赤星氏
並び鷹羽
(藤原氏流菊池氏支族) |
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肥後国菊池郡赤星より起こる。菊池氏の一族。蒙古襲来のとき菊池有隆が奮戦、そのとき衣が血で赤い星のように染まった。ときの亀山帝が「汝の姿はまさに赤星の如し。菊池を改めて赤星と称せよ」と。この故事に因むとも伝えるが、これは家を飾るものであろう。
南北朝期は、西征宮懐良親王を奉じて九州南朝方の中心となった菊池武光に属して、各地の合戦に活躍したことが史料から窺われる。菊池氏が肥後の守護職を伝えてさかんな頃は、隈部・鹿子木・田島・木野氏と並んで五家老の一に数えられた。
文明十七年(1485)、菊池重朝は幕の平において敗北、菊池宗家の権威はいちじるしく低下した。そのあとを継いだ武能(のち能運)は若年であり、文亀二年、菊池一族の宇土為光が兵を挙げ隈府城を占領、武能は肥前島原に逃れた。城重峯・隈部重治らの菊池氏老臣は能運を助けて、文亀三年為光を自害に追いみ能運の守護職復帰に人力した。しかし、このときの戦傷がもとで能運は、翌永正元年(1504)わずか23歳で死去してしまった。
菊池の家督は、一族の政朝が継いだが城頼岑・隈部重治らの老臣は政朝の支持に積極的ではなかったようだ。これをみた阿蘇大宮司惟長が菊池の家督と守護職をねらって大友氏の支援を受け、菊池家臣団の支持を取り付ける工作を行い、政朝追放に成功。惟長は、名を菊池武経と改めて守護職を襲った。しかし、二年後武経は阿蘇氏に復帰、菊池一族の武包が家督となったが、往年の支配力復活はかなうべくもなく、大友義鑑の弟重治が菊池氏を継いだ。重治は義宗、ついで義武と名乗り隈部山城に入ったが、城・赤星・隈部ら菊池氏老臣の力が強い同地を嫌い、隈本に本拠を据え、「国中」ににらみをきかせた。以後、隈部の地は赤星氏が守ることになった。
やがて、義武は大友氏と争うようになり、天文五年(1536)守護職を追われ、八代の相良氏に身を寄せた。ここに菊池氏による肥後支配は終焉をむかえた。あとは、大友義鑑みずからが肥後守護職となったが、天文十九年(1550)の二階崩れの変で急死した。この混乱のなかで大友一族を統率したのが義鎮であった。以後、義鎮は九州北部に勢力を振るい、最盛期には六カ国を支配するまでにいたる。このころ赤星氏の名を、肥後国大友旗本大名の一員として『九州治乱記』のなかに見い出すことができる。
菊池氏没落のあとは、隈部城に拠る赤星氏が菊池氏のあとを継いだ形となった。永禄二年、赤星親家は龍造寺隆信に従う隈部親永と古閑川で合戦におよび敗れた。以後、肥後国は隈部氏が大いに勢力を振るうことになる。これをみた竜造寺隆信は肥後介入の好機と考え、隈部氏を支援、親家の子統家は親永に居城隈府城を攻められ、かなわず降りその身は追放処分となった。ここに肥後を拠点とした赤星氏は没落した。
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