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志岐氏
●丸の内並び鷹の羽
●藤原氏菊池氏流
・天草切支丹記念館に展示されていた志岐麟泉のものと伝えられる鞍に「丸の内並び鷹の羽」が象嵌されていた。


 志岐氏は「志岐氏系図」によると、藤原姓で菊池氏の庶流となっている。すなわち、菊池則隆の子兵藤警固太郎経隆、その子山鹿大夫経政を経て、経政の曾孫出羽守弘家が志岐を称したことに始まるとある。しかし、一本「菊池系図」には、経隆の子に経政は見えない。
 ちなみに、志岐氏が名字とした志岐は、「和名類聚鈔」には「志記」とみえ、波太・天草・恵家・高屋とともに天草郡の五郷の一つであった。天草郡は肥後国の一郡であり、肥後を根拠地とする菊池氏の一族が、天草郡に所領を得て志岐を称したとしても不思議はない。
 とはいえ、志岐氏が天草郡に進出したのは、志岐弘家の孫兵藤左衛門尉光弘が元久二年(1205)に源実朝から、建暦二年(1212)に北条義時から天草郡内六ケ浦の地頭職を得たことに始まる。元久二年のことはともかくとして、建暦二年の「関東下文案」が残っており、志岐氏が鎌倉時代中期に六ケ浦の地頭職に補されたことは間違いない。とすれば、光弘の祖父弘家が志岐を号したことに違和感が生じてくる。また弘家の子弘宗、そして光弘ともに兵藤を称し、その後、南北朝時代の高弘に至るまで兵藤を称している。

志岐氏の勢力伸長

 さて、六ケ浦の地頭職となって志岐を称した光弘は、志岐浦を北条得宗に寄進し、その代官職を得ることで勢力を拡大していった。
 天草郡では、開発領主として天草氏ら大蔵一族が割拠しており、新興領主である志岐氏にすれば、天草氏ら在地領主との争いは避けられないものとなった。そして、その争いは天草島の中心である、本砥島をめぐって展開された。やがて、家弘を経て景光の死後、家督を継いだ景弘は継母の如性が本領の本砥を領していたのを、族縁を理由に地頭職を奪った。
 南北朝時代になると、志岐氏は鎮西管領一色範氏に属し、旧領の安堵を受けた。一方、天草氏は南朝方に属して、志岐氏と天草氏は天草郡本砥・亀河地頭職をめぐって争いを繰り返した。しかし、南北朝の争乱期において、天草の諸武士がどのような行動をとったのかは、史料も少なく不明な所が多い。
 明徳三年(1392)に南北朝合一がなると、九州南朝方の中心勢力として活躍してきた菊池氏が、そのまま肥後守護職に補任された。志岐氏は菊池氏と主従関係をもち、応永六年(1399)、高遠は菊池武朝から本砥を安堵されている。
 応仁元年(1467)に起こった応仁の乱をきっかけとして、世の中は下剋上が横行する戦国動乱の時代へと推移していった。そのようななかで、肥後守護菊池氏では重臣らが台頭、さらに一族の内訌が続き、その権威に陰りがみえてきた。明応二年(1493)、菊池重朝が死去し、そのあとを嫡男の武運が継いだ。すると同七年、重臣の隈部氏が人吉の相良氏と結んで反乱を起こした。翌八年、乱を鎮圧した武運は、志岐又二郎の元服にあたり、一字を与えて武遠(のち重弘)と名乗らせている。このころ、天草氏が勢力を強めつつあり、志岐氏としては菊池氏との関係を強化することで天草氏に対抗しようとしたのである。
 ところが、文亀元年(1501)、宇土為光が兵を挙げ隈府城を占領、武運は肥前島原に逃れた。翌年、城重峯・隈部重治らの支援を得て、為光を討ち守護職に復帰した。しかし、為光との戦いで負った傷が癒えず、永正元年(1504)、戦病死してしまった。

