垣屋氏
七 曜
(桓武平氏土屋氏流?)
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垣屋氏は但馬国の守護山名氏の重臣の一人で、戦国時代末期、山名氏を離れて秀吉に属し、豊臣大名の一人となった。垣屋は柿屋とも垣谷とも書くが、南北朝期に重教が主家山名氏に従って但馬国にきたのが始まりといわれ、元来、山名氏の執事的地位にあり但馬守護代に任じた。その家系に関しては異説が多く、伝えられた系図も異同が多い。
垣屋氏の出自
垣屋氏の系図は、『校補但馬考』に「因幡垣屋系図」「紀伊垣屋系図」が収められている。前者は、浦冨の桐山城主垣屋恒総の孫重政が関ヶ原合戦後因幡に帰農し、その子孫が作成したもので、桓武平氏を称している。後者は、同じ垣屋恒総の孫吉綱(光重)が紀州藩に仕え、その子孫が作成したものである。また、轟城主垣屋駿河守家の子孫は、江戸時代に至って龍野藩脇坂家に仕え、駿河守系の系図は「龍野垣屋系図」といわれ、本姓源氏で山名氏の支流としている。
これらのなかで、従来もっとも信頼がおかれ、但馬内の多くの史書に採用されているのが『因幡垣屋系図』である。ところが、この系図も含めて垣屋氏系図全部に共通していることは、第一級古文書史料上にみえる垣屋姓の人物の名前がほとんど見られないことである。これに対し、『校補但馬考』にも採用されていないもうひとつの「紀州垣屋系図」がある。こちらの系図に記されている人名は、文書史料上の名前とよく合致している。この系図は日高町の井垣寿一郎が、和歌山県に照会して入手したもので『但馬志料』に収められた。しかし、古代までさかのぼる系譜でなかったことから『校補但馬考』には採用されなかったといわれる。
垣屋氏は山名氏の支流ともいわれ、山名時氏に従って関東から移り住んだ山名氏譜代の家臣といわれてきた。しかし、山名時氏時代に垣屋氏の名前は表われてこない。それは、もともと垣屋氏は土屋姓だったからである。「土屋越中前司豊春寿像賛」は、天隠龍沢がしたためたものだが、そのなかで豊春について「人は垣屋と称するが、自らは土屋を号している。また源氏の山名氏に仕えているが、本姓は平氏なのだといっている」と記している。
土屋氏は、相模国大住郡土屋邑を本貫地とする関東の武門の名門の一つ土屋党である。垣屋氏は土屋氏分流のひとつで、時氏時代は土屋姓を称していたのだろう。ちなみに関東から山名時氏に従って、但馬に移り住んだ土屋党は垣屋氏だけではない。『明徳記』によれば、山名満幸の手に属して内野で討死した土屋党が五十三人もいたと記してある。
しかし、明徳二年(1391)明徳の乱にあたって、大部分は山名氏清・満幸に属したのに対し、時熙方に属したのは垣屋氏だけだったのだろう。その結果、明徳の乱を契機として垣屋氏は躍進を遂げることになった。それはひとえに垣屋弾正の勲功によるものであったことはいうまでもない。
明徳の乱のときの垣屋弾正の働きぶりについて『明徳記』では、
軍散テ後、宮内少輔(時熙)、御所(義満)ノ御陣ヘ馳参テ、大宮ノ合戦ノ次第共敵味方ノ振舞ヲアラアラ語リ申サレケレバ、御所モ快然ナル御気色ニテ、誠ニ柿屋ガ討タレタルカト御尋有ケレバ、其御事ニテ候、時熙八騎取籠ラレテ、己ニ討レント仕候処ヲ、柿屋・滑良馳塞テ二人ナガラトバカリ申シモアヘズ、涙ヲハラハラト流テ物ヲ申シ待ラズ」
