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米良氏
●丸の内揃い鷹の羽/三つ巴
●藤原氏菊池氏流
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米良氏は肥後守護職を世襲した菊池氏の後裔で、二十二代能運の子重次に始まるという。菊池氏は南北朝時代に九州勤皇方の中心として活躍したことでよく知られ、室町時代にいたってもよく勢力を保持した。筑後守護も兼ねた持朝の代に全盛を誇ったが、重朝の時、叔父宇土為光が相良氏と結んで反乱を起こし、さらに、重臣らが菊池氏をしのぐようになり、次第に衰退の色を見せるようになった。
重朝のあとを継いだ能連(武運)の代、宇土為光が菊池氏重臣らと諜し合せてふたたび叛いた。そして、文亀元年(1501)、能連が城を留守にした隙をついた為光によって隈府城は陥落した。能連は肥後・筑後の兵をもって隈府城に迫り、玉祥寺原において宇土勢と激突した。菊池方は奮戦したものの、菊池武安をはじめ黒木為実・西牟田重家ら勇将、猛卒ら数百人が戦死する敗北を喫した。玉名に逃れた能連は、再起を期して有馬家を頼った。そのとき、後顧の憂いをなくすため、妻子を弟重房に依頼して米良の山中に落した。
その後、老臣城氏、隈部氏らの応援を受け、さらに相良長毎の協力をえた能連は、島原の援軍を率いて玉名に上陸した。これを聞いた為光は、兵を率いて高瀬に向かい能連と戦った。激戦の結果、能連方の勝利となり宇土城に逃れた為光を攻撃、ついに自刃においこんだ。かくして能連は隈部城に復帰したが、高瀬の戦いにおける戦傷が癒えず、二十五歳を一期として死去した。その後、菊池氏は一族の政隆が家督を継いだが、人気がなく廃されて阿蘇氏から惟長が迎えられた。
菊池氏を継いで肥後守護となった惟長は武経と改めたが、ほどなく廃され、一族の託磨氏から武包が迎えられた。この武包もほどなく廃され、豊後守護大友氏から義武が迎えられて肥後守護となった。まさに、菊池氏の家督はめまぐるしく廃立され、天文二十三年(1544)、義武も甥の大友義鎮によって殺害され肥後菊池氏は滅亡した。
米良氏の発展
宇土為光の乱によって、能連の幼子を守って肥後から米良山中に逃れた重房は、すでに米良に住していた叔父武照をたより、さらに西郷・赤星ら菊池一族とともに銀鏡の地に落ち着いた。菊池氏の幼君の入山に対して、鈴木・銀鏡・奥松ら米良の豪族らは山民を引き連れて出迎えた。米良に拠点をおいた幼主は成長ののち菊池姓を隠し、天姓米良と改め、米良石見守重次と称した。これが、米良氏の始まりである。
ところで、銀鏡の地には南北朝時代における九州宮方の中心であった征西宮懐良親王の一族が入山し、天氏一族が繁栄していたとされる。また、重次の入山以前に重為・国重らがすでに米良に入っていて、重次は三代目とする説もあるが、年代的にうなづけないものである。一説にいわれる重為・国重は重次と同一人物とする方が妥当であろう。
さて、幼い重次を守る重房は、米良山中の統一と外征の任にあたった。こうして、肥後菊池氏は衰退したものの、米良氏は四囲の山々を自然の楯として内治につとめ、米良山中は次第に士気があがるようになったのである。
やがて米良氏の当主として活動するようになった重次は、須木城の米良信濃守、籾木の米良門慶入道、山陰の米良宮内少輔、肥後口猪之鹿倉の米良半右衛門らの先住菊池米良一族を指揮下において、相良・伊東・島津氏らと対峙した。そして、永正十五年(1518)伊東氏と和を結んで、連合して島津氏に当たることを約した。さらに、伊東氏の老臣らとも親交を結び、米良家の領域を明確にし、その独立を認めさせたのである。一方で重次は、屯田兵の制をしいて山中の民をすべて武士とした。これによって、米良の武士たちは平素は農事にあたり、いざことあるときは槍・刀をとって立ち上がったのである。
