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甲斐氏
●打違い鷹の羽/三つ巴
●藤原北家菊池氏流
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甲斐氏は元寇の役に活躍した菊池武房の子武本(武村とするものもある)に始まるという。武本は甥の時隆と菊池家の家督を争い、鎌倉の評定所で敗訴になったため、時隆を殺害して自害した。子の武村は甲斐国都留郡に逃れて住し、その子重村のとき鎌倉幕府が滅亡した。その後の争乱に際した重村は手兵を率いて足利尊氏に属し、尊氏とともに九州に下った。九州に入った重村は、故地甲斐国にちなんで甲斐を名乗り、武家方として行動した。
延元三年(1338)、大友氏の援軍とともに肥後へ進出したが、菊池武重に敗れて、日向に逃れた。その後、土持氏を頼り、ついで高千穂に移住して三田井氏に客分として遇され、日向鞍岡の地に土着したという。三田井氏は高千穂の未開の地を甲斐氏に開拓させたため、甲斐氏一族は日向北部に広まっていった。いまも、高千穂地方には甲斐姓が多く存在している。
阿蘇氏の内訌
甲斐氏が頭角を表わしたのは親宣のときで、そのきっかけとなったのは、阿蘇神宮の大宮司阿蘇氏の内訌であった。そして、親宣は高千穂の甲斐氏を代表する存在であった。
肥後の守護職は甲斐氏の宗家にあたる菊池氏が代々世襲してきたが、応仁の乱後の乱世のなかで一族の内訌、家臣らの下剋上に苦しめられ、次第に凋落に色を濃くしていた。一方、阿蘇氏は家臣団の組織化を進め、戦国大名として勢力を拡大していた。菊池氏の衰退をみた阿蘇大宮司惟長は、肥後守護職を望むようになり、豊後の大友義長と結んで菊池氏の家臣団に揺さぶりをかけた。これに応えた城・赤星・隈部氏らの菊池氏家臣二十二名は、永正二年(1505)、守護職にある菊池政隆を排斥して惟長を守護に迎える起請文を提出した。
とはいえ、政隆を応援する家臣もおり、惟長は大友義長の応援をえて肥後に侵攻、政隆を隈府城から追い払った。かくして、惟長は大宮司職を弟の惟豊に譲り、みずからは隈府城に乗り込み菊池武経と名乗って念願の肥後守護職についたのである。しかし、やがて守護とは名ばかりで大友氏の傀儡に過ぎないことを思い知らされ、家臣たちの統制も思うようにいかなかった。武経は次第に自暴自棄となり、驕慢な態度をみせるようになったため、家臣らも武経を疎んじるようになった。
大友氏からの圧迫と、家臣団の下剋上的傾向に嫌気のさした武経は、ついに永正八年、隈府城を逃げだして矢部にもどった。武経が去ったあと、菊池氏の重臣らはただちに菊池一族の武包を迎えて新守護としている。菊池氏の家督と肥後守護職は、大友氏や家臣らによって簡単に首のすげかえが行われる存在に過ぎなかったのである。
さて、武経は矢部に舞い戻ったものの、大宮司職にある弟の惟豊が実権を掌握しており、武経は居候の座に甘んじるしかなかった。やがて、武経は惟豊から大宮司職を奪還しようと思うようになった。これを察した惟豊は、惟長を攻めて矢部から追い払った。薩摩に走った惟長は島津氏の応援をえると、永正十年、矢部を攻撃してきた。敗れた惟豊は日向鞍岡に逃れ、さらに古賀の山中へと走った。以後、惟豊は日向に潜んで再起を図ったが、それを援けたのが甲斐親宣であった。
甲斐氏の台頭
惟豊を追った惟長は嫡男の惟前を大宮司につけると、みずからは万休斎と称して実権を掌握した。
永正十四年(1517)、惟豊は甲斐親宣とともに矢部を攻撃、惟長・惟前父子を薩摩に追い落した。こうして四年ぶりに大宮司職に復帰した惟豊は、内訌で荒廃した阿蘇氏の再建に乗り出した。とはいえ、惟長は薩摩に健在であり、惟豊は大友氏と結んで惟長=島津氏と対峙した。
惟豊は家臣団の再編成も行い、一連の争乱における論功行賞をおこなった。惟長に味方した者はことごとく罰せられ、勲功の第一は甲斐親宣とされて草部村の岩神城を与えた。さらに嫡男の親直は御船城主、次男の親成は勝山城主、三男親房は岩尾城代に任じられた。こうして、甲斐氏は阿蘇氏の譜代の家臣以上の厚遇を受け、阿蘇氏筆頭の重臣となったのである。
