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西郷氏
丸に一枚鷹の羽
(藤原姓菊池氏支族)


 九州の大族で、左近将監則隆を祖とする菊池氏の一族といわれる。すなわち、則隆の嫡系が菊池氏となり、二男藤太郎政隆は肥前国高来郡西郷に住して西郷氏を称した。その後裔忠昌の代にいたり、新羅三郎義光の後裔大内惟時の男信治を養子とした。これによって藤原姓から源姓に改めたと伝えている。
 信治から四代の孫盛正は三河国八名に移り住み、その地を西郷庄と名付けた。その後七代を経て正員が出た。正員は今川氏に属して、三河国西郷庄嵩山月谷城に拠った。亨禄二年五月、松平清康は三河国今橋城を攻落して、その勢力は日毎に高まっていった。この頃、正員は菅沼定盈の麾下に属して清康方となり、同三年九月清康が宇利城を攻めたときは、菅沼定盈・牧野貞成らと先陣を務めて功を上げている。しかしその後、松平家が清康の横死で凋落すると、再び今川氏の麾下に復している。

家康に仕える

 子の正勝は今川義元に仕えた。永禄三年、義元が桶狭間で戦死した後は、今川方に送っていた人質を捨てて徳川家康の麾下に参じた。以後、東三河の今川方の士菅沼定盈、田峰の菅沼法師、設楽貞道等を徳川方に転じさせることに成功、家康から感状を得ている。今川氏真はこれを知って、正勝からの人質孫四郎正好を吉田城下で串刺の刑に処している。
 永禄四年、月谷より中山の堂山に移り住んだ。のち家康より、中山の五本松に城郭を構えて守るべしとの命を受け、五本松に移った。同五年、今川氏の部将朝比奈泰長が不意に五本松に来攻、正勝らは必死の防戦をしたが、ついには嫡子元正とともに城に火を放って討死した。
 このとき二男の清員は人質として岡崎に在ったが、父・兄の討死の報を聞いて家康に援兵を乞い、五本松に出陣した。そして、今川軍を追い退け、本領の奪還に成功し、その始末を家康に報告したところ清員に本領を賜るとの言葉を得た。しかし、清員は兄元正の嫡子孫太郎義勝が幼弱でもあり、成人になるまでは清員が陣代たらんことを言上、家康はその志を嘉してそれを許したと伝える。
 永禄七年五月、今川氏真が武田信玄とともに一宮の砦を攻めた。このとき清員は菅沼定盈らと勝山の地で今川勢と戦い、敵方大泉某ら数人を討ちとった。その後も家康に従って各地を転戦、軍功をあげている。元亀二年三月武田氏の秋山伯耆守晴近が三河国竹広に出陣してきた。この戦に清員は菅沼定盈、設楽貞道らとともに防戦につとめ、秋山軍の侵攻を防いだ。しかし、この合戦において義勝が戦死。清員は陣代を辞して致仕した。

家員の宗家継承

 義勝の戦死に際して、男子はわずかに一歳。代わって清員の嫡子家員が宗家を継いだ。元亀三年十二月の三方ケ原の合戦には若年ながらも家康に従って出陣。家員は奮戦して家臣らも多く戦死、その身にも数創を負った。天正二年四月、武田家の山県昌景が攻めてきた。家員は諏訪郷大玉川に陣を敷いて山県軍を迎かえ撃った。菅沼定盈の加勢も得て、力戦ついには昌景を敗走させることに成功した。同三年の長篠の役には酒井忠次の手に属して鳶巣の砦に向かい、奮戦、砦を攻略した。この鳶巣砦の攻略が武田方敗戦の要因の一つとなったことは、よく知られているところだ。
 秀吉と徳川・織田連合軍が戦った小牧・長久手の戦では赤見の砦を守った。天正十八年の小田原征伐にも参陣、家康関東入国後、下総国千葉郡生実で五千石を与えられた。
 家員のあとは忠員が継ぎ、慶長五年の関ヶ原の合戦に参陣し、三成の居城佐和山落城のとき、石川康通・内藤信正とともに城受取の役を勤め、のち佐和山城を守衛した。後代安房の東条で一万石の大名にまで出世したが、寿員の代、職務怠慢のかどで所領半減、結局西郷氏は五千石の旗本として存続した。
 余談ながら、家員の母は、かれを生んだあと家康に召されて、秀忠.忠吉を生んだ。すなわち家康の側室「西郷の局」であったとも伝えられている。

●菊地氏の家紋─考察



■参考略系図


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