肥後の乱世

 そのようななかの明応期(1492〜1500)、志岐氏は天草・大矢野氏ら天草郡諸領主とともに天草一揆を結成していた。文亀元年(1501)天草一揆中は、菊池武運から八代郡小野・豊福の地を恩賞として与えられた。このとき、志岐氏をはじめ上津浦・宮地・長島、天草氏、さらに大矢野・栖本・久玉氏の名代らが蒲牟田に集まった。この面々が一揆の契諾者たちであり、志岐氏が主導的立場にあった。
 武運のあとは一族の政隆が肥後守護に擁立されたが、ほどなく重臣に追放され、そのあとには阿蘇氏から惟長が入って菊池武経と改め肥後守護となった。しかし、武経も大友氏の外圧と重臣らの不穏な気配に絶え切れず、結局、阿蘇へと逃げ帰ってしまった。以後の菊池氏はまったく、大友氏と重臣によって聾断され、ついに永正十七年(1520)には大友義鑑の弟重治(のち義武)が入って肥後守護となった。
 永正四年、志岐重遠は菊池方から益城郡砥河八十町を与えられ、同十七年には、弾正少弼遠弘(重弘)が菊池武包から益城郡守富・榎津・大町、宇土郡松山、託磨郡笛田などを恩賞として与えられている。菊池氏の内紛のなかで、志岐氏が守護家に尽くした結果であろう。しかし、菊池氏の勢力が衰退したなかで天草の本拠から遠く離れた地に所領を与えられても、志岐氏がどこまで領有権を行使しえたかは疑問である。
 とはいえ、志岐氏は菊池氏との関係を維持し続け、大永五年(1525)、武遠(重弘、弾正少弼)は菊池重治から「藤原重経」の名字と刀一振を与えられている。やがて、義武は大友義鑑と争うようになり、天文五年(1536)守護職を追われ、菊池氏による肥後支配は実質的に終焉をむかえた。その後、肥後守護職は大友義鑑が補任された。
 菊池義武は肥後を追われたのちも、相良氏らの支援を得て回復の機会を狙っていた。天文十九年(1550)、大友義鑑が二階崩れの変で横死し、嫡男の義鎮が家督を継承した。この機会を捉えた義武は旧臣を催し、さらに筑後の国衆らの協力を得て、反大友の兵を挙げた。しかし、結果は大友義鎮の勝利に帰し、ふたたび義武は肥後を逃れたが、結局、義鑑に謀殺された。義武のあとを継いだ重鑑(高鑑)は、弘治二年(1556)、志岐氏に肥後国の内に五十町の所領を預けた。すでに菊池氏の実態はなく、名目だけのことであったが、天草郡内における志岐氏の力が高い評価を得ていたことはうなづけよう。

志岐麟泉の活躍

 こうして、大友義鎮が肥後守護となり、時代はさらに大きく変化することになる。そして、志岐氏は重弘に代わって鎮経(麟泉)が登場しくるのである。鎮経の鎮は大友義鎮から一字を賜ったもので、大友氏の麾下として勢力をさらに拡大していった。
 九州の戦国時代は、中国の大内氏と対抗する少弐氏と少弐氏を支援する大友氏、一方で、薩摩・大隅を中心として着々と勢力を拡大する島津氏の動向で、時代が動いていた。やがて、大内氏が滅亡すると、大友氏がにわかに勢力を強大化して北九州を席巻するようになった。そのなかで、少弐氏の麾下から台頭し、ついには少弐氏を滅ぼした龍造寺隆信が台頭してきた。そして、戦国時代後期になると、南の島津氏、北の大友氏、そして西部の龍造寺氏の三氏が鼎立状態となった。
 天草郡では、志岐氏と天草氏を双璧に大矢野・上津浦・栖本の五氏が天草五人衆として割拠し、近隣の有力大名の影響を請けながら、みずからの勢力の維持・拡大にしのぎを削っていた。志岐鎮経は大友氏に属していたことから豊後守を名乗り、義鎮が出家して宗麟と名乗ると「麟」の一字をもらって麟泉を号した。

■天草五人衆割拠図

天草五人衆

 大友宗麟はキリシタン大名としても有名で、麟泉も宗麟にならってキリスト教に興味を示し、永禄九年(1566)に領内への布教を許した。子のなかった麟泉は有馬晴純の子諸経を養子に迎え、諸経は敬虔なキリシタン大名大村純忠の弟でもあった。これらの関係から、麟泉は有馬氏に依頼してアルメイダ修道士を呼び、ビレラ司祭らの布教を認めたのである。これが、天草におけるキリスト教の歴史のはじめとなった。永禄十二年(1569)には、天草氏もアルメイダを河内浦に招きキリシタンの布教を行い、天草全土にキリスト教が広まっていった。
 麟泉はみずからも洗礼を受けてドン・ジョアンと称したが、その狙いは南蛮貿易の利益にあった。しかし、麟泉の領内には良港がなく貿易はそれほど活発とはならなかった。元亀元年(1570)、カブラル司祭が志岐に来航したが、以後、貿易船の来航が跡絶えると麟泉は一変してキリシタン迫害を行うようになった。ルイス・フロイスの「日本史」には、大友宗麟、天草鎮尚らは好意をもって記されているが、麟泉への評価はすこぶる悪いのは致し方ないことといえよう。