これには、譜代の家臣のなかに不満を持つ者もあったようだが、親宣の功はみなが認めるところであり、加えて親宣の政治力、武略が認められるにつれ、不平不満はおさまっていった。かくして、阿蘇惟豊は甲斐親宣を頂点とする家臣団を再編成、軍備を充実し、内政を整え、阿蘇氏は戦国大名として大きく前進をとげることができた。
一方、肥後守護職にあった武包は家臣の信望を失い、大友義鑑の弟重治(義武)が菊池氏に入って肥後守護職となった。永正十七年のことであり、大友氏は体よく菊池氏乗っ取りに成功したのである。菊池を追われた武包は小代氏を頼り旧臣を集めて、大永三年(1523)、小代山筒ヶ岳城で兵を挙げた。大友氏はただちに討伐軍を送り、これに阿蘇氏も応じ、甲斐親宣が岩神城から出動した。
敗れた武包は肥前高来に逃れ、その地で生涯を終えた。武包の死によって肥後菊池氏はまったく滅亡したといえよう。
甲斐宗運の活躍
親宣の死後、家督を継いで阿蘇家の筆頭家老として軍・政両面に手腕を発揮、主家一筋の忠節心によって阿蘇家を支え、その威勢を伸ばしたのが親直であった。親直は法号の宗運の名で知られている。
宗運は阿蘇惟豊・惟将の二代に仕えたが、阿蘇勢力を代表して大友氏と結び、隣国の相良義陽と盟約して外敵に当たるなど、ひたすら阿蘇家を守り、その舵を取り続けた。そのため、島津をして「宗運のいる限り、肥後への侵攻はできぬ」とまで言わしめた。
豊後大友氏は肥後支配のために、地理的にもそのなかに位置する阿蘇氏を勢力圏に確保する必要があり、阿蘇氏の内部で主導権をもつ宗運との関係を重視し、宗運もまた阿蘇氏内部での地位確立のために、大友氏の影響力を利用した。ところが、阿蘇家の後楯であった大友氏が天正六年(1578)、日向で島津氏と戦って大敗、多くの将兵を一挙に失いその威勢に陰りが見え出した。かくして、九州の勢力図は、薩摩の島津と肥前・筑後を掌握した龍造寺氏、それに斜陽の大友氏が絡むという鼎立状態となった。
天正七年、島津氏は肥後への侵攻を企図し、葦北・宇土方面に兵を入れて相良領を脅かした。相良義陽は宗運との盟約を守って島津軍と戦い、屈服しなかった。一方、肥後の国人領主たちは、大友氏を離れて、南進を図る龍造寺氏と北上する島津氏との間にあって揺れ動いていた。しかし、阿蘇家は義を守って大友氏への信義を変えなかった。翌八年三月、城・合志・隈部・鹿子木・名和氏ら反大友の城主たちは、連合して阿蘇家討滅の行動を起こそうとしていた。これを察知した宗運は、機先を制してかれらを撃滅するため隈本へ向かって出撃した。宗運は御船・甲佐・矢部・砥用・阿蘇・南郷・菅毛・小国などの兵八千を率いて北上・竹宮原に布陣した。
連合軍も宗運らの動きを知り、白川の渡河地点である旦過の瀬の北岸に陣を布いた。三月十七日の夜から雨となり、城・合志・隈部らの諸陣では、酒盛をはじめて油断しているという忍びの者から報告を得た。宗運は翌日の未明、配下の将兵に出撃渡河を命じ、軍勢は喚声をあげて水中に入ると敵陣に迫った。この大喚声で連合軍は狼狽し動揺した。川岸へ進んで阿蘇勢を向かえ撃った勢もあったが、たちまち討たれ、そのまま切り崩されて退却、その他の兵も蹴散らされて敗走し、宗運は散々に連合軍を破って大勝した。
・右図:甲斐氏の軍旗
島津氏との攻防
天正九年九月、肥後に侵攻した島津軍は相良方の重要拠点である水俣城を攻め落した。八代にいた相良義陽は、島津氏に和を乞い、葦北全部を割譲し、二子を人質に出すことで和議が成立した。
島津氏は、さらに肥後中央部への進出を図り、その途中にはだかる御船の甲斐宗運を破るため、降伏した相良義陽に島津の先陣として討伐を命じた。阿蘇攻めの先陣を命じられた義陽は、同年十二月、八百の勢を率いて八代城を出発した。義陽は阿蘇領との境にある姿婆神峠を越え、山崎村に侵入した。そして村内の響野原に本陣を置き、一隊は阿蘇氏の出城甲佐城と堅志田城に向かい、両城を攻め落とした。
これに対して宗運は、物見によって義陽が響野原に陣をとったことを聞くと「それは義陽の陣とは思えぬ、かれならば姿婆神から鬼沙川を渡らず糸石あたりに陣を布くはずだ」と言って、さらに物見に確かめさせたところ、まさしく相良義陽であった。宗運は「みずから死地を選んだとしか思えぬ」と言って、かつての盟友義陽の心中を思いやったという。
十二月二日の未明、鉄砲隊を先手として本隊を率い、敵に気付かれぬよう密かに迂回して間道を抜け粛々と響野原へ兵を進めた。決戦の日は小雨が降り、霧が立ちこめていたという。宗運は兵を二手に分けて挟撃するかたちで相良軍に襲いかかった。相良勢は霧のなかから突如沸き起こった喚声に仰天した。響野原はたちまち銃声が響きわたり、怒号を喚声のなかで、白刃が斬り交う修羅場と化した。やがて戦況は、宗運の奇襲戦法に応戦態勢が遅れた相良勢が崩れ、ついには大将相良義陽以下、三百余が戦死、相良勢は八代方面へ敗走した。宗運は義陽の首を見て涙して合掌した。心ならずも島津の命に従わざるを得なかった義陽の立場に同情し、義陽を哀悼してやまなかったと伝えられている。
合戦に勝利はしたものの、いままで島津の兵を御船領内に入れさせなかったのは、相良という壁があったためであった。いまその壁が壊れた以上、島津勢の侵入によって、阿蘇家もまた三年以内に滅びるだろうといって嘆息した。響野原の勝利は、阿蘇家滅亡への第一歩でもあったのだ。
宗運の死、甲斐氏の没落
この二年後、宗運は七十五歳で没した。甲斐氏は親宣・親直(宗運)の二代で、阿蘇氏家中にゆるぎない勢力を築き、ともに名将の名をえた。宗運は主家阿蘇氏の存亡を担って忠節を貫いたが、肉親の情愛が薄い人物であったようだ。二男の親正、三男宣成、四男直武らは宗運と意見があわず、日向の伊東氏に通じたことが発覚し、こととごく宗運の手によって討たれた。また、嫡男の親秀も宗運の逆鱗にふれ、あやうく成敗されかけたところを重臣らのとりなしで許されたということもあった。宗運の子らはそろって不肖の子供たちであった。
このような宗運に対して親秀の妻は、激しい憎しみを抱き、ついには娘に言い含めて宗運毒殺を図ったのである。母に言い含められた宗運の孫娘は、宗運を木山の温泉に招いた。宗運は孫娘の招待に喜んで木山を訪れ、孫娘がすすめる毒入茶をそれとは知らず飲み干して死去したという。
宗運は生前「鉾をおさめて、外城を捨てて民心を得て三年余りを防げば天下定まるであろう」と言って、兵を用いることを厳しく戒めた。しかし、宗運死後、家督を継いだ子の親秀(宗立)は父ほどの器量はなく、宗運の遺戒を破って島津の出城を攻め落としたため、たちまち島津軍の報復攻撃を受けて敗れ、宗運が主家のために営々として構えた阿蘇家二十四城は悉く奪われてしまった。宗運が言ったように。彼の死後、阿蘇家は三年を経ずして没落した。そして甲斐家もまた終わりを告げた。
その後、親秀は島津氏に属し、同十五年豊臣秀吉の九州再封の結果、本領を安堵された。そして、肥後の新領主として入部してきた佐々成政に属したが、同年一揆を起して敗れ殺された。こうして、甲斐氏の嫡流はまったく滅亡した。・2005年4月28日
●甲斐氏の家紋
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一本系図によれば、宗運は「違い鷹羽」を、父の親宣は「三つ巴」を用いたと記されている。
おそらく、甲斐氏は菊池一族として「鷹の羽」紋を用いていたが、高千穂氏の麾下にあったとき「三つ巴」を用い、
阿蘇氏の重臣となってより「違い鷹羽」を用いるようになったと思われる。ちなみに、
一族の敦昌の系は「並び鷹羽」を用いたと記されている。
【参考資料:矢部町史/肥後古記集覧/九州戦国の武将たち ほか】
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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そのすべての家紋画像をご覧ください!
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。
それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
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