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と述べている。柿屋弾正と滑良兵庫助は一命を捨てて山名時熙の危急を救ったのであった。乱後、時熙が柿屋弾正の子や孫たちを重用したことがうなづけるのである。
垣屋氏の台頭
柿屋(垣屋)弾正の息子は土屋遠江入道である。垣屋遠州とも呼ばれ、但馬守護代を務め、蓮華寺の古過去帳から諱は義遠だったことが知られる。二十四歳の若さで死亡したことになっており、義遠には越前守熙続・越中守熙知・駿河守豊茂という三人の息子がいた。この兄弟三人は越前守家が楽々前城、越中守家が宵田城、駿河守家が轟城と、それぞれ城を分かち持ち垣屋氏の勢力はおおいに伸張したのである。とはいうものの、それぞれの人物は当時の史料と一致せず、そのままには受け取れないものがある。
垣屋氏は但馬へ来てすぐに西気谷の三方郷に所領を与えられたようであるが、弾正の孫の代になると、所領は西気谷から竹野谷へと拡げられ、垣屋氏勢力扶植の基盤を確立したようだ。義遠の息子ら三兄弟のうち、長子熙続、二子熙知はともに主君山名時熙の偏諱を受けたもので、垣屋氏に対する時熙の信頼がいかに篤かったかを示すものである。
ともあれ、明徳の乱で但馬国衆は山名氏清方と山名時熈方に相分かれて戦った。その結果、執事の小林氏をはじめとして、山名氏家中の人的損害は大きく、時熈方は乱に勝ち残りはしたものの、家臣団の人材は乏しくなっていた。山名氏の建て直しを急務とする時熈にすれば、優秀な人材を求める気持は強かった。さらに、氏清方に味方した土屋氏、長氏、奈佐氏らは勢力を失い、山名氏家中に大きな逆転現象が起こった。そのような状況にあって、急速に頭角を現してきたのが、垣屋氏と太田垣氏であった。とくに、「応永の乱(1399)」における両氏の活躍が、その台頭に拍車をかけた。
応永の乱とは大内義弘が将軍義満に起こした叛乱で、これに関東公方らが加担して一大争乱となったものである。さらに、明徳の乱で没落した氏清らの一族も丹波で義弘に呼応した。時熙は丹波を平定、堺の合戦において被官の大田垣式部入道が目覚ましい活躍をみせ、乱後、但馬守護代に抜擢された。その後、時熙が備後守護に補任されると大田垣氏が守護代に任じられ、但馬守護代には垣屋氏が任じられた。こうして、垣屋氏・大田垣氏が山名氏の家中に重きをなし、さらに八木氏、田結庄氏を加えて山名四天王と称されるようになるのである。
播磨をめぐる赤松氏との抗争
文明十一年(1479)、因幡私部城に拠る毛利(森)次郎が挙兵。背景には山名氏と対立する赤松氏がおり、叛乱は他の国衆も加わって内乱の状況を呈した。政豊は将軍の制止を振り切って但馬に帰国すると因幡に出兵して叛乱を鎮圧した。ところが、翌年には伯耆国で南条下総入道らが守護山名政之から離反して一族の山名元之とその子小太郎を擁して挙兵、反乱は文明十三年におよんだが、垣屋・田総ら政豊方の軍勢によって鎮圧に成功した。
政豊は政則の介入を斥けるため、また、播磨・美作・備前の支配権の奪還を目指して、文明十五年、播磨に兵を進め
真弓峠の戦いで赤松政則を打ち破った。この戦いの先陣をつとめたのは、垣屋越前守豊遠で、雪になれない赤松勢を
圧倒、総崩れへと追い込んだ。坂本に逃げ帰った政則を山名勢は急追、進退窮まった政則は行方知れずになってしまった。
当時、備前福岡城において山名・松田勢と戦っていた赤松勢は城を捨てて播磨に脱出、備前・播磨は政豊の支配下に
