえ、上那須衆は那須氏に帰服したわけではなく、佐竹氏と結ぶなどして那須氏に抵抗を繰り返した。
 永禄十年(1567)、蘆野・伊王野・大田原・大関・金丸らの上那須衆は佐竹氏を恃んで烏山に来襲した。南下した上那須衆は、大桶の大俵三河守を蹴散らすと興野川を渡り、大崖山で佐竹勢と合流した。対する烏山の資胤・資晴父子は下那須の家臣を動員してこれを迎え撃ち、奇策をもって佐竹勢に大打撃を与え、上那須・佐竹勢は撃退された。敗れた佐竹勢は二ヶ月後に、ふたたび来襲し、これに上那須勢も加担したが、この戦いも那須勢によって退散させられている。
 何度、戦っても勝つことができない上那須勢は、那須氏の重臣興野弥左衛門の調停をいれて那須氏と和解した。以後、蘆野・伊王野・大田原・大関氏らの上那須勢は、戦国大名那須氏の一翼を担って戦国争乱のなかを生き抜いていくことになる。


那須七騎の雄、蘆野氏

 戦国時代の資興は、伝によれば太田道灌に軍法を学び、和歌の道にも通じた文武兼備の将といわれ、戦場に出るごとに勝利を得ないことはなかったと伝えられる。築城術も身につけていたようで、芦野城は天文年間(1532〜1555)に資興が道灌の兵法に拠って築いたといわれている。
 天文十八年(1549)九月資興の子資豊は、那須高資が宇都宮俊(尚)綱と下野国五月女坂で合戦におよんだとき、高資に属して諸軍を指揮して奮戦、敵将宇都宮俊綱をはじめ三千余人を討ち取るという大勝利を得た。その後、上杉謙信が上野国に乱入したときは、古河公方足利義氏から援助を請う旨の書簡を得ている。これは、資豊の平生の武功を義氏が頼もしく感じていたことの証でもあろう。
 資豊の跡を継いだ資泰は、天文二十一年、結城義親の拠る白川城を攻撃して結城勢を討ち取った。その功に対して佐竹義昭から石川・川上の二ケ所を賞として与えられている。永禄四年(1561)、那須資胤が義親と戦ったときも、那須軍を指揮して義親勢を撃ち破った。
 天正期(1573〜)になると、那須氏と佐竹氏の戦いが続いた。天正六年には佐竹軍の侵攻を受けて幕焼澤の戦いがあり、十年には資晴が武茂城を攻撃、十一年には、佐竹・宇都宮連合軍が烏山に来襲し、資晴は大関氏と図って千二百余人を動員してこれを迎え撃った。蘆野氏は大関氏とともに宇都宮勢に当たるため熊田に出陣、残りの勢は烏山東の那珂川岸に陣を構え佐竹勢を迎撃した。激戦となったが、数にまさる佐竹勢が次第に優勢となり、烏山城下に迫る勢いを示した。
 宇都宮勢の来攻に備えていた蘆野・大関勢は宇都宮軍が来ないことを確かめると、急ぎ烏山に戻って佐竹勢にあたったため、佐竹勢はついに那珂川を渡って退散していった。これが、烏山川原表の合戦とよばれる戦いである。

近世に生き残る

 天正十二年になると、那須氏は宇都宮氏領への侵攻を繰り返した。これは、塩谷氏の内紛に対して、那須資晴と宇都宮国綱がそれぞれ介入したことによる。
 すなわち、川崎城主の塩谷義孝と喜連川城主の塩谷孝信は兄弟だったが、義孝は宇都宮氏から室を迎え、孝信は大関氏から室を迎えていたこともあって、双方、仲が悪かった。那須氏にとって喜連川城は南方進攻に際する重要な拠点であり、対する宇都宮氏は那須氏に味方する喜連川城の孝信を除くことを考えた。そこで、宇都宮氏は義孝を応援し喜連川城の攻撃をあおったのである。
 天正十二年(1584)、義孝の出陣に対して那須氏は援軍を送ったが、佐竹氏が来攻するとの情報があり兵を撤退せざるをえず、喜連川城は義孝勢に占領されてしまった。翌天正十三年三月、那須資晴は喜連川城奪回を目指して塩谷義孝の本拠川崎城攻略に出陣した。これに蘆野資泰も参陣し、那須勢と塩谷軍とは薄葉原で対陣した。両軍、激しい戦いとなり、資泰の男子盛泰は先鋒をつとめ敵勢を数多討ち取る軍功を挙げた。そのうち、塩谷軍には芳賀高継・壬生義雄らが加勢に加わったため、両軍一進一退となり、勝敗は決せず両軍兵を退いた。このように蘆野氏は那須氏の一族として、またその重臣として各地の戦場で戦い武名を挙げた。
 天正十八年(1590)の小田原の役に際して、蘆野盛泰は小田原に赴き豊臣秀吉に謁見し、「奥州仕置」の際は芦野に茶亭を構え諸軍を慰労するなどしたため、秀吉より腰刀及び黄金を与えられ所領を安堵された。太閤他界のときには孫六の刀を授けられている。一方、宗家那須家は小田原に遅参し、戦後、所領を没収されてしまった。
 盛泰の子政泰は、慶長四年(1599)上洛して豊臣秀頼に謁した。そして、翌五年には江戸で徳川家康に謁し、家康の仰せで弥左衛門と名を改めた。かくして蘆野氏は、芦野にて千百石を領し、のち千六百石を加増され二千七百石を領した。その子資泰の頃より代々采地に住して交代寄合となり、子孫封を継いで幕末に至った。・2005年4月19日


■参考略系図
 
 


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