重次を補佐して米良氏の執権をつとめた重房は、さらに米良氏を安泰たらしめるため、銀鏡城を出て那須領をおかし、田代を攻めて支配下においた。そして、次男の重幸を田代城におき、孫の重義を渡川城に留めて肥後進出を企てた。また重房の嫡男重則は北進して鞍岡の甲斐氏の婿となり、米良を改めて甲斐を称して御船に入った。
乱世を生きる
重次には六人の男子があり、嫡子重種が家督を継いで米良石見守を称した。次男の重治は米良村に居城し、三男重隆は平野に居城、四男重直は山陰城主、五男の重辰は諸県紙屋を領し、六男重固は穂北一円をしたがえて花園城主となった。このように、重次の子らは力を合わせて国境を固め、ますます米良一族の勢力は拡大していったのである。そして、米良氏は伊東氏と通じて各地に出陣し、指揮下の米良武士たちの勇名を高からしめた。天文二年(1533)、伊東氏に内訌が起こると、重次は伊東左兵衛佐の請いをいれて兵を送っている。
米良山中に一定の勢力を築いた重次は、天文二十年、五十五歳をもって死去し、家督は嫡子の重種が継承した。重種の代になると、世の中はまったく戦国時代であり、九州は豊後の大友氏、日向の伊東氏、肥前の龍造寺氏、そして薩摩の島津氏が互いに覇を競い合っていた。永禄二年(1559)、重種は卒去し、そのあとは弟の重治が継いだ。重治は米良城を本城として、北の大友氏、南の伊東・島津氏、西の相良氏らに備えた。
弘治元年(1555)、相良晴広が没し義陽が家督を継いだ。義陽は十二歳の少年であったため、老臣東氏、丸目氏らが補佐した。ところが、永禄二年に至って東氏と丸目氏が対立し、ついには合戦沙汰となった。東氏は義陽を擁したため、劣勢となった丸目氏は那須氏に応援を求めた。那須氏は米良氏に支援を求め、重治はこれを承諾した。
那須氏と連盟を誓った重治は六百騎を率いて出陣したが、縁談のことで那須氏に面白くない感情を抱いていた。結果、重治は相良義陽に応じる旨を連絡し、丸目・那須の連合軍に当たった。戦いは相良・米良軍の優勢に動き、ついに、那須氏は討死、相良氏の内訌は終息した。以後、米良氏は相良氏と親交を結び、一族の米良半右衛門は相良家に客分として仕えた。
また、米良氏は伊東氏と結んで島津氏に対し、三股院ならびに飫肥をめぐる戦いが展開された。そして、三股方面は米良氏があたり、飫肥方面は伊東氏があたった。永禄十年、島津氏が米良筑後守・信濃守兄弟が拠る小林三山城に攻め寄せた。島津氏の大軍に対して、筑後守・信濃守兄弟の奮戦はすさまじく、ついに島津軍は兵を引き揚げた。
■米良・球磨概略図:
風色倶楽部(管理人satounoさま)のうち、球磨の部屋、椎葉・米良の支配から転載させていただきました。
戦国時代の終焉
重治は戦いのなかに身をおきながら、領内の寺社の修復、建立などにも尽くし、天正元年(1573)、米良城において死去した。嫡男の重鑑が家督を継承したが、家臣の策謀により、弟たちとの間に不穏な空気が流れるようになった。すなわち、叛臣らが重鑑の弟重良と重秀をそそのかし、米良を三分するように重鑑へ要求させたのである。重鑑は狭い領地を三分するのは衰退のもとだとして、弟たちの要求を退けたが、弟たちは力にかけてもと迫る有様であった。
ここに至って重鑑は、肥後を回復することで、米良山中を弟たちに与えようと決意した。そして、天正二年、重鑑は相良氏を頼って肥後に出陣していった。その途中、重鑑を亡きものにしようとする叛臣の遠矢により、むなしく落命してしまった。以後、米良家では、重鑑のたたりと呼ばれる不思議な出来事が続いたという。重鑑の死によって弟の重良が当主となり、石見守を称した。
米良氏が親交を結んだ伊東氏は日向一国を支配して、島津氏と永年抗争を続けてきたが、次第に島津氏に押されぎみとなっていった。天正五年、島津氏の日向侵略を受けた伊東義祐は、ついに十二月、佐土原城を出て大友氏を頼った。そして、義祐一行は米良を通って豊後に逃れようとした。一方、伊東家没落の報に接した重良は、山中に下知して伊東義祐の通過を保護するように命じた。また、追い討ちをかける島津軍に対して、家老浜坂民部の弟的場兵部があたり、必死の勇をもって島津勢の追撃を退けた。