入った。一方の赤松氏では浦上則宗が、没落した政則に代わって有馬氏を立てて主導権を握り、山名氏に抵抗した。
文明十七年(1485)、復権を企てる政則が播磨に舞い戻ると、播磨光明寺に陣を布き、垣屋一族が守る蔭木城を
急襲した。不意を討たれた蔭木城では防衛につとめたが、越前守豊遠 左衛門尉宗続父子、平右衛門尉孝知ら主立った
垣屋一族が討死して、山名方は散々な敗北を喫した。当時、播磨に駐留する山名軍は三万を擁し、対する政則勢は
六千余というものであった。坂本城にいた政豊は備前の戦いに気を取られていて、政則の行動を察知していなかった。
まったくの油断であった。
この戦いののち、赤松政則と浦上則宗が和睦したため、赤松方の勢力は結束を固め、兵力もにわかに増大した。
翌年正月、英賀の合戦に敗北、垣屋遠続らが戦死した。さらに四月、坂本の戦いにも敗北するなど山名氏の頽勢ぶりが
顕著なものとなった。この一連の敗北で、多くの犠牲を払ったのは播磨守護代の垣屋氏であり、垣屋氏と政豊の間は
円満を欠くようになっていった。
………
写真:書写坂本城址
守護山名氏の衰退
長享二年(1488)、坂本城下の戦いに敗れると、山名氏の結束はにわかに崩れ始めた。一方、連年の戦いに疲れた政豊は帰国を望むようになったが、多くの犠牲をはらった垣屋氏ら但馬国衆は播磨での戦闘継続を主張
政豊の嫡男俊豊も撤収に反対、俊豊の率いる備後衆は政豊を排して俊豊を擁立しようとする動きを示した。
そのようななか、政豊は坂本城を脱出して但馬に走った。かくして山名勢は総退却となり、赤松勢の追尾によって散々な結果となった。
但馬に逃げ帰った政豊に対して、但馬国衆はもとより備後国衆らまでが背を向けた。
大田垣氏や備後衆は俊豊を擁する動きをみせるなど山名氏は動揺 これに垣屋氏が同調しなかったため風前の灯火であった政豊の危機は危うく回避された。垣屋氏とすれば、播磨において多くの一族を失っている。いまだ、体制は万全ではなかったこと、さらに太田垣氏に同調すればその下風に立たされることになる、といった判断があって自重したのではなかろうか。
しかし、政豊と俊豊との確執はおさまることなく、明応二年(1493)、俊豊は政豊の拠る九日市城を攻撃した。
政豊はどうにか俊豊の攻撃をしのぎ、逆に俊豊方の塩冶・村上氏を打ち取る勝利をえた。明応四年、政豊は
九日市城から此隅山城に移り、翌年には俊豊を廃すると次男致豊に家督を譲り、備後守護も譲った。
政豊・俊豊父子の相克は、垣屋氏・大田垣氏ら被官衆への反銭知行権の恩給を濫発させた。反銭とは税金のひとつであり、徴収役は守護がもっていた。それを与えるということは、守護みずからの権益を失うことを意味し、
結果として垣屋氏・大田垣氏らの勢力の増大化を促す要因となった。この一事をみても、守護大名山名氏の衰退ぶりがうかがわれる。
但馬国衆の僭上
山名氏との対立、抗争は、垣屋氏にとってその存続を揺るがす脅威であり、
ひとつ誤れば滅亡にすらつながりかねないものであった。
明応八年、政豊が死去。致豊が家督を継承したが、すでに守護としての実力もなく、垣屋続成は山名氏をしのぐ勢力を築いていた。
永正元年(1505)、山名致豊は、垣屋続成に居城此隅山を攻められる。翌年、将軍足利義澄は致豊と垣屋氏との和与を勧告、永正五年、山名氏と垣屋氏の間に和議が成立した。この間の混乱によって、山名氏は衰退、戦国大名への道を閉ざすことになった。
