戦国時代を歩く
垣屋豊続が拠った轟城址と界隈を歩く


轟城は山名四天王の筆頭垣屋氏の一族が拠った山城で、竹野町を貫流して日本海に注ぐ竹野川を天然の濠とする山上にあった。楽々前城城主垣屋播磨守隆国の三男国時が築城したといわれるが、国時は史料上にはみられず、最近の研究成果によって垣屋豊茂(聖忠)が築いたものとされている。文明一五年(1483)と延徳三年(1491)に、豊茂の子豊種が菩提寺である対岸の蓮華寺に田を寄進したことが知られる。
戦国時代末期の城主は垣屋豊続で、宗家を凌いで太田垣・八木氏らとともに但馬の有力国衆に成長、毛利氏と結んで織田氏に抵抗した。天正三年(1575)、織田方の田結庄是義を野田合戦で破り、勢おおいに振るった。しかし、天正八年に起こった羽柴秀吉の第二次但馬進攻に敗れ、以後、宗家とともに秀吉に従って鳥取城攻めに参陣している。関が原の合戦において、西軍に参加して滅亡した宗家とともに轟垣屋氏も没落したようだ。




●菩提寺-蓮華寺 ・蓮華寺本堂 ・本堂近くの巨大な五輪塔/端整な宝篋印塔 ・奥の院




●本堂から轟山を見る ・蓮花寺僧坊 ・蓮花寺傍らの山腹にある八幡宮 ・竹野川を隔てて轟城址を見る

→ 轟城址に登る


円通寺

轟城の北方すぐの須谷集落には山名氏の菩提寺であった臨済宗円通寺があり、境内の一角に山名時義・時熙の墓が残っている。寺の婦人によれば、両者の墓は古来の形式といわれ、石が積まれただけのまことに質素なつくりのものであった。円通寺はかつて三十五坊を数えたというが、いまは往時の名残を微かにとどめるばかりだ。他方、別名「紫陽花寺」としても知られ、シーズンには多くの観光客が訪れるという。



●円通寺の山門 ・質素な本堂 ・紫陽花に囲まれた本堂 ・山名時義・時熙の墓 ・本堂に見える山名氏の家紋


垣屋氏
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