菊地氏
並び鷹の羽
(藤原北家流) |
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菊池氏は肥後国菊池郡から興った名族で、「刀伊入冦」のときに太宰権出師藤原隆家を助けてともに戦った
大宰府官・藤原蔵規の後裔にあたる大宰少監藤原則隆を祖としている。
文永十一年(1274)の蒙古襲来に際して、菊池次郎武房が弟の赤星三郎有隆や
菊池八郎康成らを引き連れて出陣し大功があった。
弘安四年(1281)、再度の蒙古襲来にも武房を中心に菊池一族は博多に出陣、
奮戦して名をあげている。両役のことを活写した『蒙古襲来絵詞』の中には、
異国の敵に立ち向かっていく武房の旗印に「二枚並び鷹の羽」が描かれている。
→ 蒙古襲来絵詞の一コマ
鷹の大空を悠々と飛翔する姿は空の王者とよぶにふさわしいもので、「鷹=たか」は、
「高い」、「猛々しい」、「強い」と言った意味を有し、昔から武人は鷹をもってシンボルとしていた。
たとえば元日の節会や御即位の式などには、左右近衛の両陣に鷹の羽を掲げたといわれる。
さらに、中世の武官がかぶる武礼冠にも鷹の羽がさされていた。
『菊池系図』によれば、隆直のとき、それまでの日足紋を改めて鷹の羽紋に定めたとあり、
曾孫の能隆が文永二年(1272)の夏に鷹の羽を新しい紋にしたとある。
一方、『北肥戦記』には、初代とされる則隆が菊池川のほとりに住して、阿蘇の神の神託を得、
夢中に鷹の羽の幕紋を与えられたという。いずれも後世の伝承であり
真偽のほどは分からないが、肥後一宮で武神として知られた阿蘇社との関係から、
家の紋を鷹の羽に定めたと考えて間違いはないようだ。
菊池氏の伝を見るまでもなく、鷹の羽紋は阿蘇神社の神紋であり、
大宮司阿蘇家も代々「違い鷹羽」を家の紋としている。おそらく、菊池氏が在地領主として
勢力を培っていく過程で、肥後一国の農業開拓神で武神でもある阿蘇社を信仰するようになった。
そして、中世武家として戦場に赴くときの旗紋に、信仰をよせ阿蘇社る鷹羽紋を据え、
その加護と武運を願ったものであろう。
元弘の乱のとき、武房の孫武時は護良親王の令旨を奉じ、
阿蘇神社大宮司阿蘇惟直とともに鎮西深題北条英時を博多に攻めたが、
少弐・大友氏らの離反により敗死した。武時の遺志を継いだ武重は、
建武新政を経て南北朝時代になると無二の南朝方として活躍した。南北朝時代の歴史を記した
『太平記』には、菊池肥後守武重が鷹の羽紋をつけた旗を用いたことが記されている。
武重のあとを継いだ武光は征西将軍宮懐良親王を肥後の本城に迎え、
九州南朝方の中心として活躍した。武光は足利方の少弐氏と戦い、九州探題の
一色氏・斯波氏を破り、大宰府をおさえて九州南朝方の最盛期を現出したのである。
その陣中には、鷹の羽紋の軍旗が雄々しく翻っていたに違いない。
その後、菊地氏は肥後守護職に任じられ、応仁の乱のころに成立した『見聞諸家紋』には
菊地氏の並び鷹羽紋が収録されている。しかし、次第に家督をめぐる争いから
衰退の色を見せるようになり、豊後の大友氏が阿蘇氏・相良氏と結んで
菊池氏の家督争いに介入しはじめた。さらに家臣の反乱が度重なり、天文元年(1532)に
武包が陣没すると大友義長の二男義武が家督に迎えられ、
菊池氏は完全に大友氏の傘下に組み込まれてしまった。
菊池氏からは兵藤・西郷・合志・山鹿・村田・赤星・黒木・甲斐・城・志岐・栖本などの庶子家が分出し、
鷹の羽紋は肥後を中心として南九州一帯に広まった。また、南北朝の動乱、
戦国乱世のなかで菊池一族は全国に分散し、遠く東北に移住したという菊池氏は「菊 “地” 」に改め、
家紋は違い鷹羽を用いているという。他方、菊地一族を祀る菊地神社、
山鹿燈籠祭で知られる菊地氏ゆかりの山鹿神社も神紋は「並び鷹の羽」である。
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・掲載家紋 : 丸に一枚鷹の羽 / 違い鷹の羽 / 八つ日足
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[菊地一族家伝]
■菊地氏
■甲斐氏
■赤星氏
■城 氏
■志岐氏
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■米良氏
■肥前西郷氏
■三河西郷氏
■阿蘇氏
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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