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菊池氏
●並び鷹の羽
●藤原北家流
菊池氏は本来「日足」紋を用いていたが、阿蘇神社信仰からその神紋である鷹の羽を家紋とするようになったと伝えられる。『蒙古襲来絵詞』には、博多に出陣した菊池氏が登場し、「並び鷹の羽」を打った軍旗も描かれている。
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菊池氏は、肥後国菊池郡に住んでいた大宰少監藤原則隆から起こっている。この則隆の出自は、従来藤原隆家の子政則の後裔とされていた。しかし、最近になって政則は刀伊入冦のときに太宰権出師藤原隆家を助けてともに戦った大宰府官藤原蔵規(まさのり)のことであったことが明らかとなった。
つまり、大化のころの鞠智城、あるいはこれに属する菊池軍団によって勢力を得、菊池郡司でありながら、一族が多く大宰府の府官となった。すして、やがて藤原姓を称し、九世紀から十一世紀の前半にかけて宗家が有力府官として活躍したとするものである。これによれば、菊池氏は古代鞠智族の後裔で、いつのころか藤原氏との所縁をもって藤原姓を称するようになったということになる。
はじめのころ、菊池氏の本拠は菊池郡菊池村深川にあったが、のち武政のときに隈府に城を移した。源平の争乱期、肥後権守隆直が平家の横暴に対し挙兵、しかし平家の大軍に攻められ屈服、一族の多くはその後の壇の浦の合戦に平家と運命をともにした。
承久の変(1222)では、後鳥羽上皇方に加担して鎌倉幕府軍と戦い、一時、雌伏を余儀なくされた。その後、文永十一年(1274)の蒙古襲来に際して、武房が弟の赤星三郎有隆や菊池八郎康成らを引き連れて出陣し大功があった。また、弘安四年(1281)再度の蒙古襲来にも、武房を中心に菊池一族は博多に出陣、奮戦して名をあげている。
この両役における菊池一族の働きは、竹崎季長の『蒙古襲来絵詞』によって有名である。この両役で季長・有隆には恩賞があったが、武房には朝廷から甲冑を賜ったのみで、幕府からの行賞がなかったことから不満が募り、反北条へ傾斜していくこととなる。
・『蒙古襲来絵詞』に描かれた菊池氏の家紋
中世動乱のはじまり
元弘の乱のとき、武房の孫武時は後醍醐天皇の皇子護良親王の令旨を奉じ、阿蘇神社大宮司阿蘇惟直と鎮西深題北条英時を博多に攻めたが、少弐・大友氏らの離反により敗死した。このとき武時は、嫡子武重を招き菊池家の再興を諭して肥後へ返したという。その後、規矩高政を将とする討伐軍の攻撃を受け、阿蘇惟直とともに日向鞍岡山に潜伏した。
やがて足利高氏が後醍醐天皇方に転じて六波羅探題を落し、少弐・大友氏らが鎮西探題北条英時を討ち、鎌倉幕府が滅亡した。このとき、菊池武重はさきの痛手がいまだ癒えず参陣できなかった。
建武の中興が成ると武重は弟武村・武吉らとともに上京、後醍醐天皇に近侍し、肥後守に任じられ建武新政の武者所構成員の一人となった。建武二年(1335)、足利尊氏が新政に背くと、武重は新田義貞を大将とする討伐軍に加わり東下したが、討伐軍は箱根竹の下の戦いにおいて敗れて京に逃げ帰った。敗走する新政府軍を追って京に入った尊氏は、ほどなく北畠顕家・新田義貞・楠木正成らの反撃に敗れて九州に奔った。これを少弐頼尚が赤間関で出迎え、尊氏一行を宗像神社に案内した。
惣領武重の留守を守っていた弟の武敏は、阿蘇惟直とともに太宰府攻略の兵を進め、少弐貞経を有智山城に討ち取り、博多を占領した。武敏は兵を北上させると多々良浜に陣を布いた。武敏率いる宮方軍には阿蘇惟直・惟成兄弟、秋月種道、松浦党らが加わり、その兵力は尊氏勢を圧倒していた。戦いは激戦となり宮方有利に展開したが、時ならぬ北風が起こり宮方に向かって吹き付けた。戦局はにわかに宮方の不利となり、そこへ松浦党が尊氏方に転じたため菊池氏らは総崩れとなった。菊池武敏はわずかの兵を率いて退却したが、阿蘇惟直・惟成兄弟、秋月種道らはことごとく討死した。
この勝利によって頽勢を立て直した尊氏は九州を平定、一色範氏を鎮西管領(九州探題)として残すと、ふたたび京を目指して西上していった。尊氏軍は摂津湊川で楠木正成と一族を討ち、新田義貞を敗走させ、京都を制圧した。後醍醐天皇は吉野に奔って南朝を立て、尊氏は北朝を立てて足利幕府を開いた。かくして、以後、半世紀にわたる南北朝の動乱が続くことになる。この間、武重は囚われの身となっていたが、建武三年(1336)足利軍の囲みを逃れて菊池に帰った。