戦国時代の終焉

 天正六年(1578)、大友宗麟は日向に侵攻して島津軍と戦った。世に耳川の合戦とよばれる戦いで、大友氏は壊滅的敗北を喫し、以後、衰退の一途をたどるようになった。宗麟の敗北をみた龍造寺隆信は筑後に侵攻すると、大友方の諸勢力を降していった。島津氏は肥後・日向に侵攻して、着々と北上作戦を展開するようになった。
 筑後を征圧した龍造寺隆信は肥後にも進出し、島津氏と境を接するようになった。天正八年、隆信みずからが兵を率いて志岐城に攻め寄せた。猛烈な龍造寺軍の攻撃に麟泉は敗れ、人質を出して隆信に降った。ここに、麟泉は勢力を維持するため新たな政治対応を迫られた。麟泉の嗣子は有馬晴純の五男諸経を迎えたもので、このころ有馬氏は龍造寺隆信に属していた。しかし、その一方で諸経の妻に薩摩和泉の島津義虎の女を迎えて、龍造寺氏と島津氏の双方に対して巧みな外交を展開した。かくして、麟泉は勢力の安泰を図るとともに天草氏を牽制した。
 龍造寺隆信の勢力はさらに拡大を続けたが、天正十年、有馬晴信が島津氏と結んで隆信から離反した。志岐麟泉父子もこれに同意し、有馬・島津連合軍の一翼を担うことになった。天正十二年、龍造寺隆信は有馬氏を討つため、みずから三万の兵を率いて島原半島の神代に上陸した。戦いは島原の沖田畷で行われ、有馬・島津連合軍の計略と奮戦で龍造寺軍が敗退し、隆信もまさかの戦死をとげた。
 島津氏にとって残る敵は大友氏ばかりとなり、豊後への侵攻が進められた。一方、島津氏の攻勢に窮した宗麟は、上洛して豊臣秀吉に救援を請うた。秀吉はこれをいれ、天正十四年陣ぶれを発し、翌十五年三月、十二万の軍勢を率いて九州に入った。これにはさすがの島津氏も連戦連敗を喫し、ついに降伏して薩摩・大隅の本領を安堵された。
 志岐氏も秀吉に服属して本領を安堵され、新たに肥後の領主となった佐々成政に従った。間もなく、肥後国衆一揆が起こると、志岐氏は安国寺恵瓊に人質を送って異心のないことを示した。一揆の結果、成政は責任を問われて自害、肥後国は北部を加藤清正、南部は小西行長に与えられ、志岐氏ら天草勢は小西行長の支配に属した。

志岐氏のその後

 ところが同十七年、麟泉は小西行長の宇土城普請の夫役を拒否し、天草諸領主もこれに同調し、行長に攻められることとなった。これは、天草諸領主が古い体質のまま豊臣政権に参加したことを示している。すなわち、本領安堵の朱印状を秀吉からもらったこともあって、行長をふれ頭とみてその与力であると考え、行長からの夫役を同格の立場として拒否したようだ。かれらは秀吉政権下にあって、ふれ頭と与力とは主従関係をともなったものであることを理解していなかったのである。
 この事態にキリシタン大名でもある行長は、同じキリシタン信者が多い天草諸領主に対して、終始、懐柔策をもってあたった。行長にすれば、かれらを懲らしめる程度にとどめて、降伏すれば家臣団に組み込むつもりであったようだ。しかし、天草諸領主連合軍の反抗は強烈で、征伐に向かった行長軍は大敗を喫した。
 ここにいたって、隈本の領主加藤清正が天草諸領主連合軍討伐に加わった。清正は法華教信者でもあり、またキリシタンを心よく思っていなかった。さらに、かれは行長の対応を生ぬるいとして、一揆軍に対して自ら陣頭にたって攻めたてた。清正の奮戦によって、天草諸領主の連合軍は敗れ、麟泉は島津氏、諸経は有馬氏を頼んで逃れた。
 その後、諸経は親重と改め、文禄の役には小西行長に従って渡海した。関ヶ原の合戦で小西氏が滅亡したのちは、加藤清正に召し抱えられ、慶長十二年に死去したという。親重の子親益と親昌 も加藤氏に仕えて、親益は八代で没し、親昌は加藤氏が改易されたのち旧領の志岐に退去した。親昌の母は島津義虎の女であったことから、寛永十四年、島津氏に召し抱えられ、子孫は島津藩士として続いたと伝えている。
 一方、加藤氏改易後、親昌は一時志岐に帰っていたが、叔父にあたる入来院重高の招きにより、薩摩入来に移り子孫は幕末に及んだともいう。いずれにしろ、志岐氏の血脈は薩摩に続いたのである。・2005年4月20日

参考資料:本渡市史/苓北町史/天草郡史料 ほか】

●菊地氏の家紋─考察

■天草五人衆: 天草氏/ 志岐氏/ 大矢野氏/ 栖本氏/ 上津浦氏


■参考略系図
 
  


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