亘理氏
月星/九曜
(桓武平氏千葉氏族) |
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千葉常胤の三男・武石胤盛が、武石氏の初代。奥羽の領地に下向した一族がのちに亘理氏を称した。
胤盛は治承四年(1180)、父・常胤や兄弟とともに下総国国府で頼朝に参会しており、これが胤盛の初見となる。その後の目立った活躍は見られないものの、寿永元年(1182)、頼朝の嫡子・頼家が比企能員の館で生まれ、三夜・五夜・七夜・九夜の儀が催されたが、この御七夜の儀に際しては千葉介常胤が沙汰することが命じられ、胤盛は弟・胤信とともに馬をひいて庭上に現れた。このときの様子を『吾妻鑑』では「兄弟皆容儀神妙の壮士なり。武衛殊に感ぜしめたまふ」と記されている。
文治五年(1189)七月の奥州藤原氏との戦いでは、父・常胤に従って海道筋を攻め下り、八月、多賀城で頼朝と参会。そして八月二十二日、頼朝軍は大雨の降る中を平泉に入った。しかし、泰衡はすでに平泉に火を放って逐電したのちであり、頼朝はその捜索を命じている。一方で、二十五日、衣河館で胤盛の弟・東胤頼が泰衡の外祖父・藤原基成を捕らえている。
九月二十日、論功行賞が平泉において行われ、常胤は陸奥国諸郡の地頭職を与えられた。そして常胤は六人の子息にこれを分与し、胤盛は「伊具・亘理・行方郡」の三郡内の村々の地頭職を担うこととなった。しかし武石氏は、はじめの間は奥州の所領には赴かず、代官をもって支配し、みずからは鎌倉の幕府に出仕していた。
奥州へ下向
武石氏が奥州の領地に初めて下ったのは、宗胤のとき乾元元年(1302)であると伝えられる。以後、亘理城を居城として戦国時代末期まで勢力を保持した。
鎌倉幕府の滅亡後の建武新政に際しては宮方として活躍し、武石二郎左衛門尉は多賀国府の陸奥守北畠顕家の下で引付衆に任ぜられ、奥州統治に大きな役割を果たしたことが『建武年間記』から知られる。石見守高広は、延元二年(1337)北畠顕家に従って上洛し、足利尊氏の軍と戦って、翌年五月、和泉国石津において顕家とともに壮烈な戦死を遂げた。
高広のあとは広胤が継ぎ、暦応二年(1339)、居城の地名をとって武石から亘理に姓を改めた。以後、奥州武石氏は亘理氏として諸記録に現れるようになる。顕家が上方で戦死してのち、奥州の南朝勢力は振わなくなり、足利尊氏の勢力が奥州地方で決定的となった。この情勢に、広胤は上洛して尊氏から所領を認められている。
その後、永徳元年(1381)肥前守行胤は伊達宗遠と刈田郡に戦って敗れたことが知られる。とはいえ、重胤・胤茂の代には国分氏と戦って勢力の拡張をはかり、茂元のころには柴田・名取郡を服属させたと伝えられている。しかし、伊達氏の勢力が次第に強大化していき、亘里氏も伊達氏の配下に入ることを余儀なくされていった。とはいえ、伊達・相馬・国分氏らと勢力争いを演じることもあったが、宗元の代に至って伊達氏の麾下に属した。
伊達氏の麾下として奮戦
宗元のあとを継いだ宗隆には男子がなかったため、伊達稙宗の側室となっていた娘が生んだ綱宗を養って嗣子とした。ところが、綱宗は「伊達氏天文の乱」に際して、父稙宗に味方し、天文十二年三月の懸田城の攻防戦において戦死した。いまだ、十六歳の青年武将であった。綱宗が戦死したことで、弟の元宗を改めて養嗣子として亘理氏に迎えた。
弱肉強食の戦国時代にあって、小豪族は大豪族に征服されて滅びるか、臣従して生きるかのいずれかしか選択肢はなかった。亘理氏は臣従の道を選び、政略結婚として娘を稙宗のもとに差し出した。亘理氏には一族があったが、稙宗と娘の間に生まれた男子を家督に迎えることで、さらなる地位の安定をはかったのである。
元宗は伊達親族であり、またその封邑が相馬氏と近いこともあって、輝宗・政宗の命を受けて相馬氏と戦い功をあげている。天正十三年(1585)、伊達政宗は佐竹・葦名氏を中核とする反伊達連合軍と「人取橋」で戦った。連合軍は三万という大軍で、これに対する政宗軍は八千という寡勢であった。この合戦に元宗は、嫡子の重宗とともに政宗の本陣にあって連合軍と戦った。戦いは、圧倒的な大軍を動員した連合軍が優勢で、伊達勢は終始守勢に立たされた。
