伊達氏の家臣団
伊達政宗が白河の城下を通ったとき、近臣の片倉小十郎に「此城も朝飯前にて有べ」と語ったという。また白河城主の丹羽長重には「我等数万の勢にて押し通り候はば、些か難儀さるべし」と嘲笑気味に言ったともいう。話の真偽は問うべくもないが、政宗のことばの底には、多くの家臣団を抱えている得意な気持ちがかくされているのである。
伊達氏がこうした数百千の家臣団を擁するようになったのは一朝一夕のことではないが、すでに室町時代の前半の寛正五年(1464)、伊達氏の一族かという京都聖寿院の坊主が相国寺の僧周鳳に「むかし、奥州には三千騎の兵を従えている者が七人おったが、いまは伊達ひとり七千騎を従えている」と誇らし気に語ったということが『臥雲日件録』にみえている。もちろん、この数字は誇大なものであろうが、全く信用できないとして一蹴すべきものでもない。
国人たちの家臣団化
すでに、伊達八世の宗遠は近郡近国を伐ち、城を抜き、地を取り、それらの領主たちを降したという。出羽においては長井道広を攻め、苅田郡で亘理氏を大敗させて旗下に入れ、大崎氏からはその支配下の二郡を割きとったという。そして、石田左京亮という伊達氏の家臣は長井鴇庭郡内一宇、乗願跡一宇など数カ所を宗遠から賜ったという。宗遠の跡を継いだ大膳大夫政宗も長井を攻略し、刈田郡や名取郡にも手を伸ばし、その孫持宗も信夫荘に侵入して二階堂氏と戦った。
宮城郡の国人とみられる国分胤重が、伊達尚宗の命令を受けて出羽長井の国人たちに出陣命令を伝えていることが『国分胤重軍勢催促廻文写』によって知られる。かれらは下長井の被官とされ、高玉、桑島、児玉、黒沢、海津ら十四人の名前があげられている。これとは別に、尚宗の出陣に合わせて命令が下った国人に、萩袋、小松、高畑、粟野、宮沢大津、寒河江、大立目、宮村、鮎貝、佐野、長井、桑山、丹色根、大塚および上郡山らの名前が出ている。
伊達氏は征服戦争を通じて、それぞれの地方の独立国人を旗下に入れ、村落地頭クラスの者を家臣団に編入していったから、その数は増える一方であった。
十四世の稙宗は父祖の政策を受け継ぎ、永正十七年(1520)と大永二年(1522)の両度にわたって、出羽の最上氏と戦い、亨禄元年(1528)には葛西氏を攻めてその所領を奪い、天文元年(1532)には田村地方に出陣し、同三年には葦名・二階堂・石川氏と連合して、岩城・白川氏と戦い、これを屈服せしめている。天文五年から六年にかけて、大崎義直の援軍要請を容れ、みずから一千騎を率い、宿老牧野宗興・浜田宗景もそれぞれ一千騎を率いて大崎の諸城を攻略した。
稙宗に従うのは家臣ばかりではなく、黒川・内崎・留守・懸田・武石・長江・国分・遠藤といった、なかば独立の国人も従っていた。これらの国人たちは伊達氏の威勢に押されて、軍役を勤めつつ、その傘下に編入されていったのであろう。また、稙宗はこうした国人たちとの服属関係を積極的に進めた。
有力大名家との縁組み
天文年間のはじめには、かれの娘たちを相馬顕胤・葦名盛氏・二階堂照行・田村隆顕・懸田俊宗らの室として入れ、次男義宣を大崎氏、七男晴胤を葛西氏、九男一郎を村田氏、十二男元宗を亘理氏にそれぞれ入嗣させ、親戚関係を利用して南奥州の盟主たらんとしたのである。
伊達氏の権力を構成したのは、伊達氏とともに隆盛のもとを築いた世臣たちであった。稙宗の治世にあっては牧野宗興が第一等であった。牧野家はすでに七世行朝のころに宿老をつとめている伊達家中の名家である。この宗興も含めて「蔵方之掟」や「塵介集」に連署した人々が権力の中枢にあったといえよう。すなわち、金沢・牧野・中野・浜田・富塚と、この人々に加えた、国分・万年斎・西大枝(伊藤)・峰といった人々で、立方を行い、行政を評定し、裁判を担当したのである。
そして、その下にあって行政事務を執行したのが、宍戸・飯塚・屋代・内谷・下郡山・遠藤・白石・飯淵・山家といった家臣で、かれらは、天文四年、伊達領内の棟役銭の徴収にあたっていたことが知られている。
稙宗は婚姻政策によって南奥州の国人たちとゆるやかな臣従関係をつくり出し、奥州守護職として国人たちの頂点に立とうとした。さらに、治世の後半には家臣らに対して独裁的傾向を強めてきた。
近世伊達氏家臣団へ
一家・一族・外様の制も伊達氏家臣団の構成秩序を規制しているものであった。一家・一族というのはもともと伊達宗家との嫡庶関係を基礎にして定められたものであろうが、のちになると婚姻とか奉公の深甚によって班席が決定され、伊達氏による上からの家臣団統制が、有効に機能していったものとみられる。また、一族・一家・外様の班に入らなくとも、宿老とか吏僚的奉行として伊達氏の家政に参画し実権を掌握した家臣たちは、先の「蔵方之掟」や「塵介集」連署人のなかにいくらでも見いだせるのである。
天文年間、稙宗の独裁に反発して、伊達家臣団の有力者たちが反発、伊達晴宗をかついで乱を起した。「天文の乱」である。稙宗には南奥州諸郡の婿たちが応援をし、わずかに金沢・富塚・国分らの側近がついた。結果は稙宗方の敗北となり、跡を継いだ晴宗は、有力家臣たちと妥協して、守護不入、棟役・田銭・諸公事の免除、惣成敗任命等の特権を与えた。伊達氏の大名権力は家臣団の反抗によって後退させられたのである。
そして、晴宗政権を担当したのが中野宗時と牧野久仲の父子であった。彼等の奢りは相当なものだったらしく、輝宗の討伐を誘った。「元亀の叛」といわれるものである。中野父子は輝宗の兵に急襲されて、相馬領に落ち延びていった。このときひそかに中野父子に心を合わせた家臣には、一家クラスの小梁川・白石・田手、一族の遠藤、それに伊達・信夫の一族大身がいたという。輝宗の方でもだれが敵対者なのか。読み切れなかった。天文四年(1576)、輝宗は相馬氏と対戦するとき、大身の家臣たちから、無二の奉公を致しますという誓詞を差し出させている。家臣たちを信頼できなかったのである。
中野父子の失脚のあとは、中野氏の家士であった遠藤基信が執政職についた。政宗時代には片倉・山岡・奥山・鈴木・石母田・遠藤・茂庭らが小身ながら、政宗との親近性において挙げ用いられ、伊達領の経営に力を尽した。とはいえ、上級家臣団が疎外されたわけではない。重要施策や戦略の相談には一家・一族・宿老の班にある人々が談合に加わった。また、鮎貝・大内・国分・石川・粟野・留守・亘理などの新参者や旗下に属した他家の歴々も談合衆のなかに見いだせる。国分・留守・亘理氏等は出自が伊達氏とはいいながら、天正期には伊達氏の臣下として定着した。
家臣団の反抗は、政宗治世下では見られなくなり、大名としての圧倒的優位が確立したのである。
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