南朝の忠臣-菊池氏
武重の帰国によって九州の宮方はにわかに活気づき、翌建武四年、武重は寺尾野城に兵を挙げた。これに、阿蘇惟澄が応じ、さらに豊後の大友貞順、筑後の黒木・河崎氏らも兵をあげた。さきに武敏がたびたび兵をあげながら、結局、成功できなかったのは武敏が庶子であったため、一族や宮方諸氏に対して重みに欠けるところがあった。一方、武重は菊池の惣領であるとともに肥後守に任じられていたことから、宮方の統率者としての重みがおのずと備わっていたといえよう。
九州探題一色範氏は武重の行動を注視し、みずから兵を率いて肥後に侵攻した。武重は惟澄と連合して、これを益城郡犬塚原に迎かえ撃ち、範氏の弟頼行ほか武家方の有力部将を討ち取る勝利をえた。ついで、隣接する合志幸隆を竹迫に攻めたが、幸隆には武家方の援助があり戦況は不利に終わった。一方、尊氏は少弐頼尚を九州に帰して範氏を支援させ、延元三年(1338)、武家方は武重を攻めた。対する武重は筑後に進攻し、三月石垣山に戦い、十月再び筑後に進んだが、その後の消息は不明である。おそらく、このころ病を得て延元三年の暮れごろに死去したものとみられる。
武重のあとは弟の武士が継ぎ、それを武敏が後見したようだ。武敏が死去したのちは木野武茂が後見をつとめたようだが、興国五年(1344)の正月を境に武士・武茂ともに史料上から見えなくなる。代わって登場してくるのが武光である。惣領武士は武家方の圧迫を受け、一族の統率もままならず、惣領としての自信をもてなかったようで、兄弟一族のなかから「器用の人物」を選任されたいとして統制権を放棄するにいたったという。このことは、惣領制の崩壊に通じるものであり、九州宮方の中心をなす菊池一族は大きな危機に直面したのである。
ここに登場してくるのが豊田十郎武光で、武光は武重・武敏らの弟で、武士の兄にあたる人物であった。建武のころから益城の豊田荘に住して豊田十郎と名乗っていsた。興国四年(1343)阿蘇(恵良)惟澄の協力を得て、田口城に河尻幸俊や詫磨勢と戦ってこれを破り、菊池一門に頭角をあらわした。そして、その力量をもって庶子の身ながら、武士のあとを継いで菊池氏の惣領となったのである。
興国五年、武光は合志幸隆が占拠していた菊池本城を奪還、正平三年(1348)には、征西将軍宮懐良親王を肥後の本城に迎えて筑後に進出し、足利・一色・少弐氏ら武家方の内紛に乗じて九州全土に武威を奮うに至った。
・菊池神社境内に残る菊池城跡の碑
菊池武光の活躍
やがて、幕府内部では足利尊氏と弟の直義が対立、観応の擾乱が起こった。これに関連して九州に直義の養子直冬が入り、九州は武家方と宮方の対立に加えて直冬が第三の勢力となった。探題一色範氏と相容れなかった少弐頼尚は直冬を支援し、直冬の勢力がにわかに拡大した。範氏は幕府に支援を求めたが直義方が優勢であったため、幕府は援軍を送れないばかりか直冬を九州探題に任じた。窮した範氏は宮方と連合し、太宰府の直冬を東西から挟撃する作戦に出た。ところが、擾乱は直義が敗れ、正平七年に直義が鎌倉で殺害されたことで終息した。後楯をなくした直冬の声望は地に落ち、直冬は中国に逃れ去った。
探題一色範氏は少弐頼尚を攻撃、頼尚は菊池武光に支援を求めた。翌正平八年、武光は頼尚を支援して太宰府の南にある針摺原で一色軍と戦い、これに壊滅的打撃を与えた。針摺原の戦いの勝利によって、九州宮方の勢力は大きく伸長した。正平十年、懐良親王は菊池武澄、五條良氏、少弐頼資らを率いて肥前・豊後を転戦、大友氏泰を降伏させた。ついで博多を攻めて、一色範氏らを長門に駆逐した。かくして、少弐・大友・島津氏ら九州三人衆をはじめ九州の有力な武士はことごとく懐良親王に帰服した。
ところで、武光ののち菊池氏からの庶子家分出現象は見られなくなる。これは、打ち続く軍事活動のなかで、庶子は惣領武光に指揮され、新たな支配・被支配体制が成立した。そして、菊池氏は新たな惣領体制を確立し、所領・所職は惣領に集中し、嫡子に相続される嫡子単独相続制が確立されたようだ。