伊達軍の老将鬼庭良直が討たれ、政宗みずから槍をとって奮戦したが、兵力差からくる劣勢はおおいようもなく、次第に伊達勢の敗色が濃くなった。政宗に従う亘理元宗・留守政景らも奮戦し、どうにか初日は日没を迎えて両軍兵をおさめた。そして、翌日の再決戦を期した政宗は配下に酒をふるまって士気を鼓舞した。ところが、事態は思わぬ結末を迎えるのである。優勢だった連合軍がその夜のうちに陣払いをして本国へ撤退していったのである。
これは、佐竹氏の本領である常陸に里見氏、江戸氏が侵攻したという報に接した佐竹義重が兵を返したことにあった。とはいえ、伊達軍の抵抗のすざまじさもあって、佐竹氏は撤退を選択したといえよう。この「人取橋の合戦」は決定的な勝敗こそつかなかったものの、寡勢をもって連合軍の攻撃を斥けた伊達軍の不戦勝という結果となった。当然、政宗と伊達軍団の武名は一気にあがった。
政宗の覇業を支える
人取橋の合戦をしのいだ伊達政宗は、その後、相馬氏を圧迫し、さらに会津の葦名氏に決戦を挑んでこれを摺上原の合戦で撃破した。合戦に敗れた葦名義広は実家に逃げ帰り、鎌倉以来の名家葦名氏は滅亡した。政宗は黒川城に入り会津地方を制圧したため、田村・石川・岩城氏らの南奥の緒大名は政宗の麾下に属するようになった。その間、重宗は、天正十七年の相馬氏攻めに参戦し、駒ケ峰、新地城を攻略する大功をあげた。このころ、政宗軍は破竹の勢いで奥州を席巻した。
ところが、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐が開始され、政宗にも参陣が呼びかけられた。伊達家中は徹底抗戦を主張する伊達成実、参陣を主張する片倉景綱の二つの意見に分かれたが、政宗は参陣に決し小田原の豊臣秀吉のもとに参候した。その結果、伊達政宗は滅亡をまぬがれたが、会津をはじめ南奥の地を没収された。そして、翌天正十九年、政宗は岩出山城に移り、新しい領土経営の根拠地とした。
この時代の変転において、亘理氏も鎌倉時代から居城としていた亘理城から、遠田郡に所替えとなった。『亘理家譜』によれば、重宗は政宗から厚い信頼を受けていて、形勝の地に置くため、采地を遠田郡に移し、大沢村の百々城を与えられたのだとある。百々城は大崎氏の家臣百々左京亮の居城で、岩出山城の南の押えとなる軍事上の要地でもあった。重宗は百々城に入ったが、間もなく父元宗とともに涌谷城に移った。文禄三年(1594)元宗はこの涌谷城で死去している。
重宗は文禄元年の朝鮮の役に従軍し、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際しては政宗の人質として江戸に滞在するなど、軍事的に多事ななかにあったため、涌谷城下町の建設は思い通りにはならなかったようだ。本格的に涌谷城下町が営まれたのは重宗の子定宗の代になってからであった。
涌谷伊達氏として近世へ
慶長九年(1605)、重宗は家督を嫡子定宗に譲り、栗原郡高清水に隠居した。定宗は伊達政宗から伊達氏の姓を許されたが、それより先の関ヶ原の戦いに、政宗の白石城攻略に従軍し、先陣を走って戦功を上げその勇武を称えられた。慶長十九年の大坂冬の陣、翌元和元年の夏の陣にも政宗の部将として従軍した。
寛永元年(1624)采地を加増されて知行一万石となり、同八年から江戸城日比谷御門の修理を監督し、同二十一年にさらに采地を加増されて二万石の大身となった。定宗の二男安芸宗重は、仙台藩三代藩主伊達綱宗の逼塞から原田甲斐による酒井大老邸における刃傷事件にいたる「伊達騒動」の当事者として知られた人物である。
【参考資料:宮城県史/涌谷町史 ほか】
■千葉一族
http://www2s.biglobe.ne.jp/~bame/
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