出田氏
隅切角に違い鷹羽
(藤原姓菊池氏族)
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熊本城は隈本城とも書かれ、海抜五十メートルほどの高さのある茶臼山と呼ばれる山全体を取り込んで造られている。隈本城の名は南北朝期の古文書に見ることが出来るが、隈本城の位置と城主が明らかになるのは十五世紀後半になってからのことである。隈本城は応仁年間(1467〜)に菊池氏一族の出田(いでだ)山城守秀信が築城、それは今のNHK熊本放送局がある一帯で千葉城と呼ばれた。
出田氏は菊池氏三代兵藤経頼の子藤田三郎経家の子経信が、菊池郡出田村を領したことにより出田を名乗ったという。隈本城を築いた山城守秀信は肥後守護である菊地重朝の代官としての地位にあり、文明十七年、菊地重朝の命により出陣し、矢部の馬門原の戦で戦死してしまった。秀信のあとは嫡男の刑部大輔重綱が継いで千葉城主となったが、秀信ほどの勢威なかった。
守護菊池氏は、当時、飽田郡の楠原城に本拠を構えていた鹿子木三河守親員に白羽の矢を立て、明応五年(1496)、親員が隈本の地にはいった。そして、親員(寂心)は茶臼山南麓に新城を築城し、隈本城と称したのが現在の熊本城の始まりである。
重綱は男子がなかったため、城氏から政冬を養子に迎えた。以後、重基のあとを城親賢の弟親基が家督を継ぎ、親基は出田一要の名で知られ城久基の後見をつとめた。また、親基も子がなかったため、城氏から久基の弟武房を養子に迎えている。城氏が断絶したのち、武房は肥後国主として封じられた加藤氏に仕え、加藤氏が改易されたのち柳川に移住した。その後、肥後に入った細川氏に召され、子孫は熊本藩士出田氏として続いた。
【参考資料:新熊本市史/肥後読史総覧 ほか】
■参考略系図
・肥後読史総覧の出田氏系図から作成。
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