さて、菊池氏と結んで一色氏を撃退することに成功した少弐氏は武家方に転じ、菊池武光を筑後・筑前方面に誘い出し、大友氏とともにこれを挟撃しようとした。これを察した武光は、進んで筑前・筑後に進出した。かくして正平十四年、武光は懐良親王を奉じて筑後川の南岸、高良山に陣を布いた。対する頼尚は子の直資ら一族、筑前・筑後の武家方、肥前の松浦・龍造寺・深堀らを動員して筑後川の北味坂庄に陣をとった。戦いは武光が火蓋を切り、つねに先手をとって少弐氏を圧迫した。大保原合戦(筑後川の戦)と呼ばれる戦いで、宮方と武家方とが九州を二分する決戦だったが、武光は夜襲によって武家方を撃破した。
この勝利によって武光は筑前を統一し、正平十六年には大宰府をおさえ、同二十年には征西府を置いた。かくして、武光は九州における南朝の最盛期を現出したのであった。
戦国乱世への序奏
九州の情勢をみた幕府は、斯波氏経、ついで渋川義行を九州探題に任じたが征西府に対抗することはできなかった。そして、応安四年(1371)、今川了俊を九州探題に任じて事態の収拾に当たった。これに対して武光は嫡男の武政とともに対抗したが、了俊の卓越した作戦によって太宰府を失い高良山に走った。
以後、懐良親王と菊池武光は今川了俊と対峙を続け、次第に劣勢に追い込まれていった。そのような文中二年(1373)、菊池武光は波乱の生涯を閉じた。武光の死後、武政があとを継いだが、武政には父武光ほどの力量はなく、九州宮方勢力はいよいよ衰退の色を濃くしていった。そして、翌三年には武政も病死してしまった。武光、武政の相次ぐ死によって菊池氏は大打撃を受けた。
武政のあとは武朝が継いだがわずか十二歳の少年であり、宮方の士気はいよいよ振るわなくなった。天授二年(1376)、菊池武朝は阿蘇惟武とともに肥前国府に布陣、翌年、大内義弘、大友親世らと激戦となった。宮方は完敗して惟武は戦死し、武朝はかろうじて菊池に逃げ帰ることができた。以後、九州宮方は振るわなくなり、ついに明徳三年(1392)南北朝の合一がなった。
その後、今川了俊が探題職を解任されて京都に召還され、了俊の後任の探題には渋川満頼が任じられた。菊池武朝はこれに抵抗したが、応永五年(1398)、武朝もついに幕府に帰服して九州の南北朝の争乱も終わりをつげた。武朝は肥後守護を得て一応の勢力を保ち、やがて、少弐氏や大友氏と結んで探題渋川氏を支援する大内氏と抗争した。武朝は応永十四年に死去し、嫡男の兼朝が家督を継承した。
兼朝も大内氏=探題渋川氏と対立し、少弐氏と結んでしばしば筑前にや豊前に出兵して大内氏と戦った。そして、永享三年(1431)、家督を嫡男の持朝に譲って隠居した。持直は兼朝と異なって幕府方の立場を示し、大内氏と結んで少弐氏と対立した。持朝は父兼朝の支持を得る弟の忠親を自殺に追い込み、一族庶家に対する統制を強め惣領の権勢を強化することにつとめた。
持朝のあとを継いだ為邦の代になると肥後に加えて筑後の守護に補任されたが、相良氏をはじめとした国人衆の台頭に苦しめられ、筑後守護も大内氏に奪われてしまった。さらに一族の内訌が起こるなど、一族・国衆の統制に苦労した。その一方で、朝鮮貿易を行うなど対外貿易を盛んにしたが、この為邦のころより菊池氏は衰退の色を見せるようになった。
菊池氏の衰退
文明十三年(1481)、菊池重朝の「万句連歌発句」が、隈府に居住する城・隈部などの館において挙行された。この催しに肥後北部七郡の武士たちが参加した。「万句連歌発句」が催されたとき、京都では応仁の乱の戦いが繰り返されており、世の中は戦国時代へと移行しつつあった。この年、重朝の叔父宇土為光が守護職を望んで重朝に叛旗を翻した。これに相良為続が加担して、一大争乱となったが、重朝は為光を追放した。その後、重朝は阿蘇氏の内訌に介入し、文明十七年、幕の平において敗北、菊池宗家の権威はいちじるしく低下した。
明応二年(1493)、重朝が死去すると、そのあとは若冠十二歳の武運(能運)が継いだ。能運を若年と侮った重臣隈部氏が、相良氏と結んで謀叛を起したが、武運はこれを征圧した、しかし、家中の動揺は続き、文亀元年(1501)武運が城を留守にした隙をついた為光によって隈府城は陥落した。武運は肥後・筑後の兵をもって隈府城に迫り、玉祥寺原において宇土勢と激突した。菊池方は奮戦したものの、菊池武安をはじめ黒木為実・西牟田重家ら勇将、猛卒ら数百人が戦死する敗北を喫した。玉名に逃れた武運は、再起を期して有馬家を頼った。