こうして、米良氏の保護をえた伊東義祐は米良を通って、無事、豊後の大友氏のもとに逃れることができたのである。伊東氏を保護した大友氏は、島津氏との決戦を企図し、天正六年、日向に兵を進めたが高城・耳川の合戦に敗れ、大友氏も衰退の色を見せるようになる。
かくして、島津氏は九州統一の戦いを押し進めていった。そのころ、中央では織田信長が天下統一に邁進していたが、天正十年六月、本能寺の変で横死してしまった。そのあとは羽柴(豊臣)秀吉が継承、十三年には関白に任ぜられた。そして、大友宗麟からの支援依頼を受けた秀吉は九州征伐の軍を起こし、十五年、羽柴秀長を総大将とする大軍を九州に送ったのである。このとき、米良家では重良の弟重秀が千騎を率いて秀長軍に加わって活躍した。
近世へ
島津氏が降伏したのち、重秀は兄重良の嫡男重隆をともない精兵百騎を率いて博多に参って秀吉に謁見した。秀吉は博多において仕置を行い、米良家は米良一円を安堵された。米良家では天正の初めより重良が健康を害し、重良に代わって弟の重秀が家中の政治を取り仕切った。重秀は難しい時代にあって米良氏の舵取りを誤ることはなく、のちに米良宗家も重秀の功に対して篤く報いている。
ところで、肥後国は九州の役後、佐々成政が与えられたが、国人一揆の責任をとって改易となり、その後は加藤清正と小西行長に二分された。文禄元年(1592)の朝鮮出兵に際しては、重良の嫡男重隆が加藤清正に属して出陣、釜山に上陸した。米良軍は清正幕下にあって活躍、多くの戦功をたて、文禄三年まで朝鮮に滞陣した。
米良に帰郷した重隆が直面したのは、延岡城主高橋元種の米良領への侵略であった。慶長元年(1596)重隆が家督となり、高橋氏の侵略を阻止するため、叔父の重秀とともに上洛して奉行に訴え出た。このとき、石田三成のとりなしで秀吉に謁し、米良山の件について裁断を願い出た。重隆は家の系図を秀吉に差しだし、それを見た秀吉が米良家が菊池氏の直系で由緒正しい名門であることを認め、丁重に遇し手づから槍を授けた。そして、米良の一件は大坂城において双方対決ということになったが、高橋方の使者が登城しなかったため、米良の勝ちに決し一件は落着した。
翌慶長二年、ふたたび朝鮮出兵となり、米良重隆は二百騎を率いて相良氏とともに黒田長政の部隊に属して渡海した。このときも各地で戦功をあげたが、翌年、秀吉の死去により帰国、年末に米良に帰った。
慶長四年、島津家の家老伊集院氏が謀叛を起こし、庄内の乱が起こった。島津氏は米良氏にも支援をたのみ、重隆はみずから将となって弟の重朝、叔父の重秀らを副将とする総勢一千騎を率いて加勢に出陣した。米良氏の活躍は目覚ましく、乱が終息したのち島津氏は馬食料として千石を送り、さらに、重朝は禄千石をもって島津氏に召し抱えられた。その子孫は、島津氏に仕えて重臣に列した。
慶長五年の関ヶ原の合戦には、徳川家康に味方して所領を保全した。その後、元和元年(1615)に上洛した重隆は家康に謁して、米良家が菊池氏の直系たることを認められ、米良を旧来のように安堵された。重隆は元和九年に隠居して家督を嫡男の重直に譲った。
かくして、初代の重次が幼少の身で、危難を逃れて米良に入山してより一世紀、米良氏は家をまっとうして近世に生き残ったのである。その後、子孫は表交代寄合の一家となり、代々、大名並の扱いを受け幕末に至った。・2004年12月7日
【参考資料:菊池一族/菊池氏を中心とせる米良史/菊池氏の歴史要略 ほか】
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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そのすべての家紋画像をご覧ください!
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。
それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
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