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肥前西郷氏
●並び鷹の羽
●肥後菊池氏一族
掲載した西郷氏の家紋は、菊池氏一族という説から推して、菊池氏の代表紋である鷹羽紋を仮に掲載したものです。
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西郷氏は、鎌倉時代後期から肥前国、伊佐早(諌早)荘南部および島原半島の高来郡西郷一帯にかけて勢力を振るった一族のようである。その出自は肥後菊池氏の一族とするもの、肥前綾部氏の一族とする説などがある。文献上の初見は『河上神社文書』で、正和四年(1315)河上宮造営用途をめぐる訴訟に関して、西郷藤三郎幸朝の名がある。
南北朝時代には、瑞穂町にある杉峰城主として西郷次郎の名がみえる。南北朝時代のはじめ、九州探題、征西宮、足利直冬の三者が九州に鼎立したとき、西郷氏が足利直冬の執事的位置にあった小俣氏連と合戦したとの記録もあり、西郷氏は南朝方として活動していたようだ。
西郷氏が南朝方に立ったのは、菊池氏との関係が背後にあったものと思われる。また、領地を接する伊佐早氏は、北朝方に属して西郷氏の領地を侵すということもあったため、西郷氏は有馬・大村氏らと結んで北朝勢に対立したのであろう。南北朝の合一がなったのち、伊佐早氏は勢力を失っていった。そして、戦国初期の文明年間(1469〜87)西郷石見守尚善が伊佐早次郎入道を討って、諌早の地に進出したようだ。
西郷氏の台頭
西郷氏が諌早城主として文献上にあらわれるのは文明六年(1474)のことで、南北朝時代の西郷次郎から尚善まで、百十余年にわたる西郷氏の事蹟はまったくうかがい知ることができない。
文明六年(1474)、有馬貴純が大村純伊を攻めたとき、その軍中に西郷尚善は安富下野守、島原純延らとともに加わった。とくに、西郷尚善は有馬方の先鋒として奮戦、有馬氏の勝利に大きく貢献した。この戦いによって、西郷尚善は武名を近隣に響かせたのである。
有馬氏に敗れた大村純伊は、身ひとつで居城を逃れて唐津に出奔し、大村領はまったく有馬氏領となった。文明十二年、渋江公勢、波多・千葉・平井氏らの応援を得た純伊は、領内の旧臣らを糾合して兵を挙げ、伊佐早領に進出する勢いをみせた。尚善はただちに伊佐早城を出撃すると、大村氏を迎撃するべく陣を布いた。しかし、純伊の重臣鈴木道意の諌めで、大村氏と有馬氏との間に和議が成立して戦いは回避された。
このころ、尚善は深堀氏と交流があったようで、深堀善時の烏帽子親をつとめ、善の一字を与えている。そして、のちに尚善の孫純賢が男子のなかった善時の養子となり深堀氏を継いだ。
尚善は宇木城および船越城を経て、高城を築いてこれに移ったという。高城は本明川を天然の堀とし、城からは広大な諌早平野を展望することができた。何よりも、重要な東西南北の交通の要衝に位置しており、西郷氏が本拠としたのも十分にうなづける。尚善は軍備を整える一方で、用水路を設けて新田の開発、干拓事業を行うなど、領内の開発にも意を用いた。さらに、諌早天祐寺を創建するなど信仰心の篤い人物でもあった。
このように、西郷氏は尚善の活躍で藤津・杵島にまで勢力範囲を広げ、戦国領主としての基礎を築いたのである。尚善は男子に恵まれなかったため、有馬晴純の弟純久を養子に迎えていた。尚善のあとを継いだ純久は内政に尽くしたというが、その事蹟は明確ではない。
肥前の戦国乱世
純久には三人の男子があり嫡男の純堯は西郷氏の惣領となり、二男の純門は宇木城主に、三男の純賢は深堀善時のあとを継いだ。そして、女子(純堯の女とする説もある)は大村純忠の室となった。
そもそも戦国時代のはじめの肥前は、少弐氏を中心として東部に千葉氏・龍造寺氏、南西部に有馬氏、北西部に松浦党が割拠していた。そして、少弐氏と対立する大内氏の勢力が探題渋川氏を応援するかたちで肥前に伸びていた。少弐氏と大内氏の戦いはおおむね少弐氏が劣勢で、少弐氏の衰退とともに国衆らの勢力が拡大し、とくに龍造寺氏の台頭がいちじるしかった。一方、有馬氏の勢力も肥前の東部に及ぶまでに膨張していった。