有馬家に庇護されていたとき、武運の名が「不運」につながるということで、能運に改名したという。それが効を奏したのか、文亀三年、城氏・有馬氏らの応援を受け、さらに相良長毎の協力をえた能連は、島原の援軍を率いて玉名に上陸した。これを聞いた為光は、兵を率いて高瀬に向かい能連と戦った。激戦の結果、能連方の勝利となり宇土城に逃れた為光を攻撃、ついに自刃においこんだ。かくして能連は隈部城に復帰したが、高瀬の戦いにおける戦傷が癒えず、二十五歳を一期として死去した。その後、菊池氏は能連の遺言もあって、一族から政隆(政朝)が守護職として迎えられた。
菊池氏の衰退をみた阿蘇大宮司惟長は、肥後守護職を望むようになり、豊後の大友義長と結んで菊池氏の家臣団に揺さぶりをかけた。城・赤星・隈部氏らの菊池氏家臣二十二名は、永正二年(1505)、守護職にある菊池政隆を排斥して惟長を守護に迎える起請文を提出した。とはいえ、政隆を応援する家臣もおり、惟長は大友義長の応援をえて肥後に侵攻、政隆を隈府城から追い払った。こうして、阿蘇惟長が隈府城に乗り込み菊池武経と名乗って肥後守護職についたのである。
やがて守護とは名ばかりで大友氏の傀儡に過ぎないことを思い知らされた武経は、次第に自暴自棄となり、驕慢な態度をみせるようになったため、家臣らも武経を疎んじるようになった。大友氏からの圧迫と、家臣団の下剋上的傾向に嫌気のさした武経は、ついに永正八年、隈府城を逃げだして矢部にもどった。武経が去ったあと、菊池氏の重臣らはただちに菊池一族の武包を迎えて新守護とした。すでに、菊池氏の家督と肥後守護職は、大友氏や家臣らによって簡単に首のすげかえが行われる存在に過ぎなかったのである。
菊池氏の滅亡とその後
永正十五年(1518)、大友氏を継いだ義鑑は、菊池氏重臣に迫って武包を追放させると、同十七年、弟の重治を菊池に入れ肥後守護としてしまった。重治は隈府城に入ったが、やがて鹿子木親員、田島一族の支持を得て隈本城に落ち着いた。これは、菊池家中における実力者である隈部・赤星・城氏らを、重治が嫌った結果でもあった。かくして、肥後守護となった重治であったが、次第に大友宗家から自立する動きを見せはじめた。
しかし、菊池氏の重臣らは義武に同調せず、追いつめられた義武は肥前の有馬氏を頼って肥後から逃れ去った。肥後守護職は義鑑が補任されたが、その後も義武は相良氏や島津氏を恃んで、義鑑との対立を続け隈本への復帰を画策した。そのようななかの天文十九年(1547)、義鑑が二階崩れの変で横死すると、義武は鹿子木氏・田島氏らの協力を得て隈本城に復帰した。一方、義鑑のあとを継いだ義鎮は家中の混乱を治めると、城氏、小代氏らの支持を得て、肥後に進攻すると翌年には肥後の中北部を征圧し、義武を隈本城から追い出した。
義武は相良晴広を頼ったが、義鎮は相良氏に働きかけて義武を豊後に呼び寄せ、天文二十三年(1544)、その途中で殺害した。ここにおいて、菊池氏は名実ともに滅亡したといえよう。
ところで、宇土為光の謀叛によって肥後を逃れた能運は、妻子を弟重房に依頼して日向国米良の山中に落した。米良に拠点をおいた幼主は成長ののち菊池姓を隠し、天姓米良と改め、米良石見守重次と称した。その後、米良の領主として戦国時代に身を処し、近世に生き残った。子孫は表交代寄合の一家となり、代々、大名並の扱いを受け幕末に至った。、明治維新後、男爵を授けられ華族に列した。・2005年08月12日
【参考資料:熊本県史/菊鹿町史/鹿央町史/菊池氏を中心とせる米良史 ほか】
■参考略系図
・菊池氏の出自については諸説があるが、古代鞠智氏の後裔とするものもある。とはいえ、藤原氏の流れとするものが多い。このページでは、藤原蔵規を祖とする系図を掲載。
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
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安逸を貪った公家に代わって武家政権を樹立した源頼朝、
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