近世伊達氏家臣団へ
一家・一族・外様の制も伊達氏家臣団の構成秩序を規制しているものであった。一家・一族というのはもともと伊達宗家との嫡庶関係を基礎にして定められたものであろうが、のちになると婚姻とか奉公の深甚によって班席が決定され、伊達氏による上からの家臣団統制が、有効に機能していったものとみられる。また、一族・一家・外様の班に入らなくとも、宿老とか吏僚的奉行として伊達氏の家政に参画し実権を掌握した家臣たちは、先の「蔵方之掟」や「塵介集」連署人のなかにいくらでも見いだせるのである。
天文年間、稙宗の独裁に反発して、伊達家臣団の有力者たちが反発、伊達晴宗をかついで乱を起した。「天文の乱」である。稙宗には南奥州諸郡の婿たちが応援をし、わずかに金沢・富塚・国分らの側近がついた。結果は稙宗方の敗北となり、跡を継いだ晴宗は、有力家臣たちと妥協して、守護不入、棟役・田銭・諸公事の免除、惣成敗任命等の特権を与えた。伊達氏の大名権力は家臣団の反抗によって後退させられたのである。
そして、晴宗政権を担当したのが中野宗時と牧野久仲の父子であった。彼等の奢りは相当なものだったらしく、輝宗の討伐を誘った。「元亀の叛」といわれるものである。中野父子は輝宗の兵に急襲されて、相馬領に落ち延びていった。このときひそかに中野父子に心を合わせた家臣には、一家クラスの小梁川・白石・田手、一族の遠藤、それに伊達・信夫の一族大身がいたという。輝宗の方でもだれが敵対者なのか。読み切れなかった。天文四年(1576)、輝宗は相馬氏と対戦するとき、大身の家臣たちから、無二の奉公を致しますという誓詞を差し出させている。家臣たちを信頼できなかったのである。
中野父子の失脚のあとは、中野氏の家士であった遠藤基信が執政職についた。政宗時代には片倉・山岡・奥山・鈴木・石母田・遠藤・茂庭らが小身ながら、政宗との親近性において挙げ用いられ、伊達領の経営に力を尽した。とはいえ、上級家臣団が疎外されたわけではない。重要施策や戦略の相談には一家・一族・宿老の班にある人々が談合に加わった。また、鮎貝・大内・国分・石川・粟野・留守・亘理などの新参者や旗下に属した他家の歴々も談合衆のなかに見いだせる。国分・留守・亘理氏等は出自が伊達氏とはいいながら、天正期には伊達氏の臣下として定着した。
家臣団の反抗は、政宗治世下では見られなくなり、大名としての圧倒的優位が確立したのである。
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政宗の家臣伝
・鮎貝盛次
・石川昭光
・伊東重信
・遠藤宗信
・大内定綱
・片倉景綱
・国分盛重
・小梁川盛宗
・白石宗実
・伊達成実
・茂庭延元
・留守政景
・亘理元宗
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