天文年間(1532〜54)、千葉氏に内紛が生じると、有馬晴純は小城郡内に進出しようとした。これに対して龍造寺家兼は千葉・少弐・龍造寺三家の協力体制をつくりあげ、有馬氏の進出を阻止した。このころ、龍造寺家兼と一門は全盛期にあり、少弐冬尚の重臣馬場頼周は、龍造寺排斥の謀略を進めた。これに有馬晴純、波多氏、多久氏らが加担し、偽りの反乱を企て、討伐に出てきた龍造寺一族を翻弄した。諸所で手痛い敗北を喫した龍造寺一族は佐賀へ退却し、これを追撃した有馬氏らは佐嘉城を包囲した。
龍造寺家兼は筑後に落ち、一族の主だった者も思いおもいに城から出て入った。しかし、馬場氏らの待ち伏せによってことごとく討たれて龍造寺氏は壊滅した。その後、家兼は佐嘉に復帰し、馬場氏らを討つと曾孫の隆信に家督を継がせた。以後、隆信は大内氏と結んで失地回復を図り、着々と肥前東部に勢力を拡大していった。
天文二十年(1551)、大内義隆が重臣の陶隆房(のち晴賢)によって殺害されると、後ろ楯を失った隆信は肥前から追われた。やがて、肥前に復帰した隆信は少弐冬尚を攻め、永禄二年(1559)正月、冬尚を勢福寺城において自刃させた。以後、隆信は東肥前の国衆を次々と降して、永禄四年には肥前東部を支配下においた。
これをみた大友宗麟は隆信を討つため少弐政興を取立て、有馬仙岩(晴純)や波多氏、松浦氏、大村純忠らに協力を求め佐嘉城を攻撃しようとした。永禄五年、仙岩の子義貞を大将とする有馬軍は杵島の横辺田まで進出した。義貞は軍を二手に分け、一手を大村純忠に指揮させて須古に、もう一手は西郷純堯に率いらせて多久から小城に進出させた。
梟雄、西郷純堯
有馬軍の進出を知った隆信は、龍造寺一族と鍋島一門に須古口を固めさせ、千葉胤連をはじめとした鴨打・徳島・持永氏らに多久口を防がせるため丹坂口に向かわせた。そのまま戦線は膠着状態となり、やがて、有馬方の島原氏が佐賀勢に敗れ、松浦党の鶴田・山代・波多氏らが龍造寺方に走った。有馬勢は数において優勢だったが、その戦いぶりは生温いものであった。やがて、戦いは本格化し、純堯は丹坂口に向かい小城を突こうとして千葉胤連勢に襲いかかった。激戦のなかで胤連は隆信に援兵を求め、隆信はただちに援軍を送った。
戦いは次第に有馬方が押され気味となり、ついには崩れ立ち、有馬軍は混乱状態となり大敗を喫した。戦線を離脱した純堯は多久を経て藤津に逃れようとしたが、後藤貴明が龍造寺方に転じたため、有田に出て平戸松浦氏を頼り、その支援によってようやく諌早城に帰ることができた。
翌年、西郷氏は有馬氏から離反して、武雄の後藤、平戸の松浦と会盟して大村純忠を攻めようとした。これに対して有馬氏は純堯を討たんとして、梅津まで攻め込んだ。純堯は多くの討死を出して有馬軍をよく撃退した。以後、純堯は有馬氏との抗争を繰り返すことになる。
純堯の妻は有馬義貞の姉(娘とも)といい、有馬氏の準一門という関係にあった。そして、有馬氏麾下として、島原純茂と並ぶ老臣であり、有馬氏の東肥前に対する最前線を守っていた。それゆえに有馬氏が龍造寺氏に押されるようになると、諌早は龍造寺氏の勢力に直面することになり、ついには龍造寺氏に従うようになったのである。
元亀三年(1572)、純堯は深堀純賢と図って大村純忠を攻撃、純賢は長崎氏を攻撃した。純賢は長崎氏の館や村、教会を焼きはらったが、キリシタン武士や村落民の抵抗を潰し得なかったことで兵を引き揚げた。一方、純堯は大村純忠が戦死したとのデマが飛ぶほどに攻め立てたが、純忠の反撃によってこちらも兵を引いている。
大村氏との抗争
ところで、純堯は熱心な仏教徒で、キリシタンに入信た大村純忠を苦々しく思っていた。さらに、純堯はルイス=フロイスの『日本史』によれば「有馬義貞を家来同然に扱い」、キリシタンに入信しようとした義貞は、純堯をはばかって入信を逡巡するほどであった。そのためフロイスは、純堯について「詭計、策略、欺瞞の点では、下の殿たちの第一人者であった」と、きわめて手厳しい評価をしている。
