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栖本氏
●丸に並び鷹の羽
●藤原北家菊池氏流
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栖本氏は菊池氏の一族といい、「肥後藩御士先祖の内」によれば、菊池則隆の子小島次郎保隆を祖としている。栖本氏は天草上島の栖本を中心に勢力を拡大したようだが、戦国時代に至るまでの事蹟はまったく分からない。
戦国時代のはじめ、人吉の相良氏が名和氏を逐って対岸の八代まで進出してきた。栖本氏は相良氏との関係を結び、その線から栖本氏の動向が知られるようになる。
応仁元年(1467)、京都で「応仁の乱」が起こり、この乱をきっかけとして戦国時代が始まったというのが定説である。応仁の乱は十余年わたって続き、幕府将軍の権威は失われ、日本全国は下剋上が横行する乱世となったのである。そして、守護などに代わって国衆とよばれる武士たちが勃興し、合戦が全国各地で展開された。
このころ、天草の国衆である栖本、大矢野、天草、志岐、上津浦氏らは一揆を結び、世の動きに対応しようとしていた。文明十五年(1483)、人吉の相良為続が八代の名和顕忠を攻めたとき、栖本、志岐、上津浦氏らは相良氏に味方して兵を出した。相良氏が八代を支配下においたのをみた肥後守護菊池能運は、相良氏と対抗し、相良氏を八代から人吉に追い払った。このとき、天草の各氏は相良氏を見限って菊池氏に従った。より強力な勢力に付くことによって、みずからの勢力を維持・拡大につとめたのである。
その後、菊池氏は内訌などがあって勢力を失っていき、相良氏が八代まで支配下におくようになると、栖本氏ら天草諸氏は相良氏に従った。天文十三年(1544)、栖本某(鎮通か)は相良義滋に会い、兵部少輔を称することを願い出て許されている。以後、栖本氏は相良氏との関係強化につとめている。
上津浦氏との抗争
天文十三年、栖本氏は上津浦氏の棚底城を攻略し、さらに上津浦城を攻撃して天草上島の主導権を掌握した。以後、栖本氏は上津浦氏との抗争に明け暮れることになる。
天文二十年(1551)、上津浦氏は天草・大矢野と連合して栖本氏を攻撃、これに有馬氏も援軍を送っている。弘治二年(1556)棚底城を奪還され、上津浦氏の攻勢に敗れて領内の浦々を攻撃にさらされた。栖本氏は相良氏に援軍を求めたが、上津浦氏は天草・志岐氏と連合して栖本を攻撃した。戦いは栖本氏の劣勢で、相良氏の援軍も上津浦氏の攻撃を受けて敗戦を被った。しかし、相良氏の援軍は続々と栖本に到着し、さらに天草氏との間に和議が成立した。
とはいえ、上津浦氏の栖本攻撃は続けられ、戦いは決着をみないまま年を越した。やがて、栖本勢の上津浦氏に対する反撃が開始された。しかし、上津浦氏を攻略することはできず、戦いは膠着状態となった。その後、相良氏の援軍が引き上げたことで、上津浦氏が攻勢に出てきた。これに対して栖本氏は天草氏と結んで反撃、戦いはやむことなく続けられた。
永禄元年(1558)、天草勢が上津浦を攻撃したが敗戦。勢いにのった上津浦氏は、翌二年、栖本氏を攻撃したきた。翌三年にも栖本氏は上津浦氏の攻勢にさらされた。そようななか、天草進出を目論む肥前の有馬氏が上津浦に出陣し、ついで栖本に着陣した。これをみた相良氏も、天草に兵を送った。有馬勢は上津浦で戦ったが、結局、兵を引き上げた。
やがて、永禄八年、栖本氏は志岐氏と和睦した。ところが、上津浦・天草・大矢野氏らが連合して志岐を攻めたため、栖本氏は上津浦氏と合戦となった。相良氏は栖本氏を支援して兵を派遣したが、上津浦氏は栖本の内河内を攻撃した。その一方で、天草・志岐氏、さらに相良氏との間で和平交渉が行われ、和睦が成立した。そして、翌九年栖本氏と上津浦氏の和議が進められ、ついに三十年にわたった抗争に終止符が打たれたのである。
戦国時代の終焉
戦国初期、一揆契諾を結んでいた天草諸領主のうち長島氏、宮地氏らが姿を消し、栖本・上津浦・大矢野・天草・志岐の五氏が天草郡を分割して天草五人衆と呼ばれた。そのなかで、勢力を大きく伸長したのが、志岐と天草の両氏であった。
一方、天正六年、日向において大友宗薩の軍を破った薩摩の島津氏が勢力を拡大し、天正九年には相良義陽も島津氏の攻勢に敗れてその麾下に属するようになった。そして、同年、阿蘇氏の重臣甲斐宗運と響ヶ原で戦った相良義陽は敗れて戦死した。かくして、島津氏が肥後を支配下におくようになると、天草五人衆も島津氏に従うようになった。さらに、島津氏は肥前の龍造寺隆信も討ちとり、肥後を征圧すると筑後・筑前方面に進出した。
島津氏の攻勢に窮した豊後の大友宗臨は豊臣秀吉に支援を求め、天正十四年、豊臣秀吉の九州征伐が開始された。翌年には秀吉みずから九州に下向、島津氏は秀吉の前に屈服した。その後の国割りで、肥後は佐々成政が新領主となったが、肥後一揆お引き起こした責任をとって自害した。そのあとには、肥後北部を加藤清正が、肥後南部を小西行長がそれぞれ与えられた。天草五人衆は、小西行長に与力として付けられた。
天正十七年、小西行長は宇土城普請の夫役を天草五人衆に課した。これに反発したのが志岐麟泉で、麟泉は志岐城に拠って反抗した。はじめ、栖本親高らは事態を静観していたが、ついには志岐氏に加担して小西行長、加藤清正らと戦った。しかし、結果は天草五人衆の敗戦で、戦後、志岐氏は天草から逃亡し、栖本氏らは小西氏に従った。
その後、栖本親高は梅北の乱で討死し、子の道隆は朝鮮において戦死した。そのあとは鎮弘が継いだが、関ヶ原の合戦で小西氏が改易されると加藤清正に仕えた。ところが加藤家も改易となり、その後に肥後藩主となった細川氏に親弘の子通次が召し抱えられた。通次は又七郎を称し「阿部一族」に登場する栖本又七郎その人である。・2005年5月8日
■天草五人衆:
天草氏/
志岐氏/
大矢野氏/
栖本氏/
上津浦氏
【参考資料:本渡市史/苓北町史/天草郡史料/天草の歴史 ほか】
■参考略系図
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