ところで、明応二年、幕府内部の政争から細川政元がクーデタを起こし、敗れた管領畠山政長は自害、将軍義材は幽閉される事態となった。政元は将軍職に足利義澄を擁立すると政権を掌握した。前将軍義材は京を脱出すると、各地を流浪したすえに周防の大内義興に庇護された。やがて、細川氏に家督をめぐる争いが起こり、政元は澄之派の家臣に謀殺され、管領細川氏は家督をめぐる抗争で揺れ動いた。そこへ、前将軍義稙(義材改め)が義興に奉じられて上洛してきた。
続成は渋る致豊に上洛を勧め、将軍義稙との対面を実現した。そして、続成は義稙から毛氈の鞍覆・白傘袋・網代輿の
使用を許された。これは、大名としての地位を承認するものであり、垣屋氏は主家山名氏と同じく将軍直参の立場を
得たのであった。以後、垣屋氏の但馬における発言力はさらに強さを増すことになる。
永正八年、巻き返しをねらう阿波の細川澄元が三好元長とともに上洛、一時、義澄を奉じて京都を制圧下においた。丹波に走った将軍義稙らは体制を立て直すと京都に進攻、船岡山で澄元勢と激戦を展開、敗れた澄元は義澄とともに近江に奔った。この戦いに垣屋氏は、太田垣氏ら但馬衆とともに因幡守護山名軍の一翼をになって活躍した。
翌年、致豊は弟の誠豊に家督を譲ると出家してしまった。まだ三十代の若さであり、老け込む年ではないが、
垣屋氏ら家臣団の造反に心が折れたようだ。かくして垣屋氏は、八木・田公・田結庄ら但馬の有力国人衆らとともに
誠豊を擁立して但馬の領国経営の実権を握った。このころ、宗家の播磨守家は居城を鶴ケ峰城に移し、庶子家の
駿河守家は轟城に拠って垣屋一門は但馬の一大勢力となったのである。こうして、但馬は太田垣輝延・八木豊信・
田結庄是義ら四頭が割拠し山名四天王と呼ばれた。
………
写真:激戦が展開された船山城址の横堀跡
国外勢力の但馬侵攻
大永二年(1522)、誠豊は赤松政村と浦上村宗の抗争で混乱する播磨に出兵した。山名軍は播磨を席捲したが、政村と村宗が和睦して山名勢にあたってくると苦戦を強いられるようになった。翌年、坂本の戦いで敗れると、あっさりと播磨から撤退して被害を最小限にとどめている。しかし、山名氏の弱体化は深刻なものがあり、垣屋氏をはじめ太田垣・八木・田結庄氏らが自立の動きをみせ、但馬は四天王が割拠状態になった。それぞれ、垣屋氏は城崎郡 太田垣氏は朝来郡 八木氏は養父郡に勢力基盤を整えた。
幕府が政争に明け暮れているころ、大内氏の領国不在をいいことに出雲で勢力を拡大したのは尼子経久であった。出雲を統一した経久はその矛先を伯耆・因幡へと伸ばしてきた。敗れた伯耆山名氏は但馬の誠豊を頼ってきた。ところが因幡山名氏は自立を目論んで誠豊に対立、武力衝突へと発展した。そのような多難ななかの大永八年、誠豊が死去すると致豊の子で甥の祐豊が但馬守護になった。
祐豊は此隅山城を本拠に因幡進出を図り、天文年間(1532〜53)に弟豊定を因幡に派遣、豊定は天神山城に拠って因幡を支配下においた。しかし、垣屋氏をはじめ太田垣・八木氏らが自立し、領内の統制は十分に行われなかった。山名氏は但馬・因幡・伯耆に勢力を及ぼしながら、その前途は多難であった。その後、因幡では豊定の子豊数が有力国人武田氏の攻撃を受けて敗北、天神山城から退いた。その後、曲折を経て中務太夫豊国が因幡守護となった。