大村攻めが思うようにいかないことに苛立った純堯は、武力によらず、計略を用いて純忠を殺害し、大村氏領を併呑しようとした。天正元年(1573)、純堯は純忠の実兄にあたる有馬義貞に命じて純忠を誘殺しようと企んだ。しかし、弟純忠を不憫に思った義貞が純堯の謀略を純忠に知らせた。そして、純堯の純忠に対する憎悪の主な原因は純忠のキリスト入信したことであると伝え、キリシタンであることを止めれば純堯と敵対することもなくなると忠告した。これに対して純忠は、「自分がキリシタンであることには異義を唱えないでいただきたい。自分は領国・家・家臣、および生命を失っても棄教はしない」と断固たる態度をもって答えた。
純堯は義貞を訪ねた純忠が高城城下を通るとき、自分に儀礼的訪問を行うものと確信してかれが来るのを手ぐすねひいて待っていた。しかし、兄から純堯の奸計を聞いていた純忠は、急な病のため今回は訪問できないと伝え、城下を馬で疾駆してあやうく純堯の謀略にはまることから逃れえた。
その後も純堯は、純賢と結んで大村・長崎氏攻撃は断続的に行たが、その都度、大村氏の援軍を得る純景によって攻撃は退けられた。天正八年(1580)の戦いも、大村・長崎連合軍によって西郷勢は敗戦を被った。このとき、深堀の兵四百は森崎に砦を構えて迎撃の態勢をとったが、長崎純景が自ら三百の兵を指揮し桜馬場城を出て森崎に向かい、それに大村の援軍も加わったため深堀の兵も破られた。以後、森崎の小山を勝山と呼ばれるようになった。これが、今日の長崎市勝山町の起源である。
ところで、『歴代鎮西要略』には、天正五年、龍造寺隆信が純堯を討とうとして諌早に出陣してくることを知った純堯は、有馬氏に救援を求めた。ところが、神代・島原・安富の各氏が隆信方に付いたため、有馬氏は純堯に援兵を送ることができなかった。純堯はひとり龍造寺軍を迎撃することになったが、弟の深堀純賢が仲介の労をとって和議が成立、純堯は危機を回避することができた。
この和議によって、純堯の嫡男二郎三郎純尚は隆信の婿となり、隆信の一字をもらって信尚と改めた。純堯は隠居し、ほどなく死去したといわれている。この一件をもって西郷氏は、有馬氏からまったく離反した。
西郷氏の没落
やがて、有馬晴信も龍造寺隆信に降ったが、隆信の残忍性を恐れた晴信は島津氏に通じて隆信から離反した。天正十二年、隆信は有馬氏を討つため三万の兵を率いて出陣、有馬・島津氏の連合軍と沖田畷で戦って戦死した。
その後、島津氏は筑後・筑前を席巻し、大友氏を討って九州統一を完成せんとした。守勢に立たされた大友宗麟は大坂に上り、豊臣秀吉に救援を請うた。大友氏に泣き付かれた豊臣秀吉は、九州征伐の命令を発し島津氏を討たんと軍を九州に送った。天正十五年、秀吉みずから九州に入ってくると、鎮西の諸将は秀吉に拝謁した。このとき、信尚は参陣・御礼を遂げなかったため、所領は没収され龍造寺家晴に与えられた。
西郷氏は抵抗を試みたが、龍造寺氏の軍の前に大敗し西郷氏は滅亡した。このとき、西郷氏の伝えた文書類はことごとく焼却されたため、西郷氏の歴史も不明となってしまった。以後、諌早の地は龍造寺氏が支配するところとなった。西郷信尚は妻の実家である平戸に逃れ、その子純久は五百石を与えられ松浦氏に仕えたと伝えられている。・2005年5月15日
【参考資料:諌早市史/西郷氏興亡全史/肥前有馬一族 ほか】
■参考略系図
・詳細系図不詳。
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二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
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丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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