その間、西方の中国地方では尼子氏に代わって安芸の毛利氏が台頭、永禄九年、尼子氏は毛利氏の軍門に降った。それから二年後の永禄十一年、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛してきた。ここに、時代は大きな転換期を迎えた。山名氏をはじめ但馬の国衆は毛利・織田の両勢力に挟まれ、みずからの生き残りをかけて時代の荒波に翻弄され続けるのである。
永禄十二年、尼子氏残党を率いる山中鹿之助が尼子勝久を擁して但馬に入った。
毛利氏に脅威を感じる山名祐豊はかれらを迎え入れ、垣屋播磨守(光成)も祐豊の意を受けて援助の手を
差し伸べたようだ。そのころ、毛利氏の主力は九州に出陣中であり、山陰方面の動きに対処するため織田信長に
援助を依頼した。
毛利氏からの要請を入れた信長は羽柴秀吉を但馬に派遣 秀吉は十日のうちに十八城を落とすという
破竹の快進撃を示した。但馬勢の負けっぷりは、山名の本城此隅山城は落ちて祐豊は討死したとの噂が流れるほどで
あった。垣屋光成や田結庄氏らは秀吉に降ったようで本城の安堵を受けている。信長も但馬勢を徹底的に
討つこともなく、遠く堺に没落していた祐豊も信長に通じて但馬に復帰、新たに有子山城を築いて本城とした。
但馬を制圧した織田信長は、生野銀山を掌握すると、太田垣氏や垣屋氏らの発言力を封じて山名氏の弱体化を図ったようだ。これに対して、毛利氏の勢力がふたたび及ぶようになってくると、垣屋庶子家の駿河守豊続が毛利氏に通じて発言力を増すようになった。
………
写真:有子山城址
毛利氏と織田氏のせめぎあい
山名氏の支援を失った尼子勝久を擁する尼子旧臣団は毛利氏との間で戦いを繰り広げ、ついには出雲富田城に迫った。しかし、九州から毛利軍が戻ってくると苦戦い追い込まれ、永禄十三年(1570)、布部の戦いに敗れた。そして、毛利の吉川元春の攻勢で、出雲新山城を失った尼子勢は京都に逃れて織田信長を頼った。
天正元年(1573)、吉川元春が因幡に出陣、山名豊国は降伏、元春はさらに但馬をうかがった。この情勢に対して芦屋城主の塩冶周防守が元春に降伏、ついで山名祐豊、垣屋豊続・同播磨守、太田垣輝延らも毛利氏に降った。ほどなく元春が出雲に引き上げると、織田信長の後援をえた尼子勢が因幡に侵入、やがて鳥取城を奪取して拠点とした。この間、山名豊国は毛利氏に通じる姿勢を見せながら、尼子氏を密かに応援した。ところが、尼子氏の勢力が大きくなってくると、毛利氏を頼んで尼子氏を排除しようと画策した。
尼子氏の因幡侵攻を苦々しくみていた元春は、毛利氏に通じる国衆の多い但馬を押さえることで、尼子氏の動きを封じ込めようとした。但馬国衆にのなかで元春がもっとも信頼を寄せたのは垣屋豊続で、豊続は山名祐豊を説得、天正三年に芸但馬同盟が成立した。そして、吉川元春・小早川隆景らが率いる毛利軍が因幡に進攻、鳥取城を失った尼子勢は私部・鬼ヶ城に拠って抗戦した。但馬国衆では田結庄・宵田・西下の諸氏が尼子氏を支持した。宵田・西下は宵田城の垣屋越中守、西下楽々前城の垣屋播磨守に比定される。かれらは永禄十二年、羽柴秀吉が但馬に攻め入ったとき、秀吉に帰服して織田家に通じるようになっていたのであろう。また、垣屋播磨守は宗家という立場もあって、毛利方として活躍する駿河守豊続の下風に立つことを潔しとしない気持もあったのだろう。
かくして、天正三年の秋、野田合戦が起こった。田結庄是義が他出した隙を狙った垣屋豊続が鶴城を攻撃したのである。急をきいてかけ戻った是義と豊続軍は野田一帯で対戦、敗れた是義は自害した。この戦いに際して、楽々前城の垣屋播磨守らは田結庄氏を支援したようで、垣屋氏は毛利方と織田方に分かれて一族の対立は深刻化していた。
●定めなき抗争
元亀二年(1571)、氷上郡に侵攻して山垣城を攻めた山名祐豊は、逆に丹波黒井城主赤井直正の反撃に遭った。逃げ帰った祐豊は竹田城を攻略され、さらに、居城有子山城まで攻撃にさらされた。このとき、祐豊は信長に救援を求めたが、八方に敵を持つ信長には但馬に割く兵がなかった。
その後、信長は浅井・朝倉を滅ぼし、伊勢長島の一向一揆を制圧、天正三年の五月には長篠の合戦で甲斐武田家を撃破、同年八月には越前一向一揆を掃討、確実に周囲の敵を潰していった。その裏でみずからが擁立した将軍足利義昭との対立が決定的となり、丹波国衆の多くが義昭に味方して信長から離反していった。かくして、信長は山名氏、太田垣氏らの要請をいれて光秀に丹波攻めを命じた。また、毛利氏に対抗するため、播磨平定も企図して羽柴秀吉を播磨に進発させている。この織田信長の丹波攻め、播磨攻めに際し、毛利氏は因幡を撤退して信長の播磨攻めに対処せざるをえなくなった。
その間、但馬では祐豊ら織田党の勢力が強まっていき、毛利党の八木豊信は毛利軍の因幡・但馬出兵を要請した。そして、天正四年、因幡に出撃した毛利軍は尼子氏のよる鬼ヶ城を攻囲、力尽きた勝久ら尼子勢は京を目指して没落した。
織田軍の丹波攻め、播磨攻めが本格化していくと、但馬にも織田軍が侵攻した。かつて四天王の一人であった太田垣輝延は織田氏に属して、丹波攻めに参加していた。一方、毛利党の垣屋豊続・八木豊信らは吉川元春に但馬出陣を要請して事態の回復に躍起となった。しかし、毛利氏は播磨方面を重視して但馬への出兵はなかなか行われなかった。ついに、豊続は元春を訪ねて直談判を行い元春の決断を迫ったという。当時、豊続は轟城を本拠に竹野郡を押さえ、但馬国衆では最大の勢力をもっていた。こうして豊続の要請をいれた元春は但馬に出陣したが、伯耆の南条元続が毛利氏から離反、因幡の山名豊国も不穏な動きを見せており、さらに羽柴秀長が因幡・伯耆へ出兵するとの報も伝わった。元春が但馬からの撤退を決意したことで、豊続ら但馬の毛利党は後ろ盾を失うことになった。
すでに丹波は明智光秀によって平定され、播磨も三木城、英賀城、長水城などが落ちて織田軍に制圧するところとなった。そして天正八年、羽柴秀長を大将とする織田軍が但馬に進攻、竹田城主太田垣輝延を味方にすると、一気に山名氏の本城有子山城に迫った。祐豊は降服、子の氏政は逃亡、城に残った祐豊は落城の五日後に病没して山名嫡流は断絶した。
一方、主戦派の諸将は垣屋豊続を大将として城を出ると、気多郡水生城によって織田軍を迎え撃った。しかし、
織田軍の猛攻撃を支えきれず降参、脱出した豊続はなおも抵抗を続けた。やがて力尽き、宮部善祥坊の降服勧告を入れて
降参、善祥坊の家臣となったという。
………
写真:豊続が本城とした轟城址
戦国時代の終焉
ところで、垣屋氏を戦国大名に押し上げた続成のあとを継いだのは光成とするものが多いが、
両者の活動時期をみると親子とするのには無理があるようだ。宿南保氏は両者の間に続貫という人物を入れて、
続成-続貫-光成と家督をつないだとされている。人名はともかくとして、世代数としてはうなづけるものである。
諸本ある垣屋氏の系図をみると共通した疑問を感じる。というのは、勢力を拡大したころより
主家山名氏から偏諱を受けていないのだ。それは、ともに重臣であった太田垣氏、八木氏にもいえることで
山名四天の自立性を語るものなのか、それぞれの系図がやはり真を伝えていないのか、おおいに気になるところである。
さて、秀吉に降った光成は、八木氏らとともに塩冶周防守の籠る芦屋城攻めに参加、そののち浦富の桐山城に
封じられた。ほどなく、鳥取城攻めに嫡男の恒総とともに参加、落城後因幡国巨濃一万石を与えられ木山城に在城した。
天正十年、本能寺の変で織田信長が倒れると、羽柴秀吉が天下取りレースのトップに躍り出た。垣屋氏は秀吉に従って
天正十五年の九州征伐、同十八年の小田原の陣に従軍、文禄元年には朝鮮半島に出兵した。朝鮮出兵の直前に光成が病死、
恒総は父の葬儀を家臣に任せてみずからは九州へ旅立ち、朝鮮に渡海したという。すでに、垣屋氏は
かつてのように自立した存在ではなく、豊臣大名の一人として秀吉の命令に違うことはできなかった。
慶長五年(1600)、関が原の合戦が起こると、大坂城に着陣して西軍方として伏見城攻め、大津城攻めに働いた。
しかし、関が原の決戦で西軍が敗北、恒総は高野山に隠れたところ、垣屋は高野山に逃げ隠れているとの噂がたった。
ついに、検使が自害すべしとの命令を伝えてきたことで恒総は自刃、大名垣屋氏は断絶した。関東から遠く但馬に
遷り住んで二百有余年、一時は但馬を牛耳る勢いをみせたが、ついに乱世を乗り切ることはできなかった。
恒総の死後、城地は没収され、残された家臣は恒総内室や子供たちをつれて但馬に帰っていたという。
その後、恒総の孫吉綱のとき紀州徳川家に仕え、「紀伊垣屋系図」を後世に伝えた。また、そのまま
因幡で帰農した垣屋氏に伝えられたのが「因幡垣屋系図」だという。
一方、駿河守系の子孫にあたる家に伝えられた「高畑垣屋文書」が発見され、多くの新出文書が世に出た。そこには
駿河守家の系図が含まれているが、人名などそのままには信じられないものである。このように、
垣屋氏には少なからぬ文書、諸系図が伝来しているが、その歴史には不詳な部分が多く歴代の人名も判然としない。
没落した家の宿命とはいえ、まことに残念なことだ。
→ 垣屋氏家伝-旧版
【参考資料:兵庫県史・豊岡市史・日高町誌・新編岩美町誌・鳥取県史・但馬の中世史=宿南保氏著 ほか】
■参考略系図
・宿南保氏が考証された系図と「新編岩美町誌」に掲載された系図をもとに作成。
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本文にも書いたように、垣屋氏の系図は諸本伝わり、いずれも異同が少なくない。なかでも駿河守系垣屋氏の系図は不明な部分が多かった。上記に引用した宿南保氏の示された系図は受領名に対して、宿南氏が名を付けられたものという。兵庫県史の資料編の「高畑垣屋文書」に駿河守系の系図が含まれているが、それも、世代数など、他の垣屋系図と比較して若干多い感もある。また、この系図には但馬の諸豪であった田結庄・田公・太田垣氏などとの関係も記され、興味深い点も多いものである。以上に加えて、豊岡市史などに紹介されてきた垣屋氏系図をまとめたものを別にアップした。
●垣屋氏